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ふるまえに  作者: 柊らし
4/8

iv

(ぎんせさん、だ)

 鼓動の音がにわかに速まる。学内に彼女の名前を知らない生徒はいないだろう。きらやかな髪と、類まれな才能をそなえた生徒会秘書の評判は、ことあるごとに噂の種になっていた。雪の子たちは本人のいないところで、彼女に様々なあだ名をつけた──赤毛の女王。恐れ知らずの優等生。落下の天才。

「こんばんは。こんな時間に、ふる練習?」

 同じクラスの一員とはいえ、面と向かって言葉を交わすのは初めてだった。緊張で声がうわずってしまわないかと、内心気が気でなかった。

「練習ってわけじゃないけど」

 ぎんせは微笑み、長いまつ毛に縁どられた目をちらりと〈塔〉に走らせた。

「今日で最後なんだなって思うと、なんとなく眠れなくって、ね。あなたは?」

 優等生の口からそんな言葉が出るなんて意外だった。ほんの少し肩の力を抜いて、りつかはぎこちない笑みを返した。

「わたしも一緒。ルームメイトは彼氏に会いに行っちゃったし、部屋にいても退屈だなって」

「彼氏かあ」

 ぎんせは男子棟の灯りを見やり、眩しそうに目を細めた。豊かな赤い前髪が夜風に誘われて揺れていた。ミステリアスなその横顔に、りつかは思わず息をするのも忘れて見とれた。噂によれば、ぎんせの心に手を伸ばそうとした男子の数は、両手の指よりたくさんだという。さらに噂はこう続く──触れることのできた指は一本もなかったと。

「あなたは飛ばないの? 降下訓練はいつも朝だから、夜って経験ないでしょう。暗いなかで踊るのもなかなか新鮮だよ」

 ぎんせの言葉に、りつかはうつむき、かぶりを振った。

「わたしはいいよ」

「飛ぶのは嫌い?」

「うん、あんまり。昔から、高いところって得意じゃなくて……」

 声は尻すぼみになってしまった。飛び降りが苦手なのは本当だが、そうでなくてもぎんせの前では無理だったろう。彼女のうつくしい落下に憧れる雪の子は多い。りつかもそのひとりだったから。

 憂鬱な訓練に休まず通っていたのは、ほかでもない、ぎんせのダンスが見られたからだ。宙に踏みだす彼女の足はなめらかで、恐れやためらいに微塵もおかされていなかった。二段ベッドの下側で毛布にくるまって眠るとき、何度となく、りつかはぎんせになる夢をみた。〈塔〉に登ってクラスメイトの視線を集め、音楽のように舞う。そして芸術的な着地。ふりそそぐ拍手喝采。

「じゃあ、明日の〈おつとめ〉は大変だね」

 ぎんせがくれた気づかいの言葉に、りつかは肩をすくめて答えた。

「べつに平気。一回きりだし。これでもう二度と怒鳴られなくてすむんだって思ったら、月からだって飛び降りられるよ」

 見えすいた虚勢だったけれど、ぎんせはくすくす笑ってくれた。

「りつかさんは、ご両親に手紙を書いた?」

「書いたけど、なんて書いたかは忘れちゃった」

 全部覚えていたくせに、口が勝手に嘘をついた。両親は父母とも雪としてふり、地上を旅して帰ってきた帰還者だった。ふたりは幼い娘に自分たちの人生を語るのが好きだった。雪から水滴へ、水滴から水蒸気へと姿を変えて、やがて雲へと戻ってくる長い長い旅の話だ。お父さんお母さん、育ててくれてありがとう、とりつかは書いた。雪雲学校スクールに入れてくれたこと、心から感謝しています。地上に降りても、姿かたちが変わっても、おふたりへのご恩は忘れません。一字一句、配られた例文どおりに書いた。

「ぎんせさんは?」

「わたしには手紙を送る相手がいないの。父親は顔も知らないし、母は三年生のときに亡くなったから」

 穏やかな表情のまま、ぎんせは言った。りつかは慌てて謝った。

「ごめんね」

「気にしないで。あなたからの手紙を読んだら、ご両親はきっと喜ぶでしょうね」

 りつかはポケットの中で両の拳を固くした。吐きだした白い息はすぐに薄闇にさらわれた。

「うちの親は、わたしが高所恐怖症だって知らないの。ずっとうまく隠してきたから。今夜はわたしに乾杯して、お祝いの食事を楽しんだんじゃないかな。ふたりとも、なにもかも順調だって信じてる」

 ぎんせは瞳に複雑な色を浮かべ、何かを言おうと口をひらいた。だが、とつぜん鐘の音が鳴り響き、彼女の言葉をかき消してしまった。二十二時三十分。消灯時間を告げる合図だ。

 まもなくここにも見回りの教師がやってくるだろう。寮に戻ったほうがいい。そうするべきだとわかっていたのに、頭の中には、正反対の願いごとが輝いていた。

(ぎんせさんのダンスが見たい)

 もう一度、彼女の落下を目に焼きつけられたなら。そうすれば、自分も強く気高い雪になったふりをして、〈おつとめ〉の瞬間を迎えられるかもしれないと思った。

 ねえ、とりつかが口にだすよりもはやく、ぎんせが大きな歩幅でふたりのあいだの距離を縮めた。

「ねえ、りつかさん」

 りつかの顔をじっと見つめて、彼女はささやいた。

「よかったら、これから少しつきあってくれない? 眠れないときのための秘密の場所を知っているの。こんな夜に話せたのもなにかの縁だし、とくべつに招待してあげる」

 グラウンドの真ん中で向かい合うふたりの姿は、遠くから眺めれば、一枚の影絵に見えただろう。嬉しい。今すぐ逃げだしたい。相反するふたつの気持ちが胸の中で渦巻いて、りつかは身動きできなかった。

(夢かもしれない、全部)

 そんな考えが脳裏をかすめた。けれど、夢というには吹きつける風はあまりに遠慮知らずで、差しだされた同級生の指先は、凍えて色を失いかけていた。

 寄宿舎の窓から、ひとつ、またひとつと灯りが消えてゆく。ぎんせの白い左手を、りつかは吸いこまれるように取った。

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