4
部屋の空気は蒸れて重たく、肌にまとわりつて、二人の呼吸を鈍らせる。
「お邪魔します」
控え目にそう言った唯の言葉も、少しだけ沈んでいるようだった。
中へ案内すると、廊下の奥の扉を開ける。
玄関よりも粘り気の籠った空気は、宗田の体を押し返す。だが、冷気の残り香がわずかに肌を撫でると、気分が楽になった。
彼女は一瞬ためらってから、遠慮気味に足を踏み入れる。
宗田はエアコンのスイッチを入れて、立ったままの唯に口を開いた。
「あ、適当に座っていいからね」
空気を和らげるように、なるべくトーンを落として話しかける。
小さく頷きが返ってきたが、どこに座っていいか分からず、下を向いて考えているようだった。
少し経ってそれが落ち着くと、彼女はクッションの端へと腰を下ろす。
それを見届けた宗田は、飲み物を取に奥へと移動した。
「神崎さん、少しは落ち着いた?」
お茶の入ったコップをテーブルに置くと、その音が部屋の空気に溶ける。
完全に音が溶けるのを待ってから、唯が喉を絞るように声を出す。
「はい……少しだけ」
まだ力がない声に、少しだけ腹の中心が重くなったように感じた。
だけど、最初の時より頬に色が戻っていることに、肩の微かにラインが緩やかになる。
宗田はそのまま話しを続けることにした。
「それなら、良かったよ。神崎さんは、体調とか大丈夫?」
唯を落ち着かせようとするが、宗田にもあまり余裕があるわけではない。
今も油断すれば脈が乱れそうだが、それを彼女と言う存在で押さえつけている。
現に緊張で体が強張り、唇が乾燥してわずかに割れそこがピリピリと痛むがそれを庇う余裕はなかった。
目の前で麦茶に溶かされて乾いた音を立てる氷に意識が向くと、一口、口をつけて、へばり付いた喉を剥がした。
少し考え込むように間をあけて、唯が重たそうな唇を動かすと、その声はまだ震えている。
「はい。体調は……大丈夫です」
声色は重く沈んでいるが、目にはわずかに生気が戻っているように見えた。
それでも、気丈に振る舞ってることはあからさまでもう一度声をかけようとすると、異変に気付く。
「あれ? なんだ……胸が――」
突然湧き上がった胸の熱に慌てて手を添えたが、特に異常は見当たらない。
何度も息を吸って吐いてと繰り返すが、その異物は消えることはなかった。
その宗田の行動を見ていた唯が、口を開いた。
「あ、もしかして……宗田さんも」
顎を少し引いて、瞳だけを宗田に向ける。
目が合うと、唯の右手が体の前を押さえていた。
「え……神崎さんも。もしかして、なんか変?」
「はい……熱くて、少しだけちくちくするような気がします」
熱以外になにも起きない静けさが、じわりと体の内部を重くした。
「一度、情報を集めようか」
宗田が唯に言うと唯が頷く。
テレビの電源を入れると、「謎の声! テロか!」と赤いテロップが真っ先に飛び込んでくる。
チャンネルを変えるが、どこの局も似た内容。政府も対応に追われ会見をしているが、調査中と言って打ち切られてしまう。
全国でも同じ声を聞いた人がいるらしい。
腕を組み、それについて考えようとテレビから視線を逸らすと、突然呼ばれた。
「宗田さん! これ!」
唯が指差した先には、速報ニュースが流れている。
「なになに……あの謎の声以降、胸の違和感を訴える人が複数の医療機関で確認。現在、原因の調査中」
それを見ると、血の気が足先まで逃げていくのが分かった。
目が合うと、心のざわつきが彼女の瞳に浮かんでいる。
今にも泣きだしそうに赤らんだ瞳が、逆に揺れた心を落ち着かせた。
できる限り、優しい口調で話しかける。
「ちょっと、ネットを確認してみよう」
ポケットからスマホを取り出すと、声に関しての情報を集めることにする。
しばらく互いに画面を凝視していたが、唯が声を発した。
「これ、見てください……」
こちらに向けたスマホの画面を見ると、大手のSNSが映し出されていた。
そこにはハッシュタグで”#謎の声”、”#胸が熱い”、”#世界終末”と言った不穏なワードが目に飛び込んで来た。
みんなの投稿内容を見ると、二人と同じ症状の人が極少数いることが分かった。ただ、ほとんどの人は何もないらしく、見れば見るほど、体の芯が重くなっていく。
唯がどんどん画面をスライドすると、煽るようなコメントも多く見られた。
「みんなビビり過ぎ。胸が熱いとか、きのせーだから。俺は平気だし」
「どっかの国の極秘兵器じゃね? 魔王とか厨二じゃんかww」
「胸がチクチクするとか、もう死亡フラグでしょ。乙」
普段なら気にしないが、今の状況では心を刺すのに十分な破壊力がある。
スクロールする唯の指先の震えが次第に大きくなり、宗田は唯の手をそっと握る。
「神崎さん、もう無理しなくていいよ」
瞳を真っ直ぐに見て、首を横に振る。
スマホを握る力が弱まると、そっと手を重ね膝の上に下げた。
どこまでも沈んでしまいそうなその姿を見て、ざくりと痛む。
思わず握った手に力が籠ると、唯がすっと顔を上げて口を開いた。
「これから……どうしたらいいんでしょうか?」
その声は今にも消え入りそうだった。
——日付が変わる時、それを……始め、る。
そのキーワードが頭に浮かび上がる。
「魔王が言うには日付が切り替わる頃に始まると言ってたよね」
さらに言葉を続けた。
「その時間まで一緒にいるのはどう? 何もなければ解散。もしもの時でも一緒に居たら少しは安心でしょ?」
宗田の声にはわずかだが、緊張が含まれていた。
唯は少し驚いたように瞼が開かれると、申し訳ないように俯く。
行き場を失った指先が、動きを止め口を開いた。
「……でも、迷惑じゃないですか?」
そう話した唯は、顔を伏せたままだった。
「全然。むしろ、俺としても一緒に居てくれた方が助かる。平然としてるように見えるけど、一人で居る方がおかしくなりそう」
やれやれと首を振る。
「あの、本当に今日はありがとうございます。今度……マグマバーグディッシュおごりますね」
わずかに笑みを見せた彼女を見て、引っかかりが取れた。
「それは勘弁願います。じゃあ、いったん神崎さんも必要なの持ってきなよ。俺はその間に食料調達するからさ」
「は、い……いえ。御意です」
まだ、本調子ではないが、笑顔が戻ってくれただけで今は満足だった。




