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ある日の事。コハクが玄関ホールの掃除をしていると、突然ノックもなく扉が開かれ、派手な女が現れた。
「あら。お前、まだ生きていたの?」
勝手に屋敷の中へ侵入してきた女は、箒を持ったまま立ちつくすコハクを見て蔑むように笑った。綺麗に結い上げられた銀髪。ハインリヒと同質の、鮮やかな紅の瞳。熟れた果実の唇。露出度の高いドレスに包まれた、悩ましい肢体。思わずため息をつきたくなるような美女だが、突き刺さるような眼差しの鋭さが痛い。
「………わたしがいてはいけませんか、ツェリル様」
「ええ、目障りだもの。もうとっくにハインに殺されていると思っていたわ」
あまりにはっきりと肯定され、コハクは怒りや悲しみよりも先に呆れてしまう。彼女の名はツェリル=カミーラ。麗しき女吸血鬼であり、ハインリヒの数多く存在する愛人の一人だ。
「全く、ハインも物好きね。こんなみっともない人間の子供を飼うなんて」
―――みっともない。
ツェリルの辛辣な言葉に、年頃の娘であるコハクは少なからず傷ついた。確かにコハクの容姿は美しさとは程遠い。ふわふわうねる髪は地味な茶色で、長さは肩までしかない。黒い瞳は顔色が悪く見えるし、胸や腰は豊満なツェリルとは比べ物にならないほど痩せっぽっちだ。こんな貧相な体を何故ハインリヒは幾度も組み敷くのかと、コハクは常々疑問に思っている。
「ねえ、ハインはまだ寝ているの?」
我が物顔で屋敷の奥に入っていこうとするツェリルを、コハクは慌てて呼び止めた。
「あの、お待ちください。旦那様は今、お出掛け中です」
「どこへ行ったの?」
「わかりません。夜が更けてすぐ、セバスチャンを連れてどこかへ………」
コハクが尋ねても、行き先は教えてもらえなかった。おそらくは人間のコハクには理解しがたいような、血生臭い事が起きる場所へ行ったのだろう。こんな時は決まって、戻ってきたハインリヒの外套に濃い血の臭いが染みついているのだ。
「ふうん。じゃあ、ハインが戻ってくるまで待たせてもらうわ。お茶を用意して」
ツェリルは当然のようにコハクへ命令すると、客間の方へ一人歩いていった。コハクは小さくため息をつき、ぽつりと呟く。
「………何て自由な人なの」
彼女は人ではないけれど。コハクは仕方なく箒を片付け、紅茶の準備をするために厨房へ向かった。
* * * * *
豪奢な長椅子にまるで女王のように腰を下ろしたツェリルは、コハクが用意した紅茶を一口含むなり、意外そうに目を瞠った。
「あら、美味しい。お前、お茶を淹れるのは上手なのね」
「ありがとうございます」
セバスチャンお手製の砂糖菓子をテーブルに置きながら、コハクは小さく頭を下げた。これでしばらく自分に用はないだろう。そのまま部屋から下がろうとしたコハクを、ツェリルは「ねえ」と呼び止めた。
「お前、名前は何だったかしら?」
「コハクです」
「まあ、名前まで平凡ね」
余計なお世話である。くすりと鼻で笑われ、さすがに不快な顔をすると、ツェリルは白く細い指でコハクの顎を掬い上げた。
「ねえ、コハク。ハインはお前をどうやって抱くの?」
「え?」
一瞬、言われた意味が理解できなかった。一気に頬を赤らめたコハクを見て、ツェリルは声を上げて笑った。
「照れる事ないじゃない。ねえ、教えてちょうだいよ。お前に触れるとき、ハインは優しい? それとも乱暴にいたぶるの?」
気づいた時には遅かった。腐った果実のような赤い瞳に見つめられ、体の自由を一切奪われた。
―――まずい。
ツェリルは美しい唇に残酷な嘲笑を浮かべ、得体の知れない恐怖に青ざめたコハクのリボンタイを解き、長い爪で器用に釦を外していく。肌蹴られた襟から現れた幼稚な体がツェリルの好奇な視線に晒され、コハクは羞恥のあまり泣きたくなった。
「まあ、本当に子供みたいね。こんな体に欲情するなんて、ハインは変態かしら」
ツェリルはおかしそうに声を立てて笑った。温度のない手が胸元から忍び込み、コハクの肌を無遠慮にまさぐる。いつの間にか、ソファの上に押し倒されていた。
「あ」
思わず声が漏れ、くすりと笑われた。
「感度だけは良いじゃない。ハインに巧く躾けられたのね。妬けちゃうわ」
ハインリヒの骨ばった長い指とは違い、柔らかく華奢な指先が、蛇のように全身を這いずり回る。気持ち悪い。それなのに、ハインリヒによって快楽の悦びを刻みつけられた体は、コハクの意思を無視して甘やかに疼き出す。
「あ、う………」
「ふふ、お前の血はどんな味がするのかしら?」
ツェリルはすっかり力が抜けたコハクの右手を取り、青い血管が浮かぶ皮膚にうっとりと口づける。ぐさりと、肉が裂ける嫌な音がした。
「痛い………!」
コハクは堪らず悲鳴を上げた。ツェリルが手首の内側に容赦なく噛みついていた。鋭い牙が肉と血管を断ち切り、勢いよく血が溢れ出す。まるで、生きながら食べられているような気がした。この時初めて、ハインリヒはいつもコハクのために手加減をしてくれていたのだと知った。ハインリヒが血を求める時は、常に痛みよりも歯痒いような快感が勝っていた。思いがけずハインリヒの優しさを知り、コハクは苦痛の中で喜びの涙を流した。
「何をしている」
ふと、地を這いずるような低い声が響いた。同時に、密着していたツェリルの体が離れていき、手首を襲っていた激痛が和らぐ。
「ハイン!」
ツェリルがコハクの血に濡れた唇で歌うような声を上げる。ようやく呪縛から解放されたコハクは、過度の貧血でふらつく頭を押さえ、何とか震える体を起こした。いつからそこにいたのだろう。漆黒の外套を羽織ったハインリヒが、闇に溶け込むように部屋の入り口に立っていた。傍らにはツェリルがべったりと寄り添い、蕩けるような甘い声で囁く。
「おかえりなさい。あなたを待っている間、退屈だから遊んであげていたのよ」
ツェリルはくすくすと軽やかに笑い、無惨な恰好で呆然と座り込むコハクに見せつけるように、ハインリヒの赤い唇へと深く口づける。ハインリヒは、拒まなかった。コハクはきゅっと唇を噛み、目の前で交わされる濃厚な行為から目を逸らす。主人の情事は見て見ぬふりをするのが使用人の礼儀である。何より、これ以上親しげに寄り添う二人を見ていたくなかった。
―――その時だった。
どさりと重い物が落ちる音がした。驚いて視線を戻すと、ハインリヒの足元にツェリルが倒れていた。かつての美貌は面影もなく恐怖に歪み、まるでミイラのようにかさかさに干からびている。血を一滴も残さず吸い尽くされたようだ。
「ひっ」
コハクは声にならない声を上げた。次の瞬間には、ツェリルの体は骨のように白い灰と化し、彼女が身に纏っていたドレスだけがその場に残されていた。
「だ、旦那様―――」
縋るように見上げれば、すぐ側にハインリヒが立っていた。ひらりと揺れた外套からは、やはり濃厚な血の臭いがした。
「コハク」
はい、と返事をする前に、容赦なく頬を打たれた。衝撃で後ろにひっくり返り、長椅子のひじ掛けに後頭部を強かにぶつけて呻く。痛い。コハクが体勢を整える前に足の間にハインリヒが膝を立て、有無を言わせず覆い被さってくる。ツェリルに乱されたスカートの裾から、冷ややかな手が這い上がり、コハクは思わずびくりと震えた。
「濡れているな」
「やっ」
「私以外の者にいかされたのか? ついこの間まで生娘だったくせに、まるで娼婦のようだな」
冷たく蔑むように笑われ、コハクは羞恥と屈辱で顔を赤らめた。コハクを淫らな女に変えたのは他ならぬハインリヒだ。初潮さえ迎えていなかったコハクの幼い体を無理やり暴き、抵抗を許さず、与えられる快楽に従順になる事を、夜毎骨の髄まで教え込んだ。あの地獄と天国の紙一重な日々の記憶が蘇り、コハクは子供のように泣きながら懇願した。
「………お許しを、ハインリヒさま」
「許さない」
その冷たい言葉とは裏腹に、ハインリヒはそっと血だらけになったコハクの手を取り、未だ出血が止まらない無惨な傷口に優しく唇を寄せた。吸血鬼の唾液には麻酔の効果があるという。ハインリヒの舌が丹念に傷痕をなぞっていくにつれ、深く抉られた皮膚から徐々に痛みが引いていく。
「お前の血を味わって良いのは、私だけだ」
「………っ」
耳元で囁かれた言葉。嬉しくて目眩がした。愚かだと分かってはいる。ハインリヒは玩具を横取りされて気まぐれに怒っているだけなのに。それでもいい。愛おしくてたまらない。
コハクは痛いほど唇を噛みしめ、込み上げてきた言葉を口にしないように飲み込んだ。