前編
なにか夢を見た。夢見ている間は覚えていられたのに、目が覚めると何の夢を見たのか忘れてしまって思い出そうとしても思い出せない。
思い出そうとしても、靄がかかったみたいに実態のない何かを掴もうとしているようでもどかしかった。
夢に気を取られていたからか、その日一日は何をやっても上手くいかなかった。
歩けば人にぶつかり、仕事をすれば記載ミス、過去の失敗もすべて今日発覚する。自分の無能な結果が出た感じだ。
溜息をつき、今日はもう、仕事もやめて帰ってしまおうと席を立った。
会社から駅へ帰るいつもの道を慎重に歩く。
少し駆け足で階段を登りきったら電車の扉が閉まり、時刻表を見ると15分は待たなければならない。
やっと着た電車に乗り込むといつもより人が多くて周りには女性が多かった。
女性に囲まれる恐怖に、カバンを足ではさみ、両手でつり革を持った。
案の定、睨みつけてくる女性がいて、私の両手は上にありますと視線をつり革にやった。
その女性は気まずそうな顔をして視線を外した。
だが、その後もその女性は顔を青くして時折身体を捩って俯いている。
その女性の周りにいる男は俺と、俺より少し年上の茶色のジャケットを着たオタクっぽい男だけだった。
身を捩る女性との間に体を動かしたが、オタクっぽい男はかまわず女性を追いかけて体を弄っているようだった。
声を掛けるべきか悩んだが、私は声を掛けない方を選んだ。
関わるのが嫌だったのだ。
今日の夢見が良ければ、もしかしたら声を掛けていたかもしれない。
下手に関わるとろくな事にならない。と自分に言い訳をした。
痴漢にあっている女性を私は見捨ててしまったのだった。
家まで後、5分ほどの道のりをゆっくりと歩いた。
月が雲に隠れ、闇が弥増してゆく。
前方に人影が見え、さっきまでは居なかった気がするのだが勘違いだったろうか?
前方にいる人がパンツスーツを着た女性であることに気がついた。
その向こうにも闇に紛れているが誰か居て揉み合っているように見えた。
今日は人に関わらないのが吉。
自分に言い聞かせ、また今日一日のことを思い出し、後方にあった自販機に戻り、小銭を取り出して炭酸飲料水を買った。
ガコンとジュースが吐き出される大きな音がなり、ジュースが取り出し口に落ちる。
今は背後に居る2人の雰囲気がこちらに気付き慌ただしい気がした。
その場でキャップロひねり、一口、二口と飲んだ。
帰り道にコンビニか、スーパーでもあればいいのにと内心で愚痴りながら、片手にカバン、片手にペットボトルを持ってまた歩き出した。
前方でさっきも見合っていたどちらかが蹲っているのが見て取れて、いやだなぁー、巻き込まれたくないなーと思った。
本当にコンビニ作ってくれよ。とまた思った。
大きく咳払いをすると、物音が止みザッザッと走り去る足音が聞こえた。
離れた距離から「大丈夫ですか?」と声を掛けたが返事がない。
ますます嫌な感じだ。
私はスマホを取り出し、ライトを付け、動画撮影を始めた。
「大丈夫ですか?なにかありましたか?」
声を掛けるが、蹲った人は返事をしない。
仕方なく、蹲った塊に向けて声を掛けながらゆっくりと歩いていく。
ライトが映し出したのは電車の中で痴漢にあっていた女性に似ている気がした。
私は触れずに、どうしました?大丈夫ですか?と何度も声を掛けるが、返答はない。
困った私は通り過ぎてきた一軒家のチャイムを鳴らした。
動画は録画したままだ。
中から直ぐ、その家の奥さんだろうか?40代半ばの女性が出てきた。
「この先で女性が蹲っていて、声を掛けても返事がない。助けて欲しい」とお願いすると、一瞬嫌な顔をしたが、家の中に声を掛け、ご主人と思わしき50代前半の人に声を掛けた。
後からは中学生位と高校生位の子が2人出てきて、奥さんと思わしき人に「ここにいなさい」と言い聞かされていた。
3人で蹲っていた女性がいた場所に戻る。
奥さんが「大丈夫?」と何度か声を掛けるが返事がない。
ご主人が女性の肩に触れると、女性は保っていたバランスを崩して横向きに倒れた。
ブラウスのボタンがちぎれ、ブラジャーが片方ずり上がり、乳房をあらわにしていた。
胸の膨らみを隠しているブラジャーからナイフの柄が突き出ていた。
俺達3人は驚いて後退る。
ご主人は腰を抜かしたのか、尻餅をついていた。
救急車を呼ぼうとスマホを探したが見つけられなくて、俺は叫んだ。
「救急車!救急車を呼ぼないと!!」
ご主人がポケットからスマホを取り出し救急車を呼んだ。
状況を説明すると、警察も同時に呼ばれた。
警察が来る前に、異変を感じたのか周辺の住民が集まりだす。
片方の乳房をあらわにした女性を辱めるようにヒソヒソとした声が何重にも聞こえた。
警察が来て、近づかないように言った。
生存確認をするが、息をしていないと警察官が言うのが聞こえた。
通報者は誰か聞かれ、ご主人に話を聞いている。
私を指差し、何事かを話している。
警察官が2人私の側に来て何があったのか
聞かれた。
身振り手振りを付けて説明した時に捜してもなかったスマホを手にしていることに気が付いた。
警察官に、スマホの録画を止め、手渡す。
警察官が再生を始め、救急車が呼ばれるまでを見ていた。
何故、録画しようと思ったのか聞かれ、なにか揉めるような物音が聞こえたこと、走り去る音を聞いたことを話す。
怖かったので、スマホのライトを付けたこと、声を掛けたけど返事がないのでそこの家に助けを求めたことを話した。
倒れている女性を知っているかと聞かれ、はっきりとは分からないが、電車で近くに立っていて、痴漢に間違えられたことなど一連の話をした。
警察官は私の話を聞いては、無線連絡をしていた。
時間が立つに連れて現場の物々しさが大きくなっていく。
制服警官だけではなく私服の刑事も現れ、頭にシャワーキャップのようなものを付けた警察官の姿も増えた。
帰りたいのに同じ話を何度も聞かれ、私のスマホは手元に返ってこない。
スマホが返ってきたと思ったら、ロックが掛かったから解除してくれと言われ、指紋認証してまたスマホを取り上げられた。
スマホの画像を貰ってもいいか聞かれ、首肯いた。
家に帰り着いたのは深夜三時をまわっており、ほとほと疲れて、湯船に浸かった。
目を閉じると、女性の姿が目に浮かぶ。
明日も警察に来るように言われている。
仕事を休まなければならない。
いつもの時間にアラームをセットし、現実から逃避した。
アラームが鳴り、顔を洗ってシャッキリとさせ、上司の芝井のスマホに電話する。
「朝早くにすいません。沢渡ですが」
『おう、おはようどうした』
「昨日の帰り道に・・・」
事情を説明し、今日も警察に行かなければならなくて、仕事にいけないことと犯人が捕まっていないので、この事を知っている人間は最小限で済ませて欲しいと警察に言われた事を伝えた。
『分かった。大変だったな。何かあったら電話してくれ』
「ありがとうございます」
警察に向かうと、犯人らしき人が捕まったと伝えられた。
日本の警察は優秀なんだと実感した。
殺された人は電車で痴漢にあっていた女性で間違いなかった。
駅の録画を見せられ、説明を受ける。
痴漢をした男が分かるか聞かれ、はっきりとは分からないけれど、服装がこの人だと思うと指差した。
私が指差した男に後をつけられ、襲われて揉み合いになり、男が持っていたナイフで刺されてしまったということだった。
わたしの証言で、迅速な逮捕が出来たと感謝され、帰ってもいいと促された。
上司に電話をかけ、顛末を話し、今日はこのまま休んでもいいか確認する。
今日はゆっくりしろの言葉に感謝を述べ、スーパーに寄って弁当を二つ買って帰った。
こたつの上に弁当を置き、そのまま寝転んだ。
息を吐き、目を瞑る。
声をかければ彼女を助けられたのかもしれないと昨夜から何度も自問自答した。
私が殺したようなものではないかと、何度目か分からない後悔をした。
いつの間にか眠っていたようで、目が覚めた時には辺りは暗かった。
目が覚めてはまた同じ後悔をし、お弁当を一つ食べ、ひとつは冷蔵庫にしまった。
翌日出勤すると上司に呼び出され「災難だったな」と言われ、事件のあらましを訊ねられた。
話せることだけを話して、この先、裁判なんかでまた休まなければならないことがあるかもしれない事を伝えた。
溜まっていた仕事を済ませ、帰れるようになったのは22時を回っていた。
電車の空いた席にズルズルと座り、前のガラスに映るくたびれた自分が目に入った。
電車の中で見た青ざめた顔の女性を思い出す。
申し訳ないと。また思う。
電車を降りて自宅への道を速歩きで歩く。
助けを求めた家があり、自販機がある。
女性が倒れていた場所には花と缶ジュースが置かれていた。
また、後悔して足早に立ち去った。
昨日、今日のような早足で歩いていたら事件は起きなかったかもしれない。
ジュースを買わなかったら事件は起きなかったかもしれない。
休日、小さな花を買い、女性が蹲っていた場所に置いて手を合わせた。
助けてあげられなくて申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、今日を最後に考えないと自分の気持ちに整理をつけた。
それでもただTVを見ているだけ、お風呂に入っているだけの時にふと思い出してしまう。
彼女でもいればまた違ったのだろうか?と考え、前の彼女を思い出し、あれならいない方がましだと思い直した。
置かれた花が枯れて薄汚くなり、その夜には誰かが片付けたようで何も無くなっていた。
翌日には新しい花が飾られていた。
日常が飛ぶように過ぎ去っていき、俺の記憶から事件のことは薄らぎ、事件現場に置かれる花束もいつしか無くなっていた。
その日はすごく順調で、仕事が早々に片付き、定時で帰宅することが出来た。
帰って部屋の掃除をしたいと考え、会社の駅近くのスーパーに寄って食材を購入し、電車に飛び乗った。
上手くいく日はこんなもんなんだよな。と気分良く、電車の中は男ばかりで安心した。
俺の部屋の前でおばちゃん2人が立ち話をしているのが階下から見えた。
両隣のおばちゃんだと気が付き、俺の家の前に居るのに納得した。
階段を上がり少し離れた所から挨拶する。
「あら、おかえりなさい。今日は早いのね」
「はい。仕事がスムーズに片付いて」
「今何時?」
「6時半頃だと思いますよ」
「やだ、晩御飯作らなきゃ」
そう言いながら二人共帰ろうとしないことに笑いが漏れそうになった。
「あっ、今から掃除機掛けてもいいですか?」
「かまわないわよ」
「ありがとうございます。では失礼します」
2人のおばちゃんに頭を下げられ室内に入った。
着替えを済ませ、床に散らばる物を片付け、洗濯機も回してしまう。
カレーを作るつもりで米を研いでいると廊下で話すおばちゃん二人の声が聞こえる。
「最近、あの事件があった所で女の人が蹲っているのを見かける人が居たらしいわよ」
「あー!うちは主人が見たったって」
「そうなの?!」
「花束が置かれていた場所に何か岩みたいなものが置かれていると思ったらしいのね。おかしなことを誰がしたんだろう?って思って歩きながら見ていたらしいのね。そしたらグレーのパンツスーツを着た女性が横座りになって項垂れて居たって言うのよ」
「いやだっ!」
「主人怖くなっちゃって駅に引き返して駅から迎えに来いって私に電話してくるのよ!」
笑い声が聞こえ、話が続く。
「私も怖いから嫌よと言ったら、家に帰れないって言い出しちゃって、しかたなく迎えに行ったんだけど、何もなく帰ってきたわよ。見間違えたんじゃないの?って言っても、間違いなく見たって言い張るんだもの」
「男の人のほうが怖がり多いからね」
「それが、聞いた話だと、男性しか見ないらしいのよ」
「そうなの?」
「女の人が見たって話は聞かないんですもの」
「なら私達は安心ね」
「また主人に迎えに来いって言われるかも」
「引っ越そうかしらね」
「主人次第だわ・・・」
「そろそろ帰らなくちゃ。じゃぁまたね」
「ええ、おやすみなさい」
二人は両方の家へと別れて帰って行った。
炊飯器をセットし、カレーの具を煮込む。
幽霊が出たってことか?
グレーのパンツスーツって嫌に具体的じゃないか?
掃除機を掛け、洗濯物を干す。
ホラー映画でもあるまいし、幽霊なんて・・・。
カレールーを入れて皿に盛った時には8時少し前だった。
嫌なことを聞いてしまったな。
あの道を通らずに家には帰れない。
見る前に引っ越した方がよくないか?
久しぶりに殺された女性が蹲る姿を思い出してしまった。
去年入社した田宮が「先週末に心霊スポットに行ってきた」と女子社員の川崎さんと竹本さんと仲よさげに話している。
「でさ、トンネルでクラクションを鳴らしたらリアウインドウに手形がバンバン付くってって噂だったけど、何にもなくて、ただのトンネルだったよ」
「ありがちな話ですね〜。私も怖い話が好きなんですけど、心霊スポットに行こうと思ったことないんですよ。万が一ってあるじゃないですか」川崎さんが言う。
「そうよ、気を付けたほうがいいわよ」
田宮が、竹本さんに叱られていた。
「実体験なんですけど、怖い話が好きで寝る前にスマホで怪談話を流して寝ていたんですよ」
「川崎さん、勇者だね〜〜!!」
「それを何ヶ月も続けていたら、金縛りに合うようになっちゃて」
「まじ?」
「まじ。ベッドが窓際にあるんだけど、窓側のベッドの足元のほうで誰かが片足をついて立ち上がった気がしたの。マットレスがこう、ぐっと沈んで体が傾ぐの」
身振り手振りをつけて川崎さんが説明している。
「私の体を跨いで、今度は腰の辺のマットがググッと沈んで、床に足をついたドンって言う音が鳴って、玄関の扉から出ていったの!!出ていくと同時に金縛りが解けて、慌てて起き上がってそれから寝る前には怪談聞くの止めました」
「他にも経験談あるの?」
「些細なものなら数個はありますよ」
「今度怪談会でもしようよ〜」
「人、集まりますかね?」
「合コンしません?」
「今もまだ合コンって言うの?」
「俺らは言ってます」
「勢い余って心霊スポットに行こうって流れになりそうだから嫌だ」
「川崎さんが一番の勇者だと思うけど」
「他の経験談は?」
「他ですか?」
「お腹の中から青鬼がゆっくり出てきた事があります」
「なにそれ?」
「解りません。怪談聞きまくっていた頃だったので、些細なことはたくさんありました。今もまだ、家鳴りが異様に多いですし」
「家鳴り?」
「家のあらゆる場所からピシとかガタとか色んな音がなるんです。同じマンションに友人も住んでいるんですけど、そんな音鳴らないって言うんですよ」
「なにそれ!」
「住んでて平気なの?」
「たまに人の気配とか感じることもありますけど、気のせいです」
「川崎さん引っ越したほうがいいんじゃない?」
「それ以外なにもないので・・・」
聞き耳を立てて聞いていたのがばれたのか、田宮が俺に話を振ってきた。
「沢渡さんはなにか怖い思いしたことありますか?」
一瞬、昨日のおばちゃん達の話が頭に思い浮かんだ。
「いや、ないよ」
「怖い話、知ってますか?」
「ご期待に添えなくて申し訳ないけど、全く知らない」
頭の中は殺された女性の姿に占領された。
事件現場を通り過ぎようとしたら、新しい花が供えられていることに気が付いた。
残り物のカレーを食べ終わり、スマホをいじっているとスマホの動作が遅く重くなっていたので、使わなくなったアプリの削除を寝転がりながらしていた。
再起動させ、もっさり感はちょっとマシになったけど、やはり重いままだった。
「やっぱそろそろ買い替えかな?」
写真の削除もどんどんしていく。
ひとつ動画があり、何だったっけ?と思いながら再生を押してしまった。
『大丈夫ですか?なにかありましたか?』
少し変質した自分の声が聞こえる。
蹲った人が映し出されているが、返事はない。
当然だ。この時にはもう既に死んでいた。
何度も声をかける自分の声に、どんどん近付いていく。
あの時、こんなにはっきり顔が映っているとは知らなかった。目に見えていたものとは違うものが映っている。
私は未だに声を掛けている。
来た道を走って戻り、一軒家の長沢さんのチャイムを鳴らしている。
あの時走っていたんだ・・・。 知らなかった。
中から奥さんが出てきて、女性が蹲っていると私が話しているのが聞こえるが、手ブレが酷くて画面を見ていられない。
ご主人が出てきて二人が先に歩き、私は後ろからついて歩いていた。
奥さんが先頭で女性に声を掛けるが返事はなくご主人が肩に触れて横に倒れた。
これ以上は見るべきではないと気付いて、慌てて停止して削除しようとして、削除してもいいのか悩んだ。