第16回
国家治安監理庁(National Security Oversight Bureau, NSOB)
国家治安監理庁は、社会秩序の維持および治安行政の統括を目的として設置された国家外郭組織である。各地域の治安関連機関を横断的に監督し、緊急時には行政機関への勧告権および調整権を行使することが認められている。(中略)現在の長官は アーロン・ミルフォード氏(元IEIグループ上級副社長)、副長官は レイモンド・カーター氏(元サウスバウンド・テクノロジーCEO) が務めている。
——————『治安行政統合年鑑』2124年度版「国家治安監理庁」より
「彼女」はタブレットをテーブルに置いてから、立ち上がると、ぼくたちのそばまでやってきた。
「ごめんなさいね。おじゃまするつもりじゃなかったんだけれど」
ディアナは「彼女」の顔を無表情に見つめたまま、何も言わず座っていた。ディアナには自己防衛機能はあるが、いかなる攻撃行動も不可能だった。セクソロイドはあくまで寝室専用だった。ディアナは敵意も警戒心も皆無だった。ただ、不可解な事実に対する好奇心はあった。
「あなたのオーナーはどこにいるの?」
ディアナの問いに、「彼女」は何も言わず、かわりにやさしい微笑みを浮かべた。人間のぼくにはわからなかったが、ディアナにはその微笑だけでじゅうぶんだったようだ。ぼくがディアナを見ると、
「言えないってこと。管理者権限ね」
ディアナがぼくのグラスにビールを注ぎ、ぼくはそれを飲んだ。
「ええと、名前は聞いたことがあったっけ?」
彼女は立ったまま、首をかすかに振った。
「私に名前はありません。製品番号は『M11f-W」です」
「君はぼくたちを監視するためにここにいるんだね?」
彼女はさっきとまったく同じ角速度で首を振った。
「あなたたちを監視するのに、私は必要ありません。テイラピッズ・トレイルにも監視カメラはございますから」
彼女の言う通りだった。巧妙に「自然」の中に溶け込んでいるが、実際にはパシックセンターと同じくらいの台数の監視モニターが存在しているはずだった。誰でも自分の家から1歩でも外に出れば、それからの行動はすべてどこかに設置されている監視モニターに捕捉されている。警察もNSOBも、捜査中に尾行することは、もはや歴史映画の中だけのことだ。
「私の役目は、あなたたちの警護です」
ぼくは自分のグラスに目を落とした。それは空だった。ディアナがテーブルのDICEに向かって、ビールを注文した。
「誰から?」
「複数の団体から、です」
「ぼく、そんなに嫌われてたかな?」
ディアナが手を伸ばしてぼくの肩に触れた。
「あのう…座らないか?首が疲れる」
トミーのアンドロイドは黙ってうなずくと、ぼくの目の前の椅子に腰かけた。
「誰もアランさんに危害を加える意図はないと思いますよ、ディアナさん」
ディアナは無表情のまま、彼女を見た。アンドロイド同士のコミュニケーションでは、感情プログラムは最小限にしか作用しない。もし、ここにぼくがいなければ、二人はアンドロイド専用言語で「会話」をし始めるだろう。
「アランさんとの交渉を求めているだけです。ただ、アランさんがそうした交渉に対して、あまり積極的ではないため、より…」
「要するにぼくを拉致して彼らのテーブルに座らせたいってわけだね」
店員が音もなく現れ、ぼくの目の前におかわりのビールを置いた。ディアナがそれを取り上げると、ぼくのグラスに注いだ。
「そして、君…というかトミーはそれを邪魔したい…と」
名前のないアンドロイドは首を振った。
「『邪魔』ではありません。パシックの従業員に対する不法なヘッドハンティングを阻止する、ということです」
ぼくは、目の前に注がれたビールの表面の泡が徐々に消えていくのをながめていた。
「まあ…いろいろ言いたいことはあるけど、ぼくとしてはディアナとふたりでバカンスを楽しみたいんだ。ふたりだけでね」
ディアナはにっこりと笑うと立ち上がってぼくの背後にまわり、後ろからボクの首に手を回した。それから、ぼくの頬にキスをすると、トミーのアンドロイドに向かって微笑みかけた。彼女もディアナに微笑み返し、立ち上がった。
「アランさんたちのおじゃまをするつもりはございません。可能な限り目立たないように致します」
「もしかして、ぼくたちが話しかけたのはまずかったかな?」
「いいえ。このような状況は想定内ですので、問題ありません」
彼女は保険外交員のような丁寧さでぼくにあいさつをすると、さっきまでいた自分のテーブルにもどっていった。ぼくはテーブルのグラスを取り上げて、中のビールを一気に飲み干した。死ぬほどのどが渇いていることに気づいたのだ。




