第一話 浮世絵師と職人と猫と
本所のほど近く。
小さな平屋に、歌川豊酩という画号の浮世絵師が住んでいた。
平屋の板塀にはずんぐりとした一升用の空の通い徳利が並び、豊酩がこれまで飲んできた酒の瓶もあれば、近所の大工たちが面白がって自分たちの使わなくなった徳利を置いて行ったりもする。
それぞれの江戸中の酒屋の名が入った通い徳利たちだが、その裏には秘密があって——。
一人の旦那が通りかかり、こっそりしゃがみこんで、通い徳利の一つをくるりと横に回した。
すると、裏には猫の絵が描かれている。ひょうきんな顔をした白猫は、細長いまたたびの実で酔っ払い、上機嫌だ。その横には『小伝馬近江屋のしろ』と猫の名が書かれている。
旦那はそれを見て、ほくそ笑む。
「ふふっ、かわいいねぇ、しろ」
旦那は思わず上がってしまった口角を慌てて下ろし、通い徳利を表に戻して、何食わぬ顔でそそくさと平屋の板塀から離れていった。
それを見計らったように、ねじり鉢巻きと藍染の半被、腹掛けに股引きといった、いかにもな職人姿の若者がやってきて、平屋の引き戸を顔ほどの隙間だけ開ける。
「豊酩よぅ、いるかー?」
気軽な呼びかけに応じて、奥から返事がした。
「平吉か? 上がれ上がれ、こっち来い」
「なんだよ、出迎えもしねぇでよ」
「いいから来いってんだ!」
「ったく」
強引な家主に促され、平吉は頭を掻きながら、足を振って草履を脱ぎ、上がりこむ。
平吉にとっては他人様の家だが、勝手知ったる幼馴染の棲家でもある。
ところが、奥の八畳間にはこれでもかと乱雑に紙が広げられ、墨と筆での落書きもあれば、丁寧に岩絵具が塗られた美人画まで落ちていた。足の踏み場もない、とはまさにこのことで、ちょっと風が吹けば庭に紙が一枚、二枚と飛んでいく。
しかし、気にもしない家主は座布団に座り込んで何やら考え込んでいる。
その態度に、平吉はため息を吐いた。
「おい、庭に絵が逃げちまってるぞ」
髷に山葵色の組紐を結んだ三白眼の男、歌川豊酩は苛立って叫ぶ。
「馬鹿野郎、逃げてぇってんなら逃してやれ! そのうち帰ってくるだろうよ!」
「そんなわけあるか、馬鹿言ってねぇで拾うぞ」
「拾いたきゃ拾っとけ。オレぁ、忙しいんだ」
「何がだよ」
平吉が豊酩の視線の先を追いかければ、一枚の三毛猫の絵が襖に貼られていた。
豊酩は難儀そうな顔をしつつ、つぶやく。
「猫がよぉ」
「猫かよ」
平吉の呆れを聞く耳持たず、豊酩はつらつらと話しはじめる。
「こないだ神田の造り酒屋の猫、この『三毛のおなつ』を描きに行ったら、これがまた丸いのなんのって……んで年寄りの杜氏に聞いたらよ、大して飯をやらねぇのに太っちまうんだと」
「ふぅん」
「どっかで美味ぇ飯もらってるに違いねぇっつってよ、一緒に後追いかけたら」
「一緒に追いかけたのかよ」
「話の腰を折るんじゃねぇ、馬鹿野郎!」
「へぇへぇ」
「どこまで話した?」
「杜氏と一緒に猫を追いかけたんだろ、そんで、どうなった?」
「そうそう! したらよ、蕎麦屋でよ! 鰹節もらってんだ、あいつ!」
「まあ、猫に鰹節っつぅことわざもあるしなぁ」
「それも一軒じゃねぇ、更科の蕎麦屋でいーい宗田節の削りたてをもらって、藪蕎麦で房州の鯖節もらって、しまいにゃ客にかまぼこもらってご満悦ってな具合だ」
「いいもん食ってんな、おなつ」
「だろぉ?」
猫の話をするときの豊酩は、いつもこの調子である。
普段は気難しい酒飲みの浮世絵師のくせして、よその猫の話を口にすれば途端に江戸っ子のまくし立てる口調で惚気話だ。
江戸の酒屋は、大抵猫を飼っている。下り酒問屋などは木場も近いため、ネズミを獲る猫をよく目にする。
そこの猫好きの旦那や女将たちが、表にある自分の屋号が入った通い徳利に自分の家の猫を描いてもらうという——豊酩にとってはつけ払いのいい方法——を思いついたものだから、ご覧の有り様だ。
今では豊酩は猫絵師とまで呼ばれ、徳利仕事のほうが紙の浮世絵よりも舞い込む。猫好きの豊酩としては願ってもない仕事だった。
その依頼人が今回、神田の造り酒屋なのだろうが、豊酩は神妙に『三毛猫のおなつ』の謎を、庭で絵を拾う平吉へ語る。
「だがよ、杜氏が言うには、おなつはしっかりネズミも獲るんだよ」
「うん? 餌もらって、蕎麦屋巡りして、それでまだネズミも食うのか」
「それだけじゃねぇ、スズメもセキレイも獲る」
「そりゃあ、仕事上手な猫だな。しっかし、ちゃんと動いてんのに太るたぁ、いいもん食いすぎかねぇ」
「困ったもんだよ、丸々しすぎてオレの膝に乗ったら腹がはみ出てやがんだ。へへっ、かわいいったらありゃしねぇ、まったくよぉ」
伸びた鼻面を指で擦りながら、豊酩はまんざらでもない顔をしている。
確かに、丸々太った三毛猫が膝に乗れば、重たいよりも先にかわいらしいと思うのが豊酩だろう。
ただ、絵の土埃を叩いていた平吉は、それよりも『三毛猫のおなつ』を気にかけた。
「ひょっとして、おなつは腹に子どもがいるんじゃねぇか?」
しばし豊酩が口を開けて、無言になる。
驚きすぎたのか、正気に返った豊酩は平吉に怒りをぶつけた。
「あっ!? ばっ、馬鹿言ってんじゃねぇ! おなつはまだ二歳だぞ!」
「いや、猫は若い時分で子ども産むって聞くしよ」
「じゃあなんだ、おなつを手籠にした野郎がいるってことか!?」
「そのへんのオス猫だろ」
「ちくしょう! オレのおなつを!」
「お前のじゃねぇよ……まあ待てよ、まだ決まったわけじゃねぇ。その杜氏に、気ぃつけて様子見といてくれって伝えときゃいいだろ?」
神田の造り酒屋で飼われている『三毛猫のおなつ』に対し、ここまで恋情を抱くわオス猫への嫉妬を見せるわ、三十路に近い男のやることでは到底ないがゆえに、平吉は頭を抱える。
とはいえだ、豊酩もいっぱしの売れっ子浮世絵師だ。自分の食い扶持は稼ぎ、それどころか貧乏とは言い難い生活をしている。飲む酒に困ることもなく、衣食住も足りている。
ただ、猫が足りていないだけである。
平吉は拾った五枚の絵を豊酩へ手渡そうとしたが、やめた。そのまま、畳の上に放られている絵を一枚一枚拾い集める。
「ったく、猫好きにも程があるだろが」
「うるせぇ、オレぁ、猫が四六時中何してるか気になるだけだ」
「絵はこのへんに置いとくからな」
「おう」
「だとすると、猫にも美人や醜女がいるのかねぇ」
すると、『三毛猫のおなつ』を眺めていた豊酩は、ぴょんと座布団の上から飛び上がった。平吉はその下で踏まれそうになった絵を急いで引き抜く。
まったく気にもかけず、豊酩は明るい顔して得意げにこう言う。
「猫の美人画、ってのはどうだ? こう、鼻面がシュッとして、色毛艶がよくてよ、しっぽが太い」
「通りすがりのオス猫全部が振り向くってか?」
「そうそう! そうだよ!」
「だとしたらよ、もう描いてんじゃねぇか。表の徳利の裏によ」
平吉のその答えがよくなかった。
勧進帳の練習でもしたのだろうか、法師姿の弁慶の描かれた紙を拾って顔を上げた平吉は、いつの間にか豊酩が天を仰いでいる姿にギョッとした。
「オレぁ、あれを美人画と思わずただ手癖で描いちまってた、ってのか……!」
そう言うなり、駆け出していこうとする豊酩の袖を平吉は咄嗟に引き、そのまま豊酩を畳に転がした。
「おい、どこ行くってんだ!」
「決まってらぁ! 表の徳利の絵、全部描き直してくんだよ!」
「馬鹿、やめろ! いくつあると思ってんだ!」
「うるせぇ! オレの気が収まらねぇ!」
「あれでさっき喜んでたどっかの旦那もいんだよ! もう十分十分、どれも美人だってよ!」
立ち上がって走り出そうとギャアギャア暴れる三十路前の男を、平吉は足首を掴んで引きずって座布団に無理矢理戻した。
普段から体力のない豊酩は、すでに息が上がっており、これ以上無益な真似はしないだろう。
すっかり落ち着いたところで、豊酩は今更こう問う。
「はあ、ところでよ、おめぇ、なんで来たんだ」
「最初に聞けよてめぇ」
「うるせぇ、今聞いてやっただろが」
相変わらずの態度で、豊酩は威勢がいい。
平吉はしれっと、本来の用事を口にした。
「うちの近所でよ、子猫生まれたからいらねぇかって」
「いる」
言い終わらぬうちから、豊酩は平吉へ輝かんばかりの両目を向けてきた。
平吉の住むこの近所の長屋には、三匹の兄弟猫がいる。
そのうちの一匹がメス猫を連れてやってきて、その日のうちに長屋の空き部屋で五匹も子猫を産んだのだ。
どうやら産屋を探していたらしく、長屋の家主もその空き部屋を猫のためにと整え、餌と水を置いて使い古しの布団やら木箱も放り込んでやった。その甲斐あってか子猫はミャアミャアと元気に鳴き、長屋の住民たちもしっかりと絆されて成長を楽しみにしているが、貰い手となると貧乏長屋ではなかなか難しい。
ちゃんと金もあって世話をする猫好きを探す、となると平吉が真っ先に思い浮かぶのは豊酩だった。
「だろうと思って、頼んできたよ。まだ目も開いてねぇから、二月三月待ってからもらいにいけよ」
「んだよぉ今見てぇよぉ!」
「駄々こねんな馬鹿野郎! こんな汚ねぇ家に猫住まわせる気か!」
そもそもは豊酩も最近まで売れていなかったせいで、猫好きのくせに猫を飼えなかったのだ。売れても縁がなく、まさかそのへんの猫を攫ってくるわけにもいかず、歯噛みしながら他人の家の猫を描いていたに違いない。
文机に束になった絵を置いて、平吉が振り返ると、豊酩はまた明るい顔をして得意げにこう言った。
「いいこと思いついた。平吉、掃除頼まぁ!」
豊酩がそう言うときは、大抵いらんことを考えている。
ごそごそと押入れから巾着を取り出した豊酩は、また走り出す。
「おい、どこ行くんだ!」
「猫にゃ炬燵がいんだろ! 質屋で買ってくる!」
「おい馬鹿、今七月だろうが! くそっ、もう出てっちまったあの馬鹿!」
今度は袖を掴む暇もなく、豊酩は引き戸を勢いよく開けて出ていってしまった。
いらんことしいを世に放ってはならない。
平吉もまた、家を飛び出して豊酩を追いかけ——一町もいかないうちに、疲れてとぼとぼ歩く豊酩を捕まえ、家に戻した。
気長にやっていく長編です。そのうち続きます。




