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ハインリヒの身支度を調えるのは、コハクの仕事である。体を清め、衣服を纏わせ、長い髪を結ぶ。コハクはとりわけ、最後の仕事が好きだった。ハインリヒの黒髪はとても美しい。しなやかな背を覆い隠すほど長いそれは絹のように手触りが良く、櫛を通す感触が何とも言えず心地よいのだ。コハクとしてはそのまま流しておくのが一番綺麗だと思っているが、そんなわけにもいかない。コハクは椅子に座ったハインリヒの背後に立ち、いつものように時間をかけて丁寧に髪を纏め、宝石を縫い止めた飾り紐で一つに結んだ。
「できました」
コハクが声をかけると、ハインリヒは無言で椅子から立ち上がり、そのまま部屋を後にする。コハクは外套を手に取り、慌ててその背を追いかけた。今宵も『狩り』に出かける主人を見送るため、部屋の外で待っていたセバスチャンと共に、コハクはエントランスホールへと向かった。
「コハク」
「はい」
ハインリヒは玄関の扉の手前で立ち止まり、コハクを振り返った。ハインリヒに外套を着せるのはコハクの役目だ。コハクは心得たように頷き、ハインリヒの元へと駆け寄る。小柄なコハクはうんと背伸びをしなければ、長身のハインリヒには手が届かない。踵を浮かせて見上げたところ、ふいにくらりと目眩がした。
「あ」
バランスを崩し、そのまま床に頽れそうになったところを、長い腕に攫われる。慌てて駆け寄ってくるセバスチャンの姿が、朧に霞む視界の端に見えた。コハクはそれきり意識を失った。
* * * * *
目を開けると、見慣れた天井が目に入った。ここは、屋敷の数ある部屋の中でコハクに与えられた一室。使用人用の部屋ではなく、元は客室の一つだったところを使わせてもらっている。最初の頃はメイドの分際で不相応な待遇だと恐縮したものだが、セバスチャンが空部屋の掃除をする手間が一つ省けるからと言って強く勧めてくれたのだ。美しい庭に面したこの部屋は、屋敷内で最も日当たりが良い場所にあり、今ではコハクもとても気に入っている。
「ん………」
ぼんやりと瞬きをし、無造作に寝返りを打とうとしたコハクはぎょっとする。視界に飛び込んできたのは、シーツに広がる艶やかな長い黒髪。そして、吐息が触れるほど間近に見える美貌。固く閉ざされた瞼の白さに息を飲み、コハクは混乱する頭を必死に回転させた。
―――どうして、旦那様がここに?
コハクの側に寄り添うように、ハインリヒは眠っていた。まるで人形のようにぴったりと抱き寄せられたコハクは、ハインリヒの腕の中で思わず身じろいだ。その瞬間、紅の双眸がぱちりと開く。
「気づいたのか」
「あ、は、はい」
とても寝起きとは思えない程はっきりした声で尋ねられ、コハクはこくこく頷いた。同時に、玄関で昏倒したことを思い出し、青ざめる。まさか、またハインリヒの手を煩わせてしまったのだろうか。
「あの、もしかして旦那様がわたしをここへ運んでくださったのですか………?」
「ああ」
コハクの柔らかな髪を指先で弄びながら、ハインリヒはどうでも良さそうに頷いた。
「ご、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんっ。あ、今夜のお出かけは?」
「止めた」
「え?」
「お前が、髪を掴んで離さないから」
「―――――」
ハインリヒの気怠げな視線の先を追い、コハクは悲鳴を上げたくなった。なんと、いつの間にか解かれた黒髪の一束が、コハクの手の内に握りしめられているではないか。慌てて手を離し、平身低頭で謝ろうとするコハクを、ハインリヒは一瞥で制した。
「暴れるな。そんな事はどうでも良い。それより………」
ベッドに頬杖をついたハインリヒは、青ざめたコハクの頬に手を当てた。
「夜が明けたら、医者に看てもらえと、セバスが言っていた」
「医者、ですか………?」
思いがけない言葉にきょとんと首を傾げると、ハインリヒは無表情のまま続けた。
「我々と違って、人間は脆い。ちょっとした怪我や病ですぐにのたれ死ぬ。今、お前にいなくなられては困るのだ。セバスが一人でこの屋敷を管理しなければならなくなるからな」
「は、あ………」
曖昧に頷きながら、コハクはじわじわと喜びを感じていた。ハインリヒにとって、自分は必要な存在なのだ。例えそれがどんな理由であろうとも、嬉しい事に変わりはない。
その後、ハインリヒはコハクの額に口づけを落とし、部屋を後にした。最後にちらりと振り返ったハインリヒの眼差しが、いつもより少し優しく見えたのは、コハクの願望だろうか。窓の外を見ると、薄青い闇が漏れている。夜明けまで、あとわずか。
「………ハインリヒ様」
口づけられた額に手を触れ、コハクはそっと目を閉ざした。




