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「――っ!」
心臓を直接掴まれた衝撃は、肺の空気を押し返し宗田の意識を一気に押し上げ、飛び起きた。
その拍子に視界に火花が散り、強く目を瞑ってしまう。
呼吸を一つ置いてから、まだ重たい腕を胸に押し当て、ゆっくりと目を開き状況を確認する。
薄っすらとカーテンの隙間から伸びた日差しが見えて、夜が明けていることに気づいた。
熱気のこもった空気が繰り返し吐き出され、それが次第に冷えると、鼓動も落ち着きを取り戻す。
脂汗でへばりついたシャツの端を指で摘み、中に空気を送り込む。
ひんやりとした感触が毛穴をぞわりと騒がせるが、視界の隅に唯の姿が映った。
「――神崎さん!」
宗田の声が上ずる。
「……良かった。息、してる」
慌てて傍に寄ると、彼女の胸が静かに上下していた。
それを見て、盛大に息を吐き出すと体の力が逃げてへたり込んでしまう。
「んっ……」
唯が寝返りをうつと、ちょうど顔がこちらを向いた。
呼吸を探す唯の額に、玉状の汗が浮いていて苦しそうな嗚咽を漏らしている。
肩に手を伸ばす。
「神崎さん……起きて」
体を揺らし、声をかけた。
「宗……田さん? って、あれ? 私……?」
ぱっちりと開いた目が宗田を捉えると、唯はその場から飛び起きる。
「苦しそうだったけど……大丈夫?」
「あっ、はい。大丈夫で、す」
まだ状況が掴めていないようで、その場できょとんと座ったまま、瞳の焦点が定まらない。
「昨日のこと、覚えてる?」
「え、昨日……?」
その言葉に唯の顔から、血の気が落ちていった。
蒸すような暑さの部屋だが、彼女の周りだけ冬になったように全身が震えだす。
「落ち着いて。大丈夫だから」
真っ直ぐに見つめ、手を握る。
そのまま、時間が流れると唯の指先がじんわりと温かさが戻った。
彼女の喉が鳴る音が届くと、口を開く。
「あの……ごめんなさい。大丈夫です」
その言葉を聞いて、手を離した。
指先に残った唯の体温が冷めると、腹の中に消えたはずの恐怖が顔を出すが、どうにか抑え込む。
そっと手を離すと、ゆっくりと立ち上がる。
「宗田さん?」
彼女に名前を呼ばれて視線を落とすと、眉尻が落ちて不安そうな表情をしていた。
「飲み物、持ってくるだけだよ」
そう言うと、急いで冷蔵庫に入っている麦茶を取りに行った。
……あれ? 停電?
冷蔵庫を開けた時の人工の冷気はまったくなく、むしろ部屋よりも暑いんじゃないかと思える熱気が、体を押した。
中の麦茶も温く、あまり口にしたいとは思えなかった。
仕方なく、近くのペットボトルのお茶を手に取り、唯の元に戻る。
「ぬるいな。これ」
緑のパッケージのお茶を口にするが、まったく冷えてない。
纏わりつくように流れる液体に喉が、拒絶反応を示す。
「冷蔵庫、壊れたんですかね」
唯もちびりと口をつけた。
「どうなんだろう? 修理できるか確認してみるか……あれ。スマホ」
宗田がスマホの電源をつけようとしたが、反応がなかった。
それを見ていた彼女も、スマホに手を伸ばす。
「私のも……」
「なんだろうね? 停電とかなにかあったのかな」
試しにテレビを付けたが反応がない。
家の中の全てを試すが、どれも沈んだ箱のように動き出すことはなかった。
「え……なんで?」
その言葉が自然と漏れた時だった。
――いやだ、まだ、生きて、い、い゛ぃぃいいいッ!!
その叫びに肩が跳ね上がった。
「――宗田さんっ!」
浴室にいた宗田が急いで戻ると、唯が立ち上がろうとしていた
その肩に手を当てると、軽く力を込めて彼女を座らせる。
「次は……なんなんだよっ」
焦りがイラつきに変わり、宗田はそれを隠そうとせず吐き捨てた。
速くなった心拍が鼓膜を震わせて口呼吸となるが、それを飲み込み窓に急いで近寄る。
そして、震える指先でカーテンをわずかに引いた。
「やめろ! 来るな…………アガッ……ガ……」
視線の先にあったのは、群がる影と空に突き出すように伸ばし人間の腕。
だか、その腕にも影が近づき指から食われていく。
窓越しでも捕食している音が聞こえるようで、宗田の胃がひっくり返りそうになる。
背を向けようとするが、何かに固定されたように体が言うことを聞いてくれない。
男の行く末を見守るように、動かなくなるまでずっと凝視していた。
「あ、あぁ……なんだ、よ。あれ……」
ようやく動かせたのは、鉛のように重たい唇だった。
途切れるように言葉を出すと、横に気配を感じる。
目が勝手にそっちを向くと、唯の横顔がそこにはあった。
「唯、来ちゃ――」
急いで静止するが間に合わず、唯はカーテンの向こうを見てしまう。
「――なに……これ」
彼女がぼそりと声を漏らすと、言葉の端が消えてしまいそうだった。
その後にさらに言葉を続けようとしたが出てくるのは、湿った空気だけ。
「え……これ、"ゾンビ"?」
ようやく絞り出てきた言葉の最後のワードは、宗田に目の前の現実を突きつけるには十分な破壊力があった。
胃が一気に締め付けられ、その圧が酸っぱいものを口の中に広げる。
それが我慢の限界を迎えようとした時――
「――ひっ」
唯が引きつった悲鳴をあげた。
男に群がった影の一体がこちらに振り向いたのだ。
そいつが窓を射抜くようにこちらに振り返ると、濁った瞳と宗田は目があった気がした。
その瞬間、呼吸の仕方すら忘れてしまいそうなほど気圧され、脳裏には昨日見た幻覚が思い出された。
「そんな……嘘だよな。だって、幻覚だったんじゃ……」
宗田の声は虚しく溶けて消える。
どんなに言葉を取り繕っても、目の前で起きている事実は変わらない。
口元を真っ赤に染めて、咀嚼するように口を動かしたゾンビは、気付くことなく群の中へと顔を突っ込んだ。
二人の間を静寂が包むと、唯が尻餅を付く。
「嫌だ……嫌だよっ!」
衝撃で押されたように、耳に手を当て首を何度も横に振る。
血走った眼が飛び出そうになるくらい、今の現実を拒絶しようとしていた。
宗田もカーテンを戻すと、膝から力が抜けて座り込んでしまう。
薄暗くなった部屋の中で、唯の湿り気を帯びた壊れた声が広がり続けていた。
――あれからどれくらい時間が過ぎたのだろうか。
すすり泣く声はかすれ、いつの間にか本物の闇が部屋を覆い尽くしていた。
ふと、顔を上げれば唯の影が闇の中に沈んでいた。
宗田の動きに気づいたのか、俯いたまま唯が話しかけてる。
「……私達、死んじゃうのかな? 宗田さん……助けて」
その姿を見た宗田の心は張り裂けそうなくらい痛く、どうにかしないと、と気持ちが先走るが、近寄ることもできないくらい憔悴していた。
「お父さん……お母さん……やだよ」
唯の呟きが宗田に触れると、視界がクリアになる。
世界は変わってしまった。だけど、彼女はあの頃のままだった。
それを絶対に失いたくない。
そんな気持ちが腹の奥底からこみ上げてくる。
「誰か助けてよ――」
その言葉が最後のトリガーとなった。
ゆっくりと立ち上がり唯に近づくと、覆いかぶさるように唯の後から抱き締めた。
その突然の行動に唯の肩が、ぴくりと動いたがお構いなしに抱きしめ続ける。
宗田の頬を涙が伝い、鼻をすする。
唯も呼応するようにぎゅっと体を縮め、宗田の手を握ると嗚咽を漏らした。
ひとしきり二人で泣いて、ようやく出た声はしゃがれた声だった。
「俺、守るから……だから、二人で……」
唯は返事をしない変わりに、宗田の手を強く握り返した。
なんとしても彼女だけは守らないと。
それが宗田に生きる気力を返してくれた。




