第三話 去りゆく太陽
1
今日も嫌な夏期講習が始まる。
里見は何故か、満面の笑みで電車に乗り込んだ。いつもの車両の、いつもの席に座る私たち。昨日も今日も明日も、きっと変わらない日々が続くんだと私は思っていた。
「……ん」
こてん、と、私の肩に鞄じゃない重みが加わった。里見の家のシャンプーの匂いが鼻孔をくすぐっている。
チラッと隣を見ると、やっぱり隣に座っていた里見が眠っていた。里見はたまにだけど、電車の中で眠ることがある。しかもそれは学校に行く時の方が多くて、一緒に登校している私は毎度毎度里見を起こしていた。
(ったく。起こす身にもなってよね)
たった数駅しかないのだから、寝たってあまり意味はないのに。
気味が悪いほどに規則正しい寝息が聞こえていた。きっと隣がはつのだったら寝ないんだろうな、なんて私は思う。
「…………なんなのよ、里見のヤツ」
私は幼馴染みで、はつのは彼女だからなのかな。彼女を大切にすることはいいことだけれど、幼馴染みの私とはこれからもずっと一緒とは限らないのに。
そんなことを思っていると、すぐに一つ前の駅についてしまった。短く息を吐いて、私は里見の肩を揺する。
「里見。ほら、里見ったら」
「ん……」
「まったく。早く起きなさいよ」
なかなか起きない里見の軽く頬をつねる。里見は身動きをして、ゆっくりと目を開けた。
「……あ、花夜。おはよう……」
「寝ぼけてるの? さっきも『おはよう』って言ったでしょ」
「……でも俺、起きたばっかだし」
眠そうに言う里見は目をこすってあくびをした。つられて私もあくびをしてしまう。
「あはは。花夜、眠そう」
「誰のせいだと思ってるのよバカ里見」
笑って眠気が覚めたらしい里見は、「俺?」といつものようにニコニコ笑った。
「わかってるなら、反省」
「はーい」
そう言って里見は目をつむる。「反省反省」と呟いてはいるけれど、どう見ても眠っているようにしか見えなかった。
「だから起きる!」
その瞬間に扉が開いて、里見も私も慌ててホームに降りた。振り向くとちょうど扉が閉まって、里見が笑う。
「今のは危なかったね」
「それはこっちの台詞よ。あんたは寝過ごすところだったじゃない」
「でも花夜のおかげで間に合ったよ」
「今回はね。でも次はないかもよ?」
はつのとのことを考えていたからか、いつもと違うような返し方をしてしまった。
幼馴染みだからって、恋人でもないのにずっと一緒とは限らない。次から里見を起こすのははつのかもしれない。
「えー、それは困る」
眉を下げる里見は本当に困った表情をしていた。
「あんたは幼馴染み依存症か」
デコピンをしながらつっこんで、さっさと改札口を出る。軽いノリで言ったからこの話はここで途切れた。
「ねぇ花夜。今日も図書室行かない?」
駅と高校の間にあるゆるやかな坂道を登りながら、里見は頬を緩ませた。
「はつのがいたらどうせ私が外に出るんだから、行かない」
別にはつのが嫌いなんじゃない。涼しい場所から暑い場所に放り込まれるのが嫌なんだ。
「はつのは今日来ないよ?」
「え?」
「だってはつの、昨日は本返しに来ただけだって言ってたし」
「へぇ、そうなんだ……」
なんだ、それなら行ってもいいかなって思う自分は何様なんだろう。心のどこかではつのを邪魔者扱いしている気がして、自分で自分が嫌になった。
「はつのは花夜と違って夏期講習受けなくても平気だしね」
さりげなくけなされた私は唇を尖らせる。
「はいはい、どうせ私はバカですよー」
里見にはつのと比べられたことで、何故か私は開きなおってしまった。
「そうそう」
どうやら里見はフォローをする気がないらしい。私はたいした量も入っていない鞄で、呑気に目の前を歩く里見の腰回りを殴った。
「いった!」
「ばぁかっ」
足を止める里見を追い抜かして、ふりそそぐ日光の下、学校を目指して小走りをする。ゆるやかな坂の景色が先ほどよりも早く変わっていった。
「もー、花夜! 痛いし走ったら危な」
ズルッ、ゴッ!
痛そうな音が私の"後ろから"聞こえた。
「里見?!」
振り向くと、里見が転んでいた。
「……だ、大丈夫?」
その様子はあまりにも幼稚すぎて、心配する気も失せる。
そこは普通言われた方が転ぶんじゃない? なんて疑問も里見を見てすぐに飛んでいった。里見は体のすべてを坂道にひっつけていて、とてもじゃないが現役男子高校生には見えない。
「ほら」
なかなか起きない里見に仕方なく手を差し伸べると、里見はそれを無視してけろっと立ち上がった。
「へーきへーき」
制服についた砂を手で払い落とした里見は、いつものニコニコ笑顔を私に見せる。
「……あっそ」
なんだか辛うじて残っていた心配をして、損した気持ちになり、私は手を引っ込めた。そんな私の手を、表情をまったく変えずに握った里見は私よりも先に坂道を上りはじめる。
……少し上を歩く里見は、いつもよりも大きく見えて。
その後ろ姿を眺めて鼓動が少し早くなったのは、私だけの秘密だった。
正門をまたぐと、グラウンドではサッカー部が練習をしていて、私は慌てて里見の手を振り払う。当然驚いた里見は、グラウンドで練習をする私の彼氏の大地を見つけて眉を下げた。
その時の目の色はいつのも里見にはないもので、幼馴染みだからこそ私は一瞬だけ言葉を失った。
2
数分後、図書室に到着した私たちはなんとなく昨日と同じ席に座った。するとさっきまでの里見はどこに行ったのか、楽しそうに鞄から一冊の本を取り出す。
「それ、昨日見つけてきたやつ?」
文庫本だったから、里見はあの数時間であっさりと読んでしまったかなと思っていた。不思議だったけれどすぐにその考えは吹き飛ばされる。
「うん。借りたはいいものの、はつのがいたから家に持ち帰ったんだぁ」
やっぱり、その言葉は心の奥底にしまった。
里見に借りられた本は昨日の夜だけで読破されたみたいで、栞が挟まっていなかった。
「いつも思うけど、あんたって本当に全部読んだの?」
「花夜は失礼だなぁ。本当の本当に読んだよ」
里見は少しだけ古ぼけた表紙を一瞥して「読んでみる?」と本を私に差し出した。
「っえ?」
「読みやすいし、花夜は国語の点数だけいいから平気だよね? それにこれ俺のオススメだからさ」
またさりげなくけなされた。けれどそれ以上に里見の"オススメ"という単語が耳に残る。
「里見がそこまで言うなら読んでみよっかなぁー」
上から目線という感じに言って、私は背もたれによりかかった。何度もさりげなくけなされたことに対する、ちょっとした反抗期みたいなものかもしれない。
里見は私の目の前にその本を置いて
「まだ貸し出し期間はあるから、このまま貸してあげる」
と、満面の笑みで言った。
「…………あ、ありがと……」
その笑顔にいったい私は今まで何度負けたことか。複雑な気持ちになりながら、私は本を鞄にしまった。
「読み終わったら感想話し合おうね」
無邪気に小指を差し出す里見に、私も半ば反射的に小指を差し出す。
「――約束だよ」
真剣な表情で、私だけを見つめて。
里見とは何度も約束を交わしたけれど、ここまで印象的な約束はこれが初めてだった。
「じゃ、また新しい本でも探しにいこっかな」
立ち上がって、里見はまたフラフラと奥にある本棚に向かう。あの辺りは行ったことはないけれど、里見が好きそうな雰囲気をかもし出していた。
私は今日もまたやって来なかった夏期講習の宿題を机に広げる。どうせ数学は一人でやっても解けないから、というのがやって来なかった理由だった。
「……あ。花夜、まぁーた宿題やって来なかったんだ」
視線を上げると、文庫本ではない大きな本を持った里見が私のノートを見つめていた。
「しょうがないじゃない。それよりも里見、それってまさか……」
「これも借りなきゃね」
私の言いたいことに気づいた里見はそう言って笑う。それでもすぐにカウンターに持っていくことはせずに、私の隣に座った。鞄の中をあさって、里見はいつもの白いイヤホンを耳につける。
「……私も聞きたい」
「ダーメ。宿題終わっていない花夜には聞かせませーん」
「けち」
「どうせ俺はけちですよー」
ニコニコとさっきの私のような口調で、里見はイヤホンをつけた両耳を守るように手で覆った。諦めた私は改めて一人ではわかりそうにもない宿題に向き直る。
早くも隣の里見に助けを求めようと視線を向けると、自分の好きな音楽を聞きながら面白いらしい本を読む里見がいた。今の里見は嬉しそうで、楽しそうにも見える。
「ねぇ、里見」
一応、言葉だけで声をかける。
里見は当然気づきもしなかった。
「里見ってば」
スポッと私は里見の右のイヤホンを引き抜いた。気のせいかイヤホンから音が聞こえなかったけれど、そんなことはどうでもいい。
「ッ! 花夜?!」
若干頬を赤らめた里見は慌てて私からイヤホンを引き戻した。
「なんでそんなに驚いてんのよ」
「か、花夜が驚かせたんでしょ。……それで? 何?」
イヤホンを引き抜かれたことが相当嫌だったのか、里見は不機嫌そうだった。そんな里見に私はノートをつき出す。
「もう少し自分で考えなよ、花夜」
「考えたわよ」
里見は頬杖をついて私のノートを自分の方へと引き寄せた。しばらくの間、それを眺める里見を見ていると、不意に里見のまつげが長いことに気づいた。
(……そういえば、昔っから長かったっけ)
それに初めて気づいたのは、小学生の時だったかな。里見との距離が近くなった一瞬に気づいた気がする。
(変わってないなぁ、そういうとこ)
「二」
「っふぇ?」
突然ノートから視線を上げた里見が、「何、その声」と笑った。
「う、うるさい!」
「花夜の方がうるさいよ」
静かにというように唇に人差し指を当てた里見は、私の目の前にノートを戻した。
「う……。で? 二って、まさか答えとか言うんじゃないでしょうね?」
思わず囁き声で尋ねると、里見は「そうだよ」となんでもない顔で言った。
「ふぁ?」
(ちょっと待って。自分で聞いといてあれだけど、どうして方程式を見ただけで解けるのよ!)
「だからさ」
私が持っていたペンを取って、さらさらとノートに式を書く。その時に触れた手が少しだけ熱を帯びていた。
「…………里見、あんたもしかして熱あるんじゃない?」
それが気になって、式を書いていた里見の手を掴む。気のせいなんかじゃなくて、確かに熱かった。私はその手を里見のおでこに持っていこうとして、里見本人に止められた。
「な、なんでもないから。平気」
里見を見れば目を見開いたまま頬を朱色に染めている。里見はそのまま左手で口元を覆って、右手でペンを持ち直し回答の続きを書いた。
「なんでもないわけなくない? すっごく熱かったし」
「花夜は心配性だよね。いっつも俺が風邪引いた原因は花夜だったのにさ」
「え、なにそれ。私そんなの知らないんだけど?」
「言ってないからねー。ていうか、言ってなくても普通気づくと思うけど?」
言われて思い返してみれば、確かに私が風邪を治すと決まって里見が風邪を引いていた。せっかく風邪が治ったのに、毎回毎回里見が風邪を引くからつまらないなって思っていたのを覚えている。
「……それ、すっごく覚えてる。ごめん里見」
「いいよ別に。花夜は鈍感だしね」
「言わなきゃわからないわよ」
「………………そっか」
元の顔色に戻った里見は、ニコニコ笑顔というよりも悲しげに微笑んだ。
「ほら」
私に見やすいようにノートを向けてペンを置いた。しばらく呆けてノートを見つめていると、私を憐れんでか里見は本とイヤホンを鞄にしまう。その代わりに自分のノートを取り出して適当に破いた。
「っえ、里見? 何してんの?」
「いいから見てて。花夜専門の先生の俺が教えてあげるから」
里見は破いたノートに公式を書いて「こう使うんだよ」と赤の色ペンで丸く囲んだ。よく見ようと近づくと、トンッと私と里見の膝がぶつかる。
すると、里見がふいと膝を避けたのがわかった。
今まで何度か膝がぶつかったことはあったけれど、こうして離されることはなかった。いつもと違って戸惑ったけれど、ずっとくっつけなくちゃいけないのかと聞かれたらそうではないのだから、私は何も言わなかった。
「なるほどね」
「やっとわかった?」
「うん」
コクコクと頷く。どうして定期テストの時に里見に勉強を教えてもらわなかったんだろうと後悔するほど、よくわかった。
おかげで、この後の夏期講習には辛うじてだけれどもついていけた。
3
今日の夏期講習が終わり、私は久しぶりに上機嫌で正門まで歩いた。振り向くとグラウンドではサッカー部が未だに練習をしていて、私は彼氏の大地の姿を探す。すると里見が私の視界からグラウンドを遮って、私の名前を呼んだ。
「ん、何? 里見」
「実は俺さ……」
言いづらそうな表情で里見は髪を掻いた。
こんな表情の里見は今まで一度も見たことがない。
「ちょ、どうしたの? そんな顔して……」
「里見くんっ!」
後ろの方からはかなげな声が聞こえた。その声の持ち主はキレイな黒髪を風になびかせていて、私と違ってすごく絵になる。
「はつの」
里見が驚いた声色で彼女の名前を呼んだ。
「はつの……?」
はつのは制服姿でそこに立っていた。
はつのは今日、学校に来ないはずだったんじゃなかったっけと私は思考を巡らせる。
「どうして学校まで来たのさ。駅で待っててって言ったでしょ?」
里見はそう言いながらはつののもとへと駆けた。
「ごめんね。待ちきれなかったの」
はつのはしょぼんとしながら里見に謝った。その決して私には真似できない謝り方が羨ましいと思う。
「……里見?」
色々な説明を求めるように里見の名前を呼ぶと、里見は先ほどの表情はどこへ行ったのか、ヘラヘラとした笑顔で私の方を見た。
「実はさ、これからはつのとデートなんだ。だから今日は花夜と一緒に帰れないって言おうとしただけ」
はつのを見ると、はつのは照れくさそうに笑った。
(……あぁ、なんだ。そういうことか)
心配して損した。むしろ、里見の場合は心配するだけ無駄なのかもしれない。
「そういうのは先に言いなさいよ、バカ里見」
「ごめん。今度何かおごるから許してよ、花夜」
「じゃあ駅前にあるカフェの一番高いパフェね」
「え、それって確か桁が他のやつと全然違うあれ?」
「そうよ」
「んー……まぁ、それくらいなら」
いいのか、私は驚く声を必死に飲み込んだ。
「じゃあ、また明日ね。花夜」
はつのと手を繋いでどこかへと行く里見の背中を見送る。遠近法のせいで、今朝とは違い里見は段々小さくなっていった。
里見とはつのが見えなくなった頃、呆けている自分に気づいてようやく私も歩き出す。帰りはゆるやかな下り坂なのだけれど、なんだか足が重たく感じた。
(……そういえば学校から一人で帰るのって初めてかも)
なんだかんだで高校生活も半分が過ぎてしまった。そんな中だからこそ気づいてしまう。
毎日の登下校の日も、今日みたいな講習の日も、自慢ではないけれどいつも二人一緒で。並んで歩くのが常識だった。
(こんなの、駅前のパフェだけじゃ絶対に足りないじゃない)
早くもそう不満をつのらせて私は駅に着いた。
さすがに電車に乗るのもはじめてというわけではないけれど、やっぱり寂しさが胸に残っていた。
隣にいるはずの幼馴染みの温もりはなく、殺風景がどこまでも広がっている感覚にもなってしまう。長いため息を吐いた私は頭をガラスに押しつけた。
まだ真っ昼間だからか外の景色は暑そうに見える。こんな中里見とはつのがデートに行ったんだと思うと、なおさらいい気はしなかった。
家に帰って冷房をつけた私は、ソファに寝そべって昼寝をした。そのせいで仕事から帰ってきたお母さんにこっぴどく叱られて、夕飯の準備を手伝わされる。
「まったく。風邪引いたらどうするの? また里見君に移す気?」
「もう移さないわよ」
野菜を炒めていたお母さんも、里見の風邪は私が移したものだと知っていたらしい。
(私って鈍感なのかな?)
そんな自覚はないんだけれど。
「もうって。あんたいつも里見君にべったりなんだから、あり得ないわよ」
「べ、べったり?! そんなことしてない! むしろ向こうが私にべったりしてくるって言うか、そもそも言っとくけど私と里見はつき合ってないからね!」
「花夜、静かにしなさい。そんな嘘をついても誰も信じないわよ」
「信じないってなにそれ! 私と里見は本当につき合ってないの!」
お母さんは「素直じゃないのね」と呆れた表情で炒めた野菜をお皿に盛りつけた。反論しようとすると、私の携帯が鳴る。
渋々携帯を取って、私は耳元に持っていった。
「もしもし?」
『……か、花夜……?』
聞き覚えのある、だけどか細く消えそうな声。
「はつの?」
それは紛れもなくはつのの声だった。
「どうしたのはつの、こんな時間に。里見と何かあった?」
状況から考えてそれしかあり得なかった。この声から察すると、別れ話にでもなるほどの喧嘩をしたのかな。
だけど現実は違った。
『……里見くんが……』
「うん。里見が?」
『……里見くんが、車に轢かれたの』
スルッと携帯が手元から落ちそうになった。
妙に力が入らないけれど、必死に掴んだままはつのの言葉を再生させる。
「も、もしもし? はつの?」
『ごめん、花夜、私ッ! 私……!』
携帯の奥で取り乱すはつのの言葉は、信じたくはないけれど本当らしい。
「はつの落ち着いて! 今どこにいるの?!」
なかなか返事が来なかった。耳元からはつのが深呼吸をする声が聞こえる。
『……そ、総合病院。学校の近くにある……』
「わかった、今行く!」
通話を切らないまま、定期だけを持って家を飛び出す。恐怖で心臓が捻れそうだった。




