暁闇・1
コハクはぼんやりと目を開けた。いつの間に眠ってしまったのだろうか。頭の奥が霧がかかったようにもやもやとして、妙にすっきりとしない。何だか嫌な夢を見ていた気がするが、内容は思い出せそうになかった。
珍しくうつ伏せで眠っていたせいで、胸が潰れて少し息苦しい。手をついて身を起こそうとすると、手の平にシーツとはかけ離れた感触が触れた。
「え―――」
指先に感じる、なめらかな皮膚の弾力。コハクは硬直し、大きく息を飲む。同時に、ぐいと背中を抱き寄せられ、体が柔らかく沈んだ。
「あっ」
「気づいたのか」
体の下から聞き覚えのない気怠げな声が上がり、コハクは絶句する。唇が触れ合うような距離に、見たこともない男の恐るべき美貌があった。コハクよりもずっと長い艶やかな漆黒の髪。涼しげな切れ長の目元。蜜蝋のようにすべらかな肌。腐った果実のように赤い唇。その美しさはとても人間とは思えないほど冷たく鮮やかで―――。
「ひ」
思わずうっとりと見とれかけていたコハクは、短く悲鳴を上げた。吸い込まれそうなほどじっとコハクを見つめる男の瞳の色が、鮮血を垂らしたような紅であることに気づいたからだ。それは、人々から恐れられる夜の魔物、吸血鬼である証。
さらに驚くべきは、コハクは一糸まとわぬあられもない姿で、男の胸に縋り付いているいうことだった。
――― 一体何故、どうして。
コハクは混乱する頭で必死に記憶を手繰り寄せようとしたが、何も思い出せない。吸血鬼とは、その美しい姿で人々を惑わせ、生き血を啜るおぞましい化け物。彼らが狙いを定めるのは、決まって若く綺麗な娘だという。平凡な自分が襲われるはずはないと油断していたが、まさか………。
「―――っ」
コハクは青ざめ、先程からずきずきと痛みを訴える胸元に視線を落とした。何度も執拗に噛まれたのか、白い胸の間が赤黒く変色し、本来の肌の色が分からぬほど斑に染まっている。胸だけではない。肩も腕も足も、全身を埋め尽くすように、無数の痣や傷跡が散らばっているのが見える。もはや全てが手遅れだと悟った。
「コハク」
けれど、絶望するコハクとは対象的に、男はとろけるように微笑み、甘やかな声音で名を呼んだ。それはまるで、愛しい恋人に語りかけるように。コハクは激しい目眩の中で、奇妙な違和感を感じた。
なぜこの男は、己の舌を満たす家畜でしかないコハクを名前で呼ぶのか。あまつさえ、慣れた様子で腕を伸ばし、コハクの体を優しく閉じ込めようとする―――?
「いやっ」
コハクは咄嗟にその手を振り払い、男が怯んだ一瞬の隙を見計らい、腕の中から逃げ出した。そこで初めて、自分たちが横たわっていた場所が、死者が眠るはずの棺桶であることを知り、コハクは恐怖と嫌悪感でぞっと血の気が引く。
だが、すぐに己が裸であることを思い出し、慌ててその場にしゃがみ込んだ。
「コハク………?」
男はゆったりと裸身を起こし、蹲るコハクを不思議そうに見つめた。そして、一度引きかけた手を再び伸ばそうとする。コハクは男を威嚇するように大きな声で叫んだ。
「近づかないで! あなたは………誰っ?」
コハクの悲鳴じみた問いかけに、男は大きく目を瞠り、瞬きを止めた。次の瞬間、頬に強い衝撃がぶつかる。ぶたれたのだと気づいたときには、氷のような冷たい指に首を掴まれ、床に押し倒されていた。
「う―――っ」
そのまま片手で容赦なく押さえつけられ、コハクは苦しげに喘いだ。男は無言のまま、己の体の下で息も絶え絶えに震えるコハクを見下ろす。その血色の瞳には何の表情も浮かんでいない。怒りも、悦びも。ただひたすらに虚ろな闇がわだかまっているだけ。
―――死にたくない!
「いやあっ」
コハクは目の前に迫り来る死に戦慄し、滅茶苦茶に手を振り回して、上から覆い被さってくる闇から逃れようとした。
その時、爪の先にガリッと嫌な感触がした。必死に藻掻くあまり、男の頬を引っ掻いてしまったらしい。コハクは思わず動きを止め、恐る恐る男を見上げた。ぽたり、と。男の白い肌に刻まれた一筋の線から赤い雫がこぼれ、コハクの唇のすぐ横に落ちる。
ふいに、首を締めつける力が緩んだ。
「………呼べ」
低く掠れた声が、耳に届く。
「呼べ。私の名を」
再び紡がれた言葉は、先程よりも頼りなく、切ない響きを持っていた。コハクは酸素不足で霞む目をこらし、呆然と男を見上げる。男は人形のように無表情だった顔を歪め、縋るような眼差しでコハクを見つめていた。そのどこか悲しげにも見える表情が、なぜかコハクの心を強く震わせる。
「コハク」
男が促すように名を呼ぶ。だが、コハクは男が求める答えを持っていなかった。いくら考えても、コハクの記憶の中に男との繋がりを見出すことは出来ない。
コハクは弱々しく首を振った。いつのまにか涙が溢れていた。男が目を細め、つい先程までコハクの首を締め上げていた手を、コハクの濡れた頬へと伸ばそうとする。コハクは思わず目を瞑り、びくりと震えた。
「―――」
男がかすかに息を飲む音が聞こえた。
直後、唐突に体の上から重みが消える。恐る恐る瞼を開けると、男の姿はどこにもなく、コハクは一人部屋に取り残されていた。
「な………」
解放されたコハクは、痛む体を起こし、辺りを見回した。カーテンが閉め切られ、明かり一つ点されていない室内は闇に包まれ、しんと静まりかえっている。
徐々に暗がりに慣れてきた視界に映るその景色は、やはりコハクにとって見覚えのないものばかりで。いつどうやってここに連れてこられたのか、全く記憶がない。
「いや………」
コハクは傷だらけの体を抱きしめ、今にも遠ざかろうとする意識を必死で手繰り寄せた。このまま倒れるわけにはいかない。一刻も早くここから逃げ出さなければ―――。
コハクはまず己の裸体を隠すものを探した。棺桶の側に打ち捨てられていた、まるで花嫁衣装のような血染めのドレスが真っ先に視界に入るが、袖を通す気には到底なれない。
苦渋の決断の末、コハクは恐る恐る足下に落ちていた漆黒の外套を手に取った。あの男の物だろう。嫌悪感に嗚咽をこぼしながらも、冷え切った素肌の上にそれを羽織れば、ふわりと濃厚な薔薇の香りが立ち上る。
ふと、胸元に違和感を感じ、外套の内側を探れば、所々に小さな宝石が埋め込まれた美しい細身の短剣が隠されていた。護身用だろうか。刃物の扱い方に覚えはないが、丸腰であるよりはいくらかましだろう。
コハクは縋るように両手で短剣を握りしめると、貧血と恐怖で震える足を叱咤し、部屋の外へと続く扉に向かって駆け出した。




