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SETSUKA  作者: meiban
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19/19

第19話 残ったぬくもり

――雪也さん。


聞こえた気がした。


風の音に紛れた、かすかな声。

聞き間違えるはずがなかった。


雪也は灯籠の光の向こうを見つめた。


白い雪が舞っている。

橙色の灯りが、ひとつ、またひとつと滲んでいる。

その奥に、人形の影が立っていた。


最初は、だれかの影かと思った。

灯籠の火が作った、ただの見間違いだと思おうとした。


けれど、違う。


その人影は、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

雪を踏む音はしない。

確かに近づいてくる。


白い息も。

足跡も。

何も残さないまま。


それでも、雪也には分かった。


「……真白」


改めて声に出すと、胸が高鳴った。

灯籠の明かりの中で、真白が立っている。


あの冬と同じように、少し照れたような笑顔を浮かべている。

その輪郭は雪明かりに溶けるように淡かった。


「はい」


真白は、小さく頷いた。


「雪也さん。来てくれたんですね」


その言葉を聞いた瞬間、何かがゆっくりほどけていく気がした。


「……来た」


言葉はそれだけ。


もっと言うべきことがあったはずだった。

どうしてここにいるのか。

本当に真白なのか。

自分は何を見ているのか。


けれど、言葉にはしなかった。


目の前にいる。

それだけで、今は十分。


真白は、雪也の手元を見た。


「お守り、持っていてくれたんですね」


雪也は、ポケットからお守りを取り出し握りしめていた。

すごく、あたたかい想いがした。


「置いていけなかった」


「ふふっ。返さなくていいって、言いましたのに」


真白は、少し得意げに笑った。


その笑い方があまりにも真白らしくて、雪也は思わず表情が緩む。


懐かしい。

けれど、懐かしいだけではなかった。


今、ここでまた会っている。

その事実がどうしようもなく胸に染み込んでくる。


「……調べたんだ。雪花村のこと。花月館のこと。この場所のこと。」


真白は黙って聞いていた。


雪也は、ゆっくり口を開いた。


「何も出てこなかった、出てきたのは、三十年前の雪崩のことだけだった」


声にすると、改めて現実が重くなる。


「花月館も、白峰神社も、何もなかった」


真白は少しだけ目を伏せた。


悲しそうにも見えた。

けれど、困ったようにも見えた。


「……そうですか」


返ってきたのは、それだけだった。


雪也は少しだけ笑った。


「驚かないんだな」

「うーん……」


真白は少し考えるように首を傾げた。


「驚いているような、知っていたような、変な感じです」


「なんだよ、それ」


「私にも、うまく言えません。」


真白は苦笑した。


その曖昧さが胸に残った。


内心、そうだろうなと思っていた。

答えをくれない。

でも、誤魔化しているわけでもない。


この村らしいなと思った。


雪也は、灯籠の光を見た。

雪の中に小さな橙色がいくつも浮かんでいる。


「僕はさ」


言葉を選びながら、雪也は続けた。


「ここに来れば、何か分かると思ってた。

 本当だったのか、夢だったのか。君たちは何だったのか」


真白は何も言わない。


「でも、ここに来てみたら、それを知ることにあまり意味がない気がした」


真白の瞳が、少しだけ揺れた。


「……どうしてですか?」


雪也は正直に答えた。


「はっきりと言葉にできないんだけど。

 たとえ夢だったとしても、幻だったとしても、真白が僕にくれたものは、

 僕が変わったことは、なくなるわけじゃないだろ」


言葉は静かに出た。

けれど、口にした瞬間、それが自分の中でずっと探していた答えに近いものだと分かった。


真白はしばらく雪也を見つめていた。


やがて、泣きそうな顔で笑った。


「……雪也さんって、本当にずるいですね」


「それ、前にも言われたな」


「何度でも言います」


真白は、胸の前で小さく手を握った。


「そんなふうに言われたら、私たちまで救われたみたいじゃないですか」


救う。


そんな大きなことをしたつもりはなかった。

むしろ、自分の方がもらってばかりだった。


温かい食事。

何も言わずに置いてくれたおにぎり。

返さなくていいと言って渡されたお守り。


「救われたのは、僕の方だ」


雪也は言った。


「僕は、あの村に来るまで、誰かと関わることをずっと怖がってた」

「失うくらいなら最初からいらないって思ってた」


灯籠の火が揺れる。


「でも、君たちに会った。

 真白がいて、あかりがいて、美琴がいて、雪乃さんがいて、花月館があって」


一つずつ口にするたびに、あの冬の景色が胸の奥によみがえる。


「だから、今の僕がいる」


真白は何も言わなかった。

ただ、静かに雪也の言葉を受け止めていた。


「ありがとう」


今度は、はっきりと言えた。


迎えてくれてありがとう。

お守りをくれてありがとう。


「僕に、こんなあたたかい場所に、戻ってもいいって思わせてくれて」


真白の目元が、ゆっくりと潤んだ。


「……はい」


小さな返事だった。十分だった。



――そのとき。



「なんか、照れくさいな」


横から、聞き覚えのある声がした。


雪也は思わず振り向いた。


挿絵(By みてみん)


灯籠の光がじんわりと広がる中に、真白のとなりに、あかりが立っている。


腕を組んで、いつものように少しだけ面倒くさそうな顔をしている。


「……あかり」


「おう」


あかりは軽く手を上げた。


「来るの遅い」


「……そんなこと言われてもな」


「まあ、でも来たからいいや」


あかりはそう言って、雪也の顔をじっと見た。


「顔、変わったね」


その言葉に、雪也は小さく息を吐いた。


「前にも言われた気がする」


「何回でも言うよ。前より見てて楽」


「そんなにひどかったか、前の僕」


「まあまあひどかった」


即答だった。


真白が横で少し笑う。


「もう少し優しく言ってあげてもいいんじゃないですか?」


「優しく言ってこれだよ」


「そうなんですか?」


「そう」


二人のやり取りがあまりにも自然で。

雪也は、心が痛くなるほど懐かしくなった。


ああ、これだと思った。


この空気。

何でもない会話。

雪の中なのに、なぜか温かくなる時間。


自分はこれを、ずっと覚えていた。


あかりは灯籠の一つに視線を向けた。


「ここ、何もなかったでしょ」


「……ああ」


「びっくりした?」


「した」


「そっか」


あかりは灯籠の火をゆっくりと見つめた。


「何もないって、きついよね。壊れてるとか、なにかの残骸があるとかならまだ分かりやすい。

 でも、何もないとさ、そもそも存在しなかったんじゃないか、本当にあったのかと不安になる」


雪也は黙って頷いた。


「でも」


あかりは雪也の方を見た。


「こうやって覚えてるやつがいるなら、少なくともなくなったことにはならないんじゃない」


その言葉はぶっきらぼうで、まっすぐだった。


雪也は思わず笑った。


「……お前、たまにすごく良いこと言うよな」

「たまにって何」


「普段は雑な気がする」


「失礼だな」


あかりは少しだけ眉を寄せた。

でも、本気で怒ってはいないようだ。


真白がくすくす笑う。

その笑い声は、灯籠の火に混ざる。


雪也は二人を見ていた。


真白。

あかり。


ここにいる。

けれど、触れられる気はしない


手を伸ばせば届きそうなのに。

光がにじみ、

雪が舞えば、輪郭がすぐに消えてなくなってしまいそう。


それでも、寂しさだけではない。


会えた。

それだけで、胸の奥に確かなものが残っていた。


ふと、雪也は辺りを見回した。


灯籠の光。

白い雪が降っていて、

真白とあかりの姿。


一人、足りない。


「……美琴は?」


その名前を出した瞬間、空気が変わった。


真白はすぐには答えなかった。

あかりも灯籠の火から視線を逸らす。


雪が、音もなく降っている。


遠くで。


――カラン。


鈴の音がした。


雪也は、思わず顔を上げた。


赤い色をした瓦礫が、美琴の神社の鳥居を思わせた。


風は吹いていない。

あの音がはっきりと耳に届いた。


神社で聞いた鈴の音。

美琴がいた境内で、何度も聞いた音。


「……」



真白が、静かに口を開いた。


「美琴さんは、ここには来ません」


「……どうして」


「たぶん」

真白は少しだけ困ったように笑った。


「ここに来る人じゃないから……かな」


答えになっているようで、なっていなかった。


あかりが腕を組んだまま言う。


「あいつは、なんというか境目にいるやつだから」

「来るとか来ないとか、そういう感じじゃない」


「……境目」


その言葉に、美琴の声がよみがえった。


――あなたが前に進むなら、わたしは消えません。


あのときの、静かな声。

背中に残った気配。

ただ送り出すような言葉。


もう一度、鈴の音が鳴る。


――カラン。


胸の奥に静かに響いた。


姿は見えない。

けれど、美琴はいないとは思えなかった。


「……そうか」


雪也は、小さく頷いた。


「美琴らしいな」


真白は、少しだけ嬉しそうに笑った。


「はい」


あかりも、短く息を吐いた。


「まあ、あいつはそういうやつ」


雪也は、もう一度お守りを握った。


そこに真白の手の温かさがある。

あかりの言葉がある。

美琴の鈴の音がある。


全部が同じ形では残らない。

同じ場所には立ってくれない。

同じように伝えられるわけではなかった。


けれど、残っていた。


確かに。


「……僕さ」


雪也は、二人に向き直った。


「これからも、たぶん怖くなる。誰かと関わって、近づいて。

また失うかもしれないって思ったら、逃げたくなると思う」


真白は頷いた。

あかりも茶化さなかった。


「でもなかったことにはしたくない。

 あの冬も、君たちのことも、ここでもらったぬくもりも」


灯籠の火が、雪の中で揺れる。


「忘れない」


真白の表情が、ゆっくりとほどけた。


「それで、十分です」


あかりは少しだけ口角を上げた。


「忘れたら怒るから」


「どうやって怒るんだよ」


「化けて出る」


「それは怖いな」


「なら忘れんな」


そのやり取りに、雪也は笑った。

笑いながら、一息つく。


楽しい。

でも、終わりが近い。


それが分かってしまう。


真白とあかりの輪郭が、雪明かりに少しずつ溶け始めていた。


「……そろそろか」


雪也が呟くと、真白は静かに頷いた。


「はい」


「もっと話したいこと、あったんだけどな」


「私もです」


真白は笑った。

泣きそうなのにちゃんと笑っていた。


「でも、全部話さなくても大丈夫です」

「雪也さんはちゃんと持っていってくれるから」


「……重いな」


「重くても、あなたなら大丈夫ですよ」


真白らしくない、まっすぐな声だった。


あかりが雪也の方へ一歩近づく。


「無理に強くならなくていい。

 怖いなら怖いでいいから。止まるな」


「……ああ」


「ちゃんと前向いて歩けよ。

 小春さんのこと。きっと近々会うことになるから。」


雪也は、少しだけ目を伏せた。

やっぱり‥‥‥小春のこと、わかっていたのか。


”そういう存在”であるなら、すんなりと受け入れられる。


「分かった、ありがとう」


言えた。

今度は、ちゃんと言えた。


真白が両手を胸の前で重ねる。


「雪也さん」


「……なに」


「来てくれて、ありがとうございました」


次の言葉が詰まった。

僕は真白にあたたかさを十分に渡せていない。

でも、真白は最後までこちらにあたたかさを渡そうとしてくる。


「……こちらこそ、会えてよかった」


真白の瞳が揺れた。

あかりは少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。


雪が強くなる。


灯籠の火が滲む。

真白の姿が、白の中にほどけていく。

あかりの輪郭も、少しずつ遠くなる。


「真白」


雪也は名前を呼んだ。


「はい」


「ありがとう」


真白は、最後にもう一度だけ笑った。


「あかり」


「何」


「ありがとな」


あかりは、短く手を振った。


「おう」


それだけだった。


二人の姿が雪の中に溶けていく。

けれど、手を伸ばそうとは思わなかった。


失うことから逃げたのではない。


ちゃんと受け取ったから。

ちゃんと僕の中に残ったから。


だからしっかり見送った。


これはいままで怖がっていた喪失なのか。

灯籠の光だけがそこに残る。


雪也は、しばらくその場に立っていた。

もう怖くなかった。


遠くで、鈴の音が鳴る。


――カラン。


雪也は橙色に揺れる灯籠を見た。


そこに美琴の姿はない。


それでも、雪也は小さく頷いた。


「……分かってる」


誰に向けた言葉なのか。

自分でも、はっきりとは分からなかった。


ただ、次にすることだけは分かっていた。


振り返らない。

ここで受け取ったものを持って、前へ進む。


灯籠の道の先は白く霞んでいて、

その向こうに、帰るべき日常がある。


雪也は、一歩を踏み出す。

雪を踏む音が静かに響いた。

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