10.さっそくチャンス
便所用スリッパに履き替えて、大股を崩さずに進み、個室のドアを勢いよく閉めて、祭は無用の便座に腰を下ろした。
右の拳が怒りの矛先を見失い、わなわなと震え続けている。やり場のない怒りを目の前の白いドアに叩きつけようとして、どうにか思いとどまった。
かわいい雪の小さな手が、か細い手首が壊れてしまいそうな気がした。普段の自分の体ならば、こんなドアの一つや二つ殴ったところでどうということはないのに。
やっぱりこの拳は、柊に振り下ろしておくべきだったのだ。
一時限目終了後の休み時間に、雪に釘を刺されていなかったら、間違いなくそうなっていたと思う。
先ほどの饒舌な柊の姿が頭に浮かぶ。
いつもあんな風にあたしのことを面白おかしく雪に話しているのだろうか。そうして、雪がくすくすと笑ってくれることに喜びを感じ、調子に乗ってデレデレとにやけ面を浮かべているのだ。思い切った行動などなに一つ起こせないくせに、せこせこと雪のポイントを稼ぐような真似をして、全くもって腹立たしいことである。
雪の隣でにやける柊の顔が頭に浮かんだ。
便所用スリッパの裏で目の前の白いドアを蹴った。右足にじーんとした痛みが鈍く伝ってくる。いつもの体なら、こんな脆いドアなど怒りに任せて蹴破れそうな気がするのに。祭は体の縮んだ名探偵のようなジレンマに襲われる。
やっぱり今度なにかあれば、容赦なく柊を蹴り飛ばすべきなのだ。
雪は心配しているみたいだけど、人格が入れ替わったなどという世迷いごとのような話がそうそうバレるはずもない。桜もそう言っていたではないか。
罪のないドアに放った一撃ではどうにもスッキリせず、次からは容赦せずに柊をぶっとばそうという結論に達する。祭は無用の便座から腰をあげ、流さなくてもいい水を流し、洗わなくてもいい手を洗い、うっすらと曇る鏡に目を向けた。
愛しい雪のつぶらな瞳がこちらを見返していた。
かわいい雪に免じて柊のことはもう少しだけ我慢してやろうか、などという甘い考えは祭の頭に浮かばなかった。目の前に映る雪の姿を見てひらめいたのは、いつも通りのよからぬ企みである。
このまましばらくここでやり過ごせば、先に購買で昼ご飯を買い終えた柊と中庭で待っている雪が二人っきりになるではないか。そこを少し遅れていき、茂みに隠れてこっそり二人の様子を見守るのは面白そうだと思った。
祭は個室へとUターンし、ふたたび無用の便座の上に腰を下ろして、しばらく時間が過ぎるのを待った。
カツサンドと唐揚げパンと牛ミンチコロッケパンに野菜ジュースを足そうと思ったら、やはり出遅れたのがまずかったのかカツサンドと唐揚げパンが共に売り切れていた。結局、牛ミンチコロッケパンと焼きそばパンとあんぱんと紙パックの牛乳を購入して、祭は昇降口へと向かう。
下駄箱で土足に履き替えて、中庭へと出た。
緑豊かな中庭にセミの鳴き声が溶けていた。それに混じる形で校舎からの喧騒が漏れ出ている。青空に浮かぶ太陽の強い日差しに目がくらんだ。いつもよりどこか日の光がきつく感じられる。
人の多い中庭の中心地を通り抜け、柊と雪がいつも昼食を食べている北棟校舎付近のロケーションを目指す。
中庭を彩る人の数が徐々に少なくなっていく。
校舎から聞こえてくる喧騒が少しずつ遠くなる。
二人の座るベンチが見えてきた。
己の肉体に宿った雪となんにも知らない柊が、木陰の落ちるベンチに並んで座っていた。購買で買ったパンを片手にしている柊が雪に向かって手を伸ばそうとしている。
「あれれ? もしかして、さっそくチャンス!?」
祭は小声で一人はしゃぎ、あんぱんの封を開け、紙パックの牛乳にストローを挿し込んだ。
「ユキ! そこよ、そこー! 切り返して主導権を握りなさい!」
格闘技でも観戦しているかのような声援を送り、あんぱんと紙パックの牛乳を握る手に力を込め、張りこみ捜査を行う警察官のごとく二人の様子を茂みに隠れて見守ることにした。




