正義を信じた少女
その少女は、父を殺した。
王である父を。
全ての決着がついた夜、王都ヒノモトは燃えていた。空を覆う黒煙の下で革命軍の旗が振られ、人々は抱き合い、涙を流しながら勝利を叫んでいた。
王城の高楼から街を見下ろす少女――日御子の足元には、相棒の黒猫が寄り添っていた。
(ようやく……終わりましたの)
父を倒し、民を救った。これで全てが良くなるはずだった。
それなのに、日御子は笑えなかった。歓声に包まれても、胸の奥に残る痛みは消えてくれない。
自分は正しいことをしたはずだ。そう信じなければ、父へ刃を向けた意味まで失ってしまう。
黒猫は何も言わず、金色の瞳で彼女を見つめていた。
◇
革命の数年前。
空は青く澄んでいた。
日御子は、王都を一望できる高台へ向かっていた。足元では黒猫が軽やかに歩き、時折、身体を脚へ擦り寄せる。その先には千年以上前の古代遺跡群が横たわり、草木に覆われた石造りの建物が陽光を浴びていた。
「今日は、遺跡を眺めながらお昼ご飯を食べますの」
「姫様、またあそこですか」
隣を歩く青年――父王の側近であり、王女付きの従者でもあるユウマが、半ば呆れたように笑った。
「絶景を見ながら食べるお弁当は格別ですの。それに、今日はデザートを二つも持ってきました」
「二つ?」
「残念ながら、ユウマの分はありませんの」
「姫様らしいです」
「んふふ。褒め言葉として受け取っておきますの」
その時、足元にいた黒猫が突然駆け出し、露店街の奥へ消えた。
「あら? またいつものやつですの?」
あとを追ったものの、路地へ入ったところで姿を見失う。
「……《王域》」
日御子の双眸が淡く光り、意識の中へ周囲の立体地図が展開された。道も建物も人の流れも、緑色の光が触れた端から像を結んでいく。
俯瞰し、見通す。それが日御子の異能だった。父はこの力を「国を支える目」と呼んでいた。
(――あれ?)
不意に頭の奥が痛んだが、すぐに消えた。日御子は大して気に留めず、立体地図に見惚れる。
「相変わらず美しいですの……」
「姫様。目的をお忘れですよ」
「……そうでしたの」
◇
《王域》を頼りに路地を曲がると、木箱の陰に黒猫が座っていた。その隣では、痩せた少年が壁にもたれている。
ぐぅ……と、小さなお腹の音が響いた。
日御子はゆっくり少年の前へしゃがみ込んだ。
「……お腹、空いていますのね」
恥ずかしそうに視線を逸らす少年へ、日御子は迷うことなく、お弁当を差し出した。
少年は恐る恐る、お弁当へ手を伸ばした。だが、その手が途中で止まった。
「……これ、お姉ちゃんのご飯でしょ?」
日御子は少年の手をそっと取ると、その中へお弁当を包みごと押し込んだ。
「あなたは育ち盛りですの。私は城へ帰れば、いつでも食べられます」
少年は目を丸くし、やがて小さく笑った。
「……いただきます」
包みを大事そうに抱きしめた少年の笑顔を見て、日御子はそっと目を伏せた。その様子を、ユウマは何も言わずに見つめている。
(こんなにも違うなんて、あなたからしたら理不尽ですよね)
同じ国に暮らしているのに、自分はデザートを二つも持ち歩き、この少年は今日の食事さえ得られない。その違いが、日御子の胸へ重く残った。
「こうなる前に、私にもっとできることがあったはずですの。本当に……ごめんなさい」
小さく呟き、丘の上にそびえる王城へ目を向けた。
◇
帰り道、日御子は兵士に連行される男を見かけた。税を納められなかった男は地面に膝をつき、病に倒れた娘の薬だけは買わせてほしいと訴えていた。
「待ちなさい。その人を連れていってはいけませんの」
「申し訳ありません。税の未納者は捕らえよとの王命です」
兵士は男を立ち上がらせた。男は娘の名を叫びながら引きずられ、集まった人々は俯いたまま道を空ける。誰も日御子と目を合わせようとしない。
王女である自分が命じても、一人の民すら救えなかった。
「なぜ、こんなことが……」
「戦争が長引き、国に余裕がないのです。税を引き上げ、未納者を取り締まるよう命じたのも王です」
ユウマの答えを聞いた日御子は、その日のうちに玉座の間を訪れた。
◇
「父上。民が苦しんでいますの」
玉座に座る王は、黙って娘の訴えを聞いていた。
「税を払えば薬を買えず、払わなければ罪人として連れていかれる。こんなことは許されません」
「戦争は国だけではできぬ。民もまた、背負わねばならぬものがある」
「それでは答えになっていません!」
声を荒らげた娘を、王は静かに見つめた。
「日御子。お前は優しい。だからこそ見えるものもあれば、お前だからこそ見えぬものもある」
何も分かっていないと言われた気がした。なおも言葉を重ねようとする日御子を、王は静かに遮った。
「ならば、お前が正しい国を作ってみせよ」
王は何かを確かめるように娘を見つめたまま、それ以上何も語らなかった。その沈黙さえ、日御子には自分の訴えを退けるものに思えた。
◇
その夜、日御子は眠れなかった。
父の言うとおり、自分には見えていないものがあるのかもしれない。王城へ届く報告を聞くだけでは、この国で何が起きているのか、本当の意味では分からない。
それならば、自分の目で確かめるしかない。
翌朝、日御子は旅支度を整えた。
「姫様。どちらへ行かれるおつもりですか?」
「この国を、自分の目で見て回りますの」
ユウマと黒猫を連れ、各地を巡った。飢えた子どもへ食事を配り、病人を診療所まで運び、戦で焼けた家を訪ねては、人々の話へ耳を傾けた。橋が落ちて孤立した集落では物資の運搬路を考え、食料の尽きた村では、余裕のある土地から融通してもらえるよう交渉した。
季節が一つ巡る頃には、護衛を申し出る者や荷車を引く者、炊き出しや物資集めを手伝う者も加わった。日御子と共に人を助けたいと願った者たちだった。その輪は、日御子が想像していた以上の速さで広がっていった。
それでも、救いを求める声が尽きることはなかった。
◇
ある日、山間の村で流行病が広がっているという報せが届いた。
日御子が駆けつけた時には、粗末な寝台が高熱に苦しむ村人で埋まっていた。咳と呻き声が絶えず、看病する者にも症状が現れ始めている。治療法はあるが、薬が足りず、このままでは近隣の村にも感染が広がってしまうという。
「薬と、医師を連れて戻りますの。それまで、どうか持ちこたえてください」
「本当に、また来てくれるの?」
母親の傍にいた幼い少女が、不安そうに日御子を見上げていた。寝台に横たわる母親の息は荒く、少女はその手を両手で握り締めている。
「ええ。約束しますの」
その小さな両手へそっと手を重ね、日御子は必ず戻ると誓った。
三日後、薬と医師を乗せた荷車を連れて村へ向かうと、山道の先に黒煙が上がっていた。
「……え?」
馬を走らせた日御子が目にしたのは、王国の紋章を掲げ、布で顔を覆った兵士たちだった。村を囲む槍と盾の向こうで家々が燃え、助けを求める声が響いている。
「何をしていますの! 今すぐ火を消し、村人を避難させなさい!」
部隊長は命令書を広げ、押された王印を示した。
「感染拡大を防ぐため、村を焼却せよとの王命です。何人たりとも外へ出すことはできません」
「病は治せます! 医師も連れてきましたの!」
「王命は絶対です」
部隊長が腕を上げ、新たな火矢が放たれる。
「《王域》!」
燃える村の全景が意識へ流れ込んだ。瓦礫で塞がれた道、崩れた家、その中に取り残された人々。
「道を開けなさい。王女である私が命じますの!」
兵士たちが槍を構える。それでも日御子は足を止めなかった。
「王女殿下へ刃を向けるな!」
部隊長の声に兵士たちが躊躇い、槍を下げる。日御子は仲間を連れ、その間を通り抜けた。
「救出した人は村の外で隔離し、医師の指示に従ってください。東の家に二人いますの! 正面は崩れます。裏手から回ってください!」
《王域》で人の位置と安全な経路を捉え、次々と指示を飛ばす。
「井戸の傍に一人! 西の道なら、まだ火が回っていませんの!」
仲間たちはすぐに散開した。荷車を引いてきた者たちが担架を作り、護衛たちは燃え落ちた柱を退かし、救出した村人を医師のもとへ運んでいく。
熱気が頬を焼き、濡らした布越しにも煙が喉へ入る。日御子は老人を背負って運び出し、倒れた梁の下から子どもを引き上げた。
その直後、ユウマが叫んだ。
「姫様、上です!」
日御子は子どもを抱いたまま飛び退いた。焼けた屋根が背後へ崩れ、炎と火の粉が噴き上がる。それでも立ち止まらず、次に助けを待つ者のもとへ走った。
どこにいるのか分かる。それなのに、炎と瓦礫に阻まれ、手が届かない者もいた。《王域》は、救えなかった人の姿まで映し続けた。
やがて炎が収まった時、村の大半は焼け落ちていた。
部隊長は生存者を一瞥し、日御子へ向き直る。
「王女殿下が王命に背き、感染者を連れ出した件は、国王陛下へ報告させていただきます」
「構いません。私は、目の前で困っている人を見捨てるつもりはありませんの」
助け出された少女が、煤に汚れた手で日御子の服を掴んだ。
「待ってたよ……」
「お姉ちゃんが、助けに来てくれるって……」
日御子は少女の母親を捜した。寝台が置かれていた家は焼け落ち、《王域》で捉えても、瓦礫の下に人の動きは見つけられなかった。
何も答えられなかった。
◇
兵士たちが去り、焼け跡には家族を呼ぶ声と、生き残った者たちの泣き声が残された。日御子は近くの野営地へ残り、黒猫だけが遠ざかる兵士たちへ低く唸り続けていた。
生存者の看護を手伝いながら、王へ事の顛末を問いただす書状をしたためる。
「これを父上へ届けてください」
数日後、王都から戻ったユウマは、王印の押された返書を差し出した。
『病の流行を防ぐため、必要な措置であった。国を背負う者は、時に一部を切り捨てねばならぬ』
何度読み返しても、記された言葉は変わらない。
「父上は……あの人たちを、本当に切り捨てたのですね」
ユウマは答えず、苦しそうに目を伏せた。その沈黙が、日御子には肯定に思えた。
飢えていた少年。税を払えず連行された男。旅の先々で助けを求めていた人々。そして、自分を信じて待ちながら、炎に呑まれた村人たち。
あの日、一人の少年へ弁当を渡しただけでは何も変わらなかった。各地を巡り、目の前の人々を助け続けても、その後ろで同じように苦しむ者が増えていった。
父が国を守るために民を切り捨て続けるのなら、もう自分が止めるしかない。
力ずくでも。
日御子は書状を握り締め、顔を上げた。
「ユウマ。これまで私たちに力を貸してくださった皆さんを集めてください」
「何をなさるおつもりですか?」
父から突きつけられた言葉が、胸をよぎった。
――お前が正しい国を作ってみせよ。
「父上を止めますの」
日御子は遠く離れた王城の方角を、真っ直ぐ見据えた。
「今度こそ、私が正しい国を作ります」
足元では、黒猫が悲しげに鳴いていた。
【第二話 王を殺した日】へ続く




