10
月の美しい夜だった。夕食を食べ終えて風呂に入った後、コハクとヒスイは親子仲良く同じ寝床に入った。隣で眠る健やかな寝顔を見つめ、コハクはほうとため息をつく。本当に、ハインリヒによく似ている。艶やかな黒髪の手触りも、白く澱んだ肌の色も、血のように赤い唇も、まるで鏡に映したようにそっくりだ。その幼い顔にハインリヒならば絶対にしない無邪気な表情が浮かぶたび、コハクの胸は驚きと愛おしさで溢れる。
「………旦那様」
ぽつりと、囁く。今頃、ハインリヒはどうしているだろうか。きっと、コハクのことなどすっかり忘れてしまっているに違いない。それでも。
―――会いたい。
けれど、叶わない。ヒスイの命を守るためには、もう二度とハインリヒに会うことはできない。それがコハク自身で選んだ運命だ。それなのに、夜が訪れるたび、闇を纏う美しい姿を思い出しては泣きたくなる。コハクはぎゅっと、自分の体を抱きしめた。幾度夜明けを迎えれば、この狂おしい恋情を忘れることができるのだろうか………?
そのとき、誰かが玄関の扉を叩く音がした。
「………こんな夜更けに、一体誰かしら?」
怪訝に思いながらも、コハクはヒスイを起こさないようにそっと寝台から抜け出した。蝋燭を手にして扉の前まで行き、恐る恐る問いかける。
「どなたですか?」
「―――開けろ」
コハクははっと息を飲み、蝋燭を取り落とした。床に落ちた衝撃で火が消え、辺りが闇に包まれる。この声は………。
「ここを開けろと言っている。お前は主人の命令が聞けないのか、コハク」
名を呼ばれ、懐かしさのあまり涙が出そうになった。
「………旦那様」
扉の向こうに、ハインリヒがいる。予想を、していなかったわけではない。いつかこんな日がやってくるのではないかと、コハクは常に怯えていた。怯えながらも、心のどこかで密かに期待していた自分がいるのも確かで。
「―――っ」
コハクは今にも扉を開けてハインリヒの胸に飛び込もうとする衝動を必死に堪えた。コハクには守らなければいけないものがあるのだ。ハインリヒがどういう意図でここにやってきたのかは分からないが、ヒスイの存在を知らせるわけにはいかなかった。
コハクは無言でふらふらと後ずさり、固く閉ざされた扉を見つめる。吸血鬼は家主に招かれなければ、他人の家の中に入ることが出来ないという弱点があるのだ。主導権は辛うじてコハクの手にある。
「開けろ!」
痺れを切らしたハインリヒが、苛立ったように繰り返す。
「………出来ません、旦那様」
胸の前で祈るように両手を握りしめ、コハクは震える声で拒絶した。コハクはこれまで一度たりとも、ハインリヒの言葉に逆らったことはない。初めての行為に、背徳にも似た罪の意識を覚えた。
「ならば、火をつけてやろう。このような家、一瞬にして我が業火で焼き尽くしてくれる」
「そんな………!」
唸るように嗤うハインリヒの言葉に、コハクはぞっとした。生きながらに焼かれるなど、あまりに残酷すぎる。だが、ハインリヒは顔色一つ変えずに平然とやってみせるだろう。魔物である彼に、人間の良識は通用しないのだ。
「さあ、コハク。扉を開けて、今すぐそこから出てこい。そうすれば、殺しはしない」
「―――っ」
急に先程までの殺気が消え、まるで睦言のように優しく囁かれた。罠だ。分かっているのに、抗えない。蜜のように甘く濡れたハインリヒの声は、逃げだそうと必死でもがくコハクを嘲笑うように絡め取る。扉へと伸びていく手を、コハクは止められなかった。