5章
目的もなく知らない駅に立つと、珍しく電車はすぐに来た。僕はその電車に乗り込んだ。
するとその次の駅で、黒い髪に少しキラキラと輝くガラスの様な雪を積もらせ、紅色のウールのコート着た一人の女性が乗って来た。
女性は、ただつり革につかまったまま、背筋を伸ばして、真直ぐと前を向いて立っていた。その時、突然電車の警笛が低く鈍く、しかし鋭く鳴り響いた。すると彼女はちらりと僕を見 て、すぐ目を伏せた。僕が彼女を見たので彼女も僕を見たのかもしれない。黒く長いつややかな黒髪の、深い栗色の眼をした女性だった。
女性はすず子にはない、何かを持っていた。その何かに僕の心は激しく揺らされてしまっていた。
するとその時、彼女が小さく頭をかしげて、もう一度、僕をちらりと見た。
駅に着き、顔を上げると、彼女はもういなかったが、僕の胸中に、彼女の残像が残ってしまっていた。
僕は、なぜかヨーカドー地下入り口にいた。6時が5分ほど過ぎた頃だ。
するとそこに、女性が一人、紅色のウールのコートを着て憂鬱そうに立っていた。
そして彼女は、顔を上げると深い栗色をした目で僕を見つめ、妖しげにニッコリと微笑んだ。
もう日の暮れた道を僕らは彼女の部屋に向かっていた。
彼女は何も言わずに、ベッドの横で僕の上着にそっと手をかけた……。
すず子にはない、女の匂いだった。「美」を漂わせ、「美」を匂わせている……。
そして彼女のその美を纏った細い体がその夜ベッドの上で美しく燃えた。
次の朝、僕は目覚めてみるとどこか知らない、いやに整理された部屋にいた。何とか起き上がってみると、柔らかいベッドに一人で横になっていた。が、昨日の感激は何も残っていなかったし、それが感激だったのかすら覚えていなかった。ただ掌にわずかに柔らかな胸の膨らみの感触が残っていただけだった。ふと、僕は横に寝ている女を見た。その時、僕は突然怖くなった。「サチコ」だった。
僕は底のない孤独に落ち込んでいた。目の前が真っ暗になった。僕はベッドを飛び起きた。そして逃げるように部屋を出ると、僕は、大きなマンションの部屋を出た。そこはどこか誰も知らない異郷の地のようだった。
スマホをポケットから取り出し「すず子」と投入し、検索した。しかし反応があるはずもない。目をつぶり大きく息をついた。
右へ進めばよいのか、それとも左へ進めばよいのか。助けを求めても誰も答えを教えてはくれない。僕は何もない道に迷ってしまった。誰も助けてはくれない現実。
「どうしたんです?」、そう聞かれて、
「浮気の帰りなんです」、とは言えない。
崩れ落ちていく自分のすべての過去が重くのしかかってくるようだった。まるでもう一人の自分の様に。
しかし、小走りに走り回っていると、遠く彼方に小さくバス停が見えてきた。
僕はホッとしたが、静かで、新しい住宅街、彼女がこんな住宅街、しかもあんな高級マンションに住んでいることが、僕は当然に思えた。だが、僕がこんな高級マンションに連れ込まれたのが意外だった。
人通りもなく、風のない少し霧がかった様な肌寒い朝だ。僕は、部屋にすず子がいるか戸惑ってしまった。もし、いなければ僕はどうなるのか?
バス通りに出ると、大勢の小学生が重たそうなカバンを背負い、自分よりも大きな傘を差しながら歩いていた。わずかにチラチラとガラスの様な雪が降ってきた。
バスを降りると市電に乗った。いつの間にかもう日は暮れかけている。
札幌の市電はいつもは、心が初恋のときのようにドキドキさせられたが、その日は帰ったらすず子が部屋に居るかドキドキしていた。だが僕は何となくまだ迷っていた。すず子と健二。
まだ、掌の柔らかい感触が残っていた。
結局、僕はすぐに部屋に帰ることができずに、何故か、あの時の公園に行き、ベンチに腰を掛け、俯いた。
顔を上げると誰も乗っていないブランコが淋し気に風に揺れていた。
そんな時だった。突然、吉田が現れた。
「よう、久しぶりだな。今日は一人か?彼女はどうした?」
僕は黙ったまま、ベンチに座り、タバコに火をつけた。
すると彼が言った。
「公園でタバコを吸うもんじゃねえぞ。にょうぼが心配してるぞ。早く帰れ」、そう言って、彼は立ち去って行った。
僕は指先に挟んだタバコを、しばらく見つめた。
掌の柔らかい感触はいつの間にか消えていた。
薄く落ちてくる冬の光の中を、雪虫が飛んでいた。
大きく溜息を突いて、僕は立ち上がり、ようやくすず子の待つ部屋へと足を向けた。
部屋に着き、そしらぬ顔で部屋に入ると、夕日を浴びながらすず子が何食わぬ顔で、洗濯ものを取り込んでいた。
僕も何食わぬ顔をして言った。
「ただいま」
すず子が洗濯物を取り込む手を止めた。市電の音が秋の夕陽を割く様に響いた。
「どこ行ってたの?」
「吉田と飲みに出て、ちょっと飲みすぎてやつの部屋に泊めてもらった」
「……」、その眼差しには懐疑の色が薄くにじんでいた。
「連絡くれてもよかったんじゃない?」
「ああ、ゴメン。奴と飲むのも久しぶりだったから」
「……」、すず子は何も言わず、洗濯物に目を向けていた。夕陽が照らしだした彼女の頬が僅かに震えていた。が、少しすると大きく溜息を突いて彼女が言った。
「まあ、いいわ……。これから夕食の買い物に福住のヨーカ堂まで出るけど付き合ってね、約束よ」
「えっ……」、僕はドキリとしたが、そ知らぬふりで、すず子と夕食の買い物にヨーカ堂へ出かけることにした。
そして僕はキャンパスに向かった。次のコンテスト締め切りまであと一ヶ月なのだ。
終わり




