第四話 蝉の鳴き声に
1
握りしめていた定期を叩くように改札口を通った私は、電車の中で沈みそうになっていた心を奮い立たせるように走った。
嘘だ。あの里見が交通事故にあったなんて、絶対に嘘だ。
はつのの変な冗談だと思いたいのに、切っていない携帯電話からはつののすすり泣く声が聞こえる。電車の中にいた時もはつのはずっと泣いていた。
(……嘘じゃ、ない)
はつのに聞かれてしまうから声には出さなかった。
「あと少しで着くからね!」
走りながら、泣いちゃうかもしれないと思った。遠慮なく泣くはつのをずるいと私は理不尽に思った。
『……ごめん、なさい……』
「謝らないで!」
……私に謝らないで。
私はずっと里見と一緒に歩いていたあのゆるい坂道を全力で走った。この坂道で太陽の下笑っていた私たちはいなくて、月明かりと電灯を頼りに泣き出しそうな私がいる。
「……里見……ッ!」
あのニコニコとした笑顔。
呑気な声。
全部、もう二度と見れないのかな。
『じゃあ、また明日ね。花夜』
あれが最後だなんて嫌だよ。
坂道から病院への近道になる小道に逸れた私は、涙を拭った。結局、気づけば私は泣いていた。
見えてきた総合病院の門をまたいで、受付の人に事情を説明する。そしてはつのがいると思う目的地まで急いだ。
「はつのっ!」
半ば叫ぶように、広い待ち合い室で縮こまるようにソファに座っていた彼女の名前を呼ぶ。はつのはすぐさま泣き腫らした顔を上げて私に飛び込んできた。
「花夜ぁ!」
ただ必死に、私とあまり変わらない身長のはつのを抱きしめる。冷房が効いているこの場所にいたせいか、里見のせいか。どちらにしろはつのの体は汗を流す私の体とは対照的にひどく冷たかった。
「はつの、あんた……」
「どうしよう花夜! 私……っ!」
「落ち着いてってば! とにかく体を温めないと!」
はつのをソファに座らせて周囲に視線を向ける。看護婦さんを探しに行くために、私ははつのに待つように言った。こくん、とはつのは弱々しく頷いて再び泣きながら縮こまる。
私はこの恐怖心を消すように、はつののためにもう一度走った。
見つけた看護婦さんからブランケットを借りて、はつのに手渡す。はつのは小刻みに震える手で私から受け取った。ゆっくりとブランケットにくるまるはつのを見届けて、私ももう一枚のブランケットにくるまる。
汗が急に冷えて寒くなったけれど、ブランケットのおかげで少しは温かくなった。
「…………」
互いに無言の状況が続く。はつのも、そして私も言葉にするのが怖かった。だから二人とも何も言えなかった。
その気持ちに矛盾するように、里見の身に何が起こったのか詳しく知りたいと思った。けれど、今のはつのに尋ねるのは残酷なような気がした。
「…………花夜、ごめん」
私がはつのにブランケットを渡してどれくらい経ったか、はつのから消えそうな声が聞こえた。
「だから、なんではつのが謝るのよ。……はつのが謝らないでよ」
そんなつもりはまったくなかったのに、はつのからすれば私がはつのを責めているように聞こえたかもしれない。
「違うの……、私のせいなの」
そんな私の思考を裏付けるように、はつのは声をさらに振り絞った。
「違うって……」
はつのを見る。
違うって何、と。
長くてキレイな黒髪がはつのの表情を隠していて、余計にはつのの考えていることがわからなかった。
「……里見くんがね、私をかばったの」
はつのの口から紡がれたのは、私にとって衝撃的と言うより納得できる事実だった。
「やっぱり、里見がはつのをかばったんだね」
「…………」
運動神経がいいということは反射神経がいいということとイコールで結ばれている。実際に昨日、里見は私が投げた梨を普通にキャッチできていた。
だからいくら里見がバカだからと言って、車に轢かれるとは考えにくかった。その上ではつのが自分のせいだと言うのなら、私だってそう考えるしかなかった。
「……私たちが歩道を歩いている時、急に『危ない』って里見くんが言って、引っ張られたと思ったら、里見くんが……」
「はつの、もういいよ。わかったから……ね?」
はつのはそう言うけれど、それでも私ははつのが悪くて謝らなくちゃいけないとは思っていない。
はつのの背中をさすって、励ましの言葉を言う。本当は私だって誰かに励まして欲しかった。けれど今一番辛いのは私じゃなくてはつのだ。
そこまで思って、私は大事なことに気づいた。
「ねぇはつの。里見の両親は今、どうしているの?」
ピクッとはつのは肩を震わせた。
「……今、手術室の前にいるの」
「里見は今、手術中ってこと?」
はつのは頭を下げて頷いた。
もう喋るのも辛いみたいで、現場を見ていない私がしっかりしていなくちゃと強く思わせた。
「はつの、里見ならきっと大丈夫だって。あいつ、あぁ見えて体はすっごい丈夫なんだからさ」
「……大丈夫って、どうしてそう言い切れるの?」
「小さい頃ね、里見が木の上から落ちちゃったことがあるの。でも里見ったら結構高さあったのに、次の日なんでもないような顔して遊んでたんだよ? 信じられないよね。だからきっと、絶対大丈夫!」
そう信じていないと今にも不安に押し潰されそうで、私は笑う。さっきから同じ体勢で私の話を聞いていたはつのは、一言だけ呟いた。
「――花夜は強いね」
強くないよ。強がっているだけだよ。
唇を噛みしめると、ガクンッとはつのの頭が下がった。
「はつのっ?」
はつのの背中に手を当てると、はつのから寝息が聞こえてくる。里見から何度も何度も聞かされていたせいですぐにわかった。
「……おやすみ、はつの」
話すことも話して疲れたんだ。
私ははつのをそっとすることにして、不意にさっき自分で話した小さい頃の話を思い出した。
2
毎日が夏休みのようだった幼稚園の頃の話だったと思う。
この頃から物心はつき始め、同い年で家が近い里見とはよく一緒に遊んでいた。
蝉の鳴き声がうるさいとは思わずに、二人で近所の公園を走り回る。毎日飽きもしないで、変わっていないようで何かが違う毎日を私たちは全力で生きていた。
「花夜ぁー! 早いよー!」
後ろの里見が泣きながら私を追いかける。
「おそいのがダメなの! ほら、ここまでおいでー!」
「もう走れないよー! 足いたいよぉー!」
里見は私を追いかけるのを止めて、その場に座り込んだ。初めて私の前でわんわん泣く里見に私は戸惑ってしまう。周囲の目が幼い私からしたらとても痛くて、私は里見に駆け寄った。
「ないてすわれば私が来てくれると思ったの?」
自分が悪いと思っても素直になれなかった。里見はそんな私にぶんぶんと首を横に振る。
「ほら、手」
立ち上がろうとしない里見に手を伸ばした。里見も手を伸ばして私の手を掴む。柔らかくて温かい、子供の手だった。
「……もう。足が早くなかったら一生私に追いつけないんだからね」
「うん。ぼく、がんばって足早くなって、花夜に追いつくからね!」
さっきの泣き顔はどこに行ったのか、里見は無邪気に笑って言った。思えばこの頃から里見は足が早くなっていったような気がする。
「あっそ。まぁせいぜいがんばりなさい!」
前に見たアニメのキャラクターの真似をして私は里見の手を離した。
モヤモヤした気持ちになった私は、なるべく遠くに行きたくて視線をさ迷わせた。すぐに視界に飛び込んできたのは一番大きな木で、そこに行って見上げると小学生が木登りをしていた。
「すごい……」
「花夜?」
「ッ! さ、里見?! なんでついてきたのよ!」
ちょっぴり理不尽なことを言って、私は数歩下がった。里見はきょとんとした表情で首を傾げる。
「なんでって、ぼくは花夜といっしょにあそんでるから……」
「そ、そうだけど! 今は近くにいちゃダメなの!」
私は里見から離れたくて木の枝に手をかけた。
「っあ、花夜?!」
「私はきのぼりしてあそぶから、里見はそこで見てなさい!」
「そんなことしたらあぶないよ」
「あぶなくないもん!」
里見に言われてムキになった私は、さらに上の枝に手をかける。もう里見に何を言われても木登りを止めるつもりはなかった。
必死になって、ようやく自分が立てるほどの太さがある枝を見つける。枝の足場をちゃんと確認した上で立つと達成感が込み上げてきた。
「ほらね、あぶなくなかったでしょ?」
地面を見ると、そこに里見はいなかった。慌てて周囲を見回しても里見はいない。帰っちゃったのかなと思った瞬間、案外近くから里見の震えた声が聞こえた。
「花夜ぁー」
声のした方を見ると、半泣き状態の里見が私の後に続いて木を登っていた。
「里見?!」
里見は手を伸ばして枝を掴む。
「あんた何してるのよ!」
「だって、花夜が遠くに行っちゃうから……!」
「私はここにいるじゃん! あんたきのぼりなんてできないんだから、さっさと下りなさいよ!」
さっきの私のように、言うことを無視した里見はゆっくりと登ってきた。里見はニパッと笑って私の隣に立つ。
「花夜!」
私の名前を呼んだ里見は嬉しそうに私を抱きしめた。
「よかったぁ」
そしてついに泣いた。
「な、なんでなくのよ!」
「だってぼく、花夜が遠くに行っちゃうって思ってこわかったんだもん!」
「だからそんなことないってば!」
里見はさらに強く私を抱きしめる。慌てた私は里見を突き放して、不安定な枝の上にしりもちをついた。
「いったぁ!」
落ちなかったことが奇跡だと思いながら里見に視線を向けると、そこにはまた里見がいなかった。
「……里見?」
地面に視線を移すと、そこには探していた里見が倒れていた。
「里見ッ?!」
大人の人たちが里見のもとへと駆け寄っていく。里見はピクリとも動かないで、木陰のベンチに移された。
「…………ぁ、あ……」
今すぐ里見の側に行かなきゃ。行って謝らなきゃ。なのに下りることが怖くて怖くて仕方がなかった。
「……里見、里見ぃ!」
結局下りれなくなった私は、枝の上で大泣きしながら大勢の知らない大人の人に下ろしてもらった。
そんな、胸が痛くなる夏の日の話だった。
誰かに揺さぶられる。
「……花夜ちゃん。花夜ちゃん」
小さな声で名前も呼ばれた。目を開けると目の前に里見のお母さんがいて、私を心配そうに覗きこんでいる。
「おばさん……」
「里見のために来てくれたのね。ありがとう」
「……当たり前じゃないですか」
自分の子供の命が危ないという時でも、おばさんは私の心配をした。あの焼きつくような夏の日もそうだった。
「里見はどうなったんですか?」
「まだ手術中なの。今はお父さんが側にいるわ」
「……そうですか」
はつののように私は俯く。
私よりもはつのよりもおばさんの方が辛いはずなのに、おばさんの前だと甘えたくなった。
「それでね、花夜ちゃん。里見の手術が長くなりそうだから、貴方は隣の子と一緒に家に帰った方がいいわ。貴方たちが里見を心配してくれるように、貴方たちの親御さんも貴方たちを心配しているだろうから」
隣のはつのは、今もブランケットにくるまれながら眠っていた。
「…………」
黙る私に、おばさんは眉を下げる。
困らせているんだってすぐにわかった。
「やっぱり無事だとわからない限り、家には帰りたくないわよね」
「……はい」
「終電までまだ時間はあるわ。少しだけだけど私と話をしましょう」
おばさんは私の隣に座った。里見の……一条家のシャンプーの香りがして泣きそうになる。
「ねぇ花夜ちゃん。貴方は里見のどこが好き?」
「え?」
「どこが好きなのかなぁって思っただけよ。ただの私の好奇心ね」
苦笑するおばさんに胸が痛くなる。
おばさんのために答えようと思うけれど、私はどう答えていいか迷った。
「ごめんなさいね。答えにくかったかしら?」
「……いえ、違うんです。私は……里見のどこが好きとか、そういうのがないんです。ただの幼馴染みだから、なんとなく一緒にいるだけというか……」
「ただの幼馴染み、ね。隠さなくてもいいのよ? 花夜ちゃんと里見がつき合っているのは、花夜ちゃんのお母さんも知っているんだから」
おばさんはまっすぐに私を見つめた。
私はおばさんの台詞でお母さんの態度を思い出す。
「あの、私と里見はつき合ってないです。里見とつき合っているのは、この子……水戸部はつのです」
私はおばさんがお母さんのような態度をしないように、すぐに本当の彼女のはつのを見えるように体を動かした。
おばさんは目を見開いて眠るはつのを見つめる。
「……え? この子が里見の彼女……なの?」
「はい。おばさんやお母さんが何を勘違いしているのか知りませんけど、私は里見の彼女じゃないんです」
今日だって里見とデートをしていたのははつのの方だ。里見やはつののためにも、この誤解は早く解かないと。
「花夜ちゃん、それは本当なの? だって、里見はあんなに花夜ちゃんのことが……」
「本当ですよ。というか、里見が私のことを好きなわけないじゃないですか。あったとしてもそれはきっと幼馴染みとしての"好き"で、私にだって彼氏がいるんですから」
そう。古城大地という名前の、サッカーが上手くてとても優しい彼氏が。
「……はつのちゃん、ね。私はてっきり同級生の子かと思っていたわ」
「同い年ですよ。みんなに優しくて、頭も良くて本が好きで。キレイだし、里見が好きになるのもわかります。私が男だったら惚れちゃいますよ」
おばさんは黙ってはつのを見つめた。
「本当にキレイな子ね」
「一条里見自慢の彼女ですから」
私がここまで説明したのに、何故かおばさんは納得していないみたいだった。疲れたはつのは眠ったままだから、第一印象が悪かったのかもしれない。
(なんかごめん、はつの!)
「花夜ちゃん。そろそろこの話も終わりにしましょう」
おばさんは立ち上がって、隣のはつのをもう一度見つめた。
「ッは、はつの! 起きて!」
これ以上はつのの印象が悪くならないように、はつのを揺さぶる。ゆっくりと目を開けたはつのと私の目が合った。
「……! か、花夜!」
自分が眠っていたことに驚いたのか、はつのは慌て出した。そしておばさんを見て息を詰まらせる。
「さ、里見くんのお母さん!」
「改めてはじめまして、水戸部はつのさん。救急車を呼んでくれてありがとうございました」
「……ぁ、いえ。当然のことをしただけですから」
おばさんの口から救急車の単語を聞いたはつのは、急に落ち着きを取り戻してむしろ落ち込んだ。
「里見はまだ手術中で、時間がかかりそうなんです。だから花夜ちゃんとはつのさんは親御さんが心配する前に今日はいったん帰って、ちゃんと睡眠をとってください。里見の手術が終わったら、必ず連絡します」
「…………はい。わかりました」
はつのは私よりも聞き分けが良かった。
優しいおばさんは無理して微笑んで、私たちを見送ると言ってくれる。
「いえ、大丈夫です。おばさんは里見の側にいてあげてください」
おばさんは涙を堪えて短く頷いた。
「二人とも、これからも里見のことをよろしくね」
代わりにそう言って、頭を下げた。