魔王
違和感が少しずつ、近づいてきているような気がする。
振り向けば目の前に怪物がいるような。
耳を撫でる空調の冷たい風は、実は死人の吐息ではないかと思えてしまう。
ただ、見えてるのは自分だけ。
彼女を見ても、そんな感じは一切しない。
今も満足そうにフォークを置いて手を合わせていた。
「ご馳走様――でした!」
唯は満面の笑みを浮かべると、ペロリと唇を舐める。
赤いソースがべったりとかかっていた皿は、綺麗に純白を取り戻していた。
「よく、あんな凄いの食べられるね。ソース……やばい」
彼女の皿から少しだけソースをすくって舐めてみた。
血の味がするかと思いきや、舌を馬鹿にするくらいの破壊力が込められている。
でも、それのおかげで少し気分が楽になると、押し込むように宗田はハンバーグを食べきった。
「そうですか? 全然普通に美味しいですよ。大袈裟ですねー」
「そ、そうっすか」
彼女の舌は相当バグっているらしい。
食べきるまで水を一口も飲もうともしなかった。
しかも、汗ひとつかかず、涼しい表情は変わらない。
そうしていると、デザートが運ばれてきて一息つく。
「満足です」
うっとりと目を細め、唯はお腹を擦る。
「あぁ、腹いっぱい」
満足気にそう返した。
「そう言えば……最近は、その大丈夫ですか?」
主語は無いが、何を言おうとしたか分かった。
「大丈夫……かな」
過去の記憶が邪魔をして思うよう言葉を口にできなかった。
今朝も思い出してしまうくらい大丈夫ではない。
唯には成り行きで真奈とのことを話していた。
それに落ち込んでいる自分を心底心配してくれて、いつも気にかけてくれるのだ。
それは、同情かもしれない。
自分みたいな取り柄のない男に、興味なんてないと思う。
顔も普通だし、なにか特技もない。
ただ生きて、時間を浪費する。
それが斎藤宗田だ。
優しくされるたびにどうしても卑屈になってしまう。
こんなんじゃだめだと思っても、勝手になってしまうのだから、救いようがない。
救われてる、でも同じ数だけ憂鬱になる。
それでも、彼女の優しさは止まらず、それにどうにか答えてあげたいと思えてしまう。
「あの……いつでも相談に乗るんで……なんでも言ってください」
「ありが……とう」
ぎこちない笑顔になってしまったが、それでもいいと思った。
「……ごめんなさい」
謝らなくていい。それを口にしようとする。
「気に――」
そう言い切る前に――目の前が再び歪みだした。
――灰色の世界がくる。
――……ッ、ザザザッ。
そのざわめきが大きくなると、色が消失した。
目に映るのは白と黒。唯の色だけが"濃い"。
――……魔王。
耳ではなく、脳に無理やり押し込まれるように“声”が流れ込んできた。
それが神経を逆から撫でるようで、背筋が無理やり引き延ばされる。
——日付が変わる時、それを……始め、る。
呼吸が止まった。
——人類と魔王の戦争。
——殺せ。
間を置いて、もうひとつ。
――殺せ。
それは声というより、世界から告げられる"指示"だった。
老いも若さも、性別すら感じない、ただの事実だけが淡々と落ちてくる。
――進化か、死か。
——戻したければ、来い。
日常が砕けた感覚だけが残った。
自分だけに聞こえた幻聴かと思ったが違うらしい。
周囲の人達の声が波紋のように広がると、宗田の耳に届いた。
どの声も、今のできごとについて話しをしている。
前を向けば唯もキョロキョロとなにかを探すように頭を動かしている。
それが止まって視線が合うと、唯の口を開いた。
「今の……なんでしょう?」
赤みがかった唇は薄っすらと紫に染まり、小さく震えている。
本能に投げかけるようなあの声は、これが誰かの仕組んだドッキリかなにかだと思うことすらさせてくれない。
喉にまとわりつくような、命の危機を感じる残響が今もギリギリと締め付けて、息苦しさを与えてきた。
だけど、今は彼女のことが心配だ。
怯えるように縮こまった姿は宗田の喉をこじ開けるには十分だった。
「……分からない。悪戯かな?」
励まそうとするが、声のトーンが少し下がってしまう。
悪戯……そんなことひとつも思ってないくせに。
つくづくなんでも誤魔化そうとする自分が嫌になる。
もっとマシな言い方はなかったのだろうか?
言ってから少し後悔して、宗田の瞳から力が消えていく。
「悪戯……ですかね? でも、やっぱり……」
彼女は自分に合わせてくれたみたいだが、下を向いてしまう。
誤魔化しきれない彼女の感情が溢れるように、落ち視線の先で指先を忙しなく動かしていた。
しばらく沈黙が続き、気まずい雰囲気に包まれる。
宗田も言葉を探すが見つからず、耳に入ってくる他の人の声に耳を向けた。
どれもこれも、悪戯だ。
とか、店側にクレームを入れる人までいる始末。
時間が経つにつれて、店内が混沌とし始めて、宗田がすっと立ち上がる。
なんの前触れもなく立ち上がった唯は驚いた様子で、顔を上げた。
「とりあえず……店を、出ようか」
会計伝票を手に取りながら、唯に優しく言葉をかける。
伝票をレジに持って行く。
「ご一緒でよろしいでしょうか?」
財布に伸ばした手が止まった。
なるべく前をみないように、ささっと会計を済ませて唯の手を取って店を出る。
彼女から伝わってくる体温は冷たくて、震えている。
それを温めるように強く握り返した。
――――
「それでさ。さっきの事、落ち着いて話さない?」
「そう……ですね。でも、どこで?」
唯は不安気に周囲を見回す。まだ店内のざわめきが耳に残っているのか、視線が定まっていない。
「そうだな……うち、来る?」
言ってから少しだけ息を呑んだ。
軽い誘いのつもりではない。
落ち着かせたい、それだけだった。
いつも受動的な自分から人を誘うのはかなり勇気がいった。
それもとびっきり可愛い女性となれば、なおさら緊張する。
宗田は探るように彼女を見た。
一瞬だけ唯の目が見開き、顎を引く。
「……いいんですか?」
店の前の空気は暑いのに冷たく感じられた。
「もちろん」そう返すと少しばかり時間をおいて、唯は顔を上げる。
「……お願いします」
そう言った声は細く、触れれば消えてしまいそうだった。
唯の歩幅はいつもより小さく、靴音も控えめに追いかけてくる。
半歩後ろを歩く彼女に「大丈夫」と声を掛けようとしたが、喉の奥へと押し返された。
世界が遠くに感じられた。車の音に人の話し声、そのどれにも膜が張られたように、二人が異物となったように感じられる。
お互いに会話がないまま、歩き続けるとようやく見知った建物が目に入った。
「着いたよ」
静寂の世界は唐突に終わりを告げた。
「あ……はい」
俯きながら視線だけをこちらに向ける。
「中に入ろうか」
ギィッとした扉のきしむ音が、虚しく溶け広がった。




