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突然の来訪者に体が縮こまると、さっきの臭気が一気に濃度を増す。
直感で、あの悪臭の原因が扉の向こう側にいる奴が犯人だと理解できた。
息を潜めやり過ごそうとするが、そいつが扉を叩く音が鳴り止むことはなかった。
金具が鳴り続けると、ネジの一個が外れたのか乾いた音が奥の方で聞こえる。
重たい音が繰り返し空気を揺らし、二人はそれを見つめるだけで、身動きが取れなくなっていた。
不意に玄関の隙間から光の筋が伸びると、宗田の目の奥を刺激する。
思わず瞳孔が急激に縮まり目を細めると、ようやく金縛りのように動けなかった体が自由になった。
「……ここで待ってて」
肺の中で固まった空気を吐き出し唯に声をかけると、彼女を守るように一本前に出る。
唯が何か言っていたが、宗田は敢えて振り返らなかった。
もし、そうしていたらゾンビに立ち向かおうとした自分がまた怯えそう……そんな気がしたからだ。
背後の部屋の扉を後手で閉め、真っ直ぐに玄関を捉えると、指先が食い込むくらい強く握る。
「ぐぅ……が、がが、がぁ……ぁぁ……」
向こう側から聞こえた唸り声は、地獄の使者のようで人間だった頃を思い出せないくらい歪んでいた。
恐怖に慄き足が床に縫い付けられるが、唯を守ると決意した気持ちは、その縫い目をほどいていく。
玄関までの道のりは、永遠とも思えるほど遠く感じられたが、どうにか辿り着くことに成功すると、迎えてくれたのは目を刺すほどのゾンビの体臭だった。
「うっ……おぇっ」
嗚咽が思わず漏れるが、扉に肩から体を押し当て破壊されるのを防ぐ。
「力、やばい」
ゾンビの一撃が体を突き抜けるたび、肺を締め上げ体がわずかに浮く。
肺の空気が追い出され、酸欠になったように息が苦しくなった。
顔を上げて呼吸をするが、それでも体は酸素を求めてもがく。
「……まずい。このままじゃ」
恐らく限界がきた時に扉を破壊されれば、二人とも殺されるだろう。
そうなるくらいならば、最後の意地を見せつける。
――だから、覚悟を決めるしかない。
扉が軽くなった瞬間、鍵を開けて押しかえすように開いた。
すると、すかさずその隙間から手が伸びてくる。
「――い、っ」
氷を切り出して研いだような指先が、宗田の腕に食い込むと鋭い痛みに顔が歪む。
皮膚の上から骨の形が分かるほど締め上げられ、宗田は反射的に腕を引こうとした。
だが、それは余計に状況を悪化させるだけで、指先が余計に食い込み骨が軋んだ。
「い……ぎぃ、ぎぁ……ぐあぁぁ」
その声はすぐ近くで聞こえ、反射的に目を向けると、隙間から顔を覗かせたゾンビと目が合う。
近くではっきり見えたそいつの眼球は、酷く汚れていて邪悪が込められているようだった。
ゾンビがドアの縁に歯を突き立て、ガチガチと食らいつく。
バキッと剥が折れて、そこから体液が漏れるが気にした様子もなく離れることがない。
「あぁ! くそっ!」
怯みそうになる自分を奮い立たせるように叫び、渾身の力をこめ、奥に強く押し込むと――
――浮遊感の後に見えたのは、アスファルトの地面だった。
「――かはっ!」
腹から叩きつけられ呼吸が麻痺すると、少し遅れて横から潰れるような水気を帯びた音がした。
「やった、のか?」
落ちた余韻にまだ体の自由が聞かないが、どうにか顔をそいつに向けると、体を小刻みに震わせてようやく動きを止めた。
そこから一向に動き出す気配を見せず、初めてのゾンビとの戦いを終えたと実感できた。
仰向けにごろりと転がると、太陽の光が顔を直撃する。
腕を盾に目を守るが――眩しいな。
だけど、嫌じゃなかった。
久しぶりに浴びた太陽光が肌を焼き、それが心地よく感じる。
いつまでもこの気分を味わっていたいとも思ったが、いつ襲われるか分からないと体を起こそうとすると――胸が熱い。
突然、宗田が胸を押さえた。
「――熱い。何が起きた?」
この感じはあの時に似ている気がした。
それよりも熱く、全身に何かが注がれているようにわずかに何かが膨らみ、その感触はくすぐったいような、こそばゆくて全身の毛穴を広げる。
しばらくして、収まったがやけに視界がクリアに見える。
「今の……なんだったんだ?」
体に異常はないか確認するが、特に変わったことはない。
ただ、立ち上がると全身の疲労が消えているような気がする。
「あれ? 体、軽いぞ」
魔法を使用した時の体の重さが残っていたはずが、それすらもない。
これはまるでレベルアップじゃないのだろうか。
そう思えるような現象が宗田の体に起こっていた。
確かめるように指先を一つ一つ内側に折り込み、感触を確かめると、内側から力が湧いてくるように感じられた。
「まさか……な。でも……とりあえず、戻ろう」
部屋に戻ろうとした時、見ないようにしていた死体意識を持っていかれ、そこで固定されてしまう。
元人間を殺したと言う事実に指先が一気に冷やされ、寒くもないのに体が震えた。
罪悪感のように重たくなった感情が胃を押し上げ、中身をぶちまけた。
ひとしきり吐き終えると、膝から力が抜けて倒れそうになるが、なんとか踏ん張って耐える。
「こんなのが……これから当たり前になるのかよ」
手の甲で口元を拭い、よろよろとした足取りでその場を離れた。
「――宗田さん! 大丈夫ですかっ!」
玄関を開けると、唯が駆け寄ってきた。
「心配かけてごめん。なんとかなったよ」
「良かったです……本当に良かった」
宗田の服をぎゅっと握り、額を胸に軽く当ててくる。
髪の毛からふんわりと漂ってきた甘い匂いは、麻痺した鼻腔を優しく撫でると、鼓動が息継ぎを忘れたように鳴り続けた。
それを隠すように指先で数度頬をかいて、顔を上に向けた。
すると、唯が宗田からわずかに離れて持ち上げた右腕を見た。
「あ……これ、怪我してます」
彼女が心配そうに、紫色に染まった宗田の腕を見た。
「ゾンビに捕まれた時、ちょっとね。あいつら、力やばい」
唯が手を伸ばしそれに触れそうになるがすぐに手を引っ込めると、彼女は息を飲む。
「魔法使えればな。こんな傷"すぐに治せるのに"」
目を瞑り願うように唯が呟くと、宗田の怪我をした部分が緑色の光に包まれた。
「――えっ?」
二人の声が重なり、吸い込まれるようにそれを凝視すると、空気に吸い込まれるように淡い光が消えていく。
かすかに彼女の温もりのような温かさが残っているような感じがした。
驚きはしたが、恐怖はなく、ずっとそれを感じていたいと思えるほど心地良い。
そして、光が消えた後の腕は、時間が戻ったかのように傷が消えていた。
「これ、私が……」
唯の瞳孔が開き、自分でしたことに驚きを隠せていない様子だった。
「魔法――できちゃったみたいです」
その笑顔は凄く自然で、本当に心配していてくれたみたいだ。




