第二話 君との温度差
歩いて数分の駅前のコンビニで、私はさっそく里見にポテトチップスを買ってもらう。夏期講習が始まるまであと二時間はあるけれど、里見はどう思っているんだろう。
「里見、この後どうする?」
ポテトチップスをビニール袋ごとリュックの中に詰め込んで、尋ねる。里見は太陽の光を全身に浴びながら伸びをしていた。
「んー……? 普通に学校に行けばいいんじゃない?」
「行っても何もすることないわよ?」
「大丈夫だって、花夜。俺に任せて」
里見はいたずらっぽく笑って、駅の改札口を通っていく。
「あっ! 待ちなさい里見!」
私は慌てて里見の後を追った。すると、里見は改札口を通った私を少し離れた場所で待っていた。
「花夜を置いて行く訳ないじゃん」
「それでも不安になるでしょーが!」
「え? 不安?」
「ッ! な、なんでもない!」
私はそっぽを向いて、逆に里見を置いて歩いた。けれど、里見は私との歩幅の違いであっという間に追い付いてしまう。
本人はなんでもなさそうだったけれど、私は少しだけショックだった。
ホームに着いて電車を待つ。平日だけれど、通勤時間から外れたおかげでホームにはほとんど人がいなかった。
「なんか人がいないホームって久し振りだね」
「そうね」
いつも見ているはずなのに、里見は新しい発見でもしたかのように瞳を輝かせてホームを見つめていた。
「花夜、電車ってあと何分で来る?」
「は? 自分で見なさいよ…………五分後」
と言いつつ、ついつい電光掲示板を見て答えてしまう。里見は「五分後か……」と呟いて歩き出した。
ベンチに座った里見は、鞄の中から本を取り出して読み始める。よく見ると、昨日里見が読んでいた本と同じ表紙だった。
「里見、だから五分後だって言ったでしょ」
「だってこの本、続きが気になるからさ。電車が来たら教えてよ」
「教えてって何よぉ」
不満を漏らすけれど、その頃にはもう里見はすっかり本の中の世界に入った後だった。私は仕方なく里見の隣に座って、電車が到着するのを待つ。
真夏の太陽が私たちを照りつける中、思い出したかのように里見の匂いと汗の匂いが私の鼻孔を擽った。
無言の時間が続く。里見のせいで長いと思っていた五分はあっという間に終わりを告げて、電車がホームに入ってきた。
「ほら里見、電車来たよ」
里見の肩を揺らして立ち上がる。里見は生温い返事をして栞を挟んだ。
「早く行くわよ!」
バシンと里見の背中を叩くと、案外固い感触がした。
「いった!」
里見は駆け足で電車に乗り込む。
私も後を追って電車に乗り込むと、ちょうど扉が閉まって熱気を遮断した。
「涼しー!」
ホームと同じく電車の中も空いている。私が座席に座ると、里見は隣に座ってもう一度例の本を開いた。
「駅に着いたら教え……」
「ない。その本は没収!」
「えっ? ちょ、あぁ!」
里見の抗議も虚しく、私は里見の本を自分のリュックの中に入れる。
「たまにはいいでしょ?」
「……う。わかったよ」
笑いながら言うと、里見はそっぽを向いてあっさりと認めた。
窓の外を眺める里見の項には汗が張り付いている。着ているシャツは少し透けて見えて、里見が男の子であることを再認識する。
「…………」
「そういえばさぁ」
瞬間、里見が私に視線を戻して言葉を切った。
「え、何か付いてる?」
私が凝視していたせいで、里見が戸惑ったようにそう尋ねる。
「な、何も付いてない!」
恥ずかしくなった私は正面に顔を戻して鞄を抱き寄せた。里見はしばらく私を見つめていたけれど、最終的には納得してくれたらしい。
「で? 里見は何を言いかけたの?」
「ん? あぁ、夏期講習の宿題やったのかなぁって思っ……」
「あっ!」
「その反応、やってないんだぁー」
にこにこと言葉とは裏腹に笑う里見に、「見せてください!」と私はせがむ。
「駄目だよ。先生ちゃんと言ってたでしょ? 夏期講習前にこの宿題やってこーいって」
先生の声真似をしているらしいけど、全然似ていない。私はそんな里見を揺さ振ってもう一度必死に頼み込んだ。
「だーめ」
「……里見、絶対今楽しんでるでしょ」
「そんなことないよ?」
さっきからまったく笑顔を崩さない里見は、背もたれにもたれかかる。私は諦めてリュックの中から数学の教科書を取り出し、頁を捲った。
「何頁だっけ?」
「えーっと、二十三頁」
「本当に?」
里見は私が開いた二十三頁を覗き込んで、「うん、ここ」と問題を指す。
「うわ」
「花夜にはかなり難しいかなぁ」
「かなりとか言わないでよ! ……実際そうだけどさぁ」
項垂れる私に、里見は「どんまい」と励ますだけだった。そう言うなら手伝ってほしい。
「あ、花夜。駅着いたよ」
「うそぉ!」
教科書から顔を上げると、確かにいつも私たちが降りている駅のホームが見えた。里見は私のリュックを持って私が教科書を片付けるのを待ってくれる。
「ごめんっ!」
慌てて降りると、今回もちょうどすぐ後に扉が閉まって電車は遠くまで走っていった。
「ギリギリセーフ」
こんな時でも里見はにこにこと笑っている。私もそんな里見に釣られて笑ってしまった。
数分歩いてようやく学校に辿り着く。夏期講習が始まるまでの約一時間をどうやって過ごそうかと考えていると、唐突に里見が私の手を引っ張った。
「里見?」
「どうせ花夜は宿題やってないんだし、図書室に行こうよ。あそこならエアコンあって涼しいし、俺も楽しいし」
「……うげ。なんかいいのか悪いのかよくわからないチョイス」
「こら。文句言わない」
里見に負けた私は大人しく後をついて行く。しばらくして図書室に辿り着いた里見が扉を開けると、冷えた空気が私の汗ばんだ肌を優しく撫でた。
「涼しー!」
「花夜の冷房が効いてる場所に入る時の第一声って、大体涼しいだよね」
「だって涼しいんだもん」
それの何が悪いのか。里見は私の顔を見るなり吹き出して、さっさと中に進んでいった。
たくさんの趣味を持つ里見が特好きなのは、読書と音楽鑑賞だ。だからか、いつも以上に瞳を輝かせながら里見は奥の本棚へと姿を消してしまう。
私は一人で席に座り、教科書とノートを取り出した。そして、二十三頁を開いて里見が言っていた問題を睨む。数学は私が二番目に苦手な科目だ。そう簡単に解ける問題ではない。
「睨んでも答えなんて出ないよ」
「うわっ! 里見!」
一冊の本を手に取った里見は、人差し指を口元に当てて「しーっ」と言い、私の隣の席に座った。
「花夜、俺の本返して」
「答え教えてくれたら返してもいいけど?」
ペンを回しながらニヤッと笑うと、里見は「しょうがないなぁ」と眉を下げる。里見は私の手からペンを取って、広げている教科書をつんつんとつついた。
「でも俺は、答えじゃなくて過程も教えるからね」
そしてにこっと笑った里見には、絶対に私を逃がさないような威圧感があった。
里見は私との間に教科書を引き寄せて、重要な文に線を引く。里見は私にわかるように何度も何度も噛み砕いて教えてくれた。
「おぉ……」
「ね?」
「……すっごいわかりやすい。あんた、将来先生になったらいいんじゃない?」
「本当? 花夜が言うならなっちゃおうかなぁ」
頬を緩ませる里見は私にペンを返して手を差し出す。
それはそれ、これはこれ。里見は忘れていなかったらしい。
「はいはい」
私はリュックの中に入れておいた里見の本を取り出す。机の上に置くと、里見は嬉しそうに本を手に取った。私は逆に教科書とノートをリュックにしまって、図書室を見回す。冷房が効いていて涼しいけれど、本以外は何もない。隣を見ると、里見は嬉しそうな表情のまま本の頁を捲っていた。
「…………」
目を閉じて机に突っ伏す。このまま眠ってしまおうか。
「花夜、風邪引くよ」
顔だけを向けると、里見が本から目を離して私を見ていた。そっと伸ばされた手は私の頬にかかった髪に触れ、耳にかける。
「……バカは風邪を引かないの」
そう言って、私は妙に恥ずかしいことをしてきた里見からさりげなく視線を逸らした。
「それ嘘だよ。花夜は毎年必ず風邪引いてるから」
「なんで知ってるのよ。私が風邪で休んだ日なんてないでしょ」
「幼馴染みだしねぇ。見てたら気付くでしょ、普通」
「…………う」
里見は本を閉ざして鞄の中にしまう。そして、持ってきた本を受付に持っていく。
里見の後ろ姿を見送っていると、目の前に誰かが立った気配がした。
「あ」
「おはよう、花夜」
里見の彼女、水戸部はつのはにこっとえくぼを作って笑う。
「おはよ。はつの」
里見に注意されたばかりの私は声量を落として手を振った。
手を振り返したはつのは持っていた本を机に置いて、私の目の前の席に座る。その時、呑気な声が戻ってきた。
「はつのおはよー」
さっきの分厚い本を片手に持った里見は、あまりにも自然に私の隣に座る。はつのは「おはよう」と返して笑ったが、私は眉間に皺を寄せた。
「花夜?」
里見が首を傾げて不思議そうに私の顔を覗き込む。視界の隅でははつのが小さく驚いていた。
相変わらずこの二人はお似合いだなぁと思いつつ、だからこそ納得できない部分を私は口にする。
「……なんであんたは私の隣に座るのよ」
「え? なんでってここ、俺がさっき座ってた席じゃん。駄目なの?」
「駄目っていうか違うでしょ。バカだと思ってたけど、ここまでバカなの? 普通だったら彼女の隣に座り直すでしょ」
「そうなの?」
里見は表情を崩さないままはつのに尋ねる。すると、はつのは首を傾げることで答えた。
(……マジか)
この二人は嫉妬という感情を知らないのだ。そのことを思い知った私は、いや自分がおかしいのかもしれないと悩む。
「まぁいいじゃない。ここからだったらはつのの顔がよく見えるし」
朗らかに笑った里見は、今度ははつのの顔を覗き込んだ。はつのは顔を真っ赤にさせて、私と同じように里見から視線を逸らす。
(ほんと、バカップルなんだから)
私はわざとらしく溜息を吐いた。
私と二人きりの時は黙って本を読んでいるくせに、はつのと一緒にいる時は喋ることをやめない。
里見が本当にはつののことが好きなのだということも思い知った私は孤独を感じ始める。
「……じゃ、邪魔者は出ていくね」
このまま図書室にいる意味を見い出せなくなった私は、椅子を引いて立ち上がった。けれど、里見もはつのも善人の塊みたいなものだからか──
「邪魔者って、そんなことはないよ? 花夜はここにいていいんだから」
「そうだよ、はつのの言う通り。花夜のくせに変に遠慮しなくていいって」
──と言って、私を説得しようとした。
「大地がグラウンドでサッカーしてると思うから、そこに行かせてよ」
古城大地はサッカー部に所属している私の彼氏だ。次の主将と噂されているくらい、大地はサッカーが上手くて周りから尊敬されている。私には勿体ないかっこいい彼氏だ。
「っていうか『花夜のくせに』って何よ。里見のくせに生意気」
「んな! 言ったね花夜!」
「先に言ったのは里見でしょ!」
里見は「だって花夜だし」と唇を尖らせる。
読書と音楽鑑賞が好きな多趣味の里見とサッカーが得意な大地とでは大違いだ。そんな態度の里見を見て私はつくづくそう思った。
「ふ、二人とも。ここ図書室だから静かにしないと……」
「あ。ごめん、はつの」
里見と揃ってはつのに謝る。はつのは首を左右に振って苦笑した。
「とにかく私は大地のところに行くの。止めないでよね」
「うん、わかった。熱中症に気を付けてね」
心配そうに私を見上げるはつのに手を振り、黙ってしまった里見を一瞥する。
そこには、小さく口を開けて私を見上げる里見がいた。
*
木の陰になっているところを選びながら道を歩くけれど、はつのが心配していた通り外は暑い。今日みたいな晴天の日はしばらく続くだろう。
見えてきたグラウンドに目を凝らすと、予想通り大地がサッカーの練習をしていた。私は話しかけるなんてことはせずに遠くから大地を眺める。
去年大地が告白してきた日もこんな風に暑かったな、なんて思い返して、私は木陰に座り込んだ。
はつのが里見に告白したのはその年の文化祭で、はつのにそんな度胸があったのかと驚いたことを今でも覚えている。
「花夜、見てたなら声かけろよ」
真上から声がして顔を上げると、いつの間に近付いてきたのか、大地が私を見下ろしていた。
目が合うとくしゃっと笑う大地はタオルで汗を拭いている。その汗が太陽の光のおかげできらきらと輝いていた。
「邪魔したくなかったのよ」
「花夜が邪魔な訳ないだろ」
大地は里見やはつのと同じようなことを言う。私の隣に座った大地は、そんなに喉が渇いていたのか持っていたスポーツドリンクを一気に飲み干した。
「そういや花夜が夏に外出んの珍しいな。花夜って暑いの苦手だろ?」
「……なんで大地が知ってるの?」
大地は得意気な表情で「花夜は俺の彼女だからな」と笑う。私は大地に暑がりだなんて一言も言っていないのに。
「……もしかして里見に聞いた?」
そのことを知っているのは何度考えても里見だけだ。大地はすぐに視線を彷徨わせたけれど、すぐに認めて謝った。
「わ、悪い」
「別に怒ってないからいいけど。大地と里見って仲良かったっけ?」
さっきまで二人を正反対だと思っていた私にとって、この情報は驚きでしかない。
「あれ、花夜知らねぇの? 里見はよくうちの部に助っ人で来てくれるんだよ」
「そうなの?!」
「里見の奴言ってなかったのかよ……。まぁ本人があんな感じだし、言ってなくても不思議じゃねぇけどさ。里見ってあぁ見えて文武両道だよな。バカだけど」
「あぁ、うん。バカだよね、あいつ」
私と大地は顔を見合わせてくすくすと笑い合った。
里見は多趣味だからかサッカーができてもおかしくないと思う。その上成績もいいけれど、バカでちょっと空気が読めない。
「あれ? けど里見ってかなりマイペースっていうか空気読めないじゃん。サッカー部で上手くやれてるの?」
「まぁ最初のうちはのんびりしてたからグダグタだったけど、熱血過ぎたり下手に調子に乗られても困るし。ちょうどいい感じになってんのかな? あれは」
里見のことを話す大地は楽しそうに見えた。
私の知らないところで里見が活躍しているのはちょっと寂しい。
「へぇー。あの性格が役に立つこともあるのね」
けれど、あの大地がそう言うなら寂しさよりも嬉しさの方が勝っていた。この感覚は我が子を褒められた時の感覚に似ているのかもしれない。
「ってか、俺の前でこれ以上里見の話をするの禁止な」
そんな私の気持ちを悟られたのか、大地が唇を尖らせて私の頭を小突いた。
「あ。嫉妬してんの? 大地」
「悪いかよ」
「全然」
首を左右に振った瞬間、大地の奥にある時計塔の針が動いた。よく見ると、あと十分で夏期講習が始まってしまう。
「ごめん大地、時間だ」
「時間ってなんの?」
「……か、夏期講習」
「あぁ。それで学校に来てたのか」
言いづらい中答えてあげたのに、大地はにやにやと笑った。だから答えたくなかったのに。
「そういうこと!」
私は立ち上がってお尻に付いた汚れを払う。
「怒んなって。頑張れよー」
「……ん。大地も練習頑張れ」
言われたからには言い返さないと。私は手を振りながら来た道を戻った。
*
廊下を歩いていると、何人かの生徒とすれ違った。
「花夜ー」
呑気な声が背後から聞こえた瞬間、里見が私の肩に顎を乗せる。私の頬に触れた里見の頬は冷たかった。
「冷たっ! あんた冷えたんじゃないの?!」
「そう言う花夜は熱いよね。大丈夫?」
里見は顎を私の肩から離して、今度は掌で私の頬に触れる。暑い廊下にいるのに未だにひんやりとした里見の手は気持ち良かった。
「わ、花夜! 擽ったいよ!」
そのまますりすりと頬擦りをすると、里見が声を上げて笑う。その声に正気を取り戻した私は、何をやっているんだろうと自分に呆れた。
「あれ、もういいの?」
「擽ったいって言ったじゃん」
「我慢するよ?」
「しなくていーい」
あまりの暑さに変なことをしてしまったらしい。私は恥ずかしくなってしまった気持ちを隠してそっぽを向き、里見はそんな私に「そうだ」と何かを突き出した。
「はいこれ。花夜の鞄」
「えっ?! ……あ!」
「もー。忘れてたでしょ?」
「う、うん」
里見からリュックを受け取って、私は礼を言う。すると、里見は礼は要らないとは言わずに腕を組んだ。
「気を付けてよね。俺が買ったポテトチップスが入ってるんだから」
「そこは教科書とかノートとか言いなさいよバカ!」
思わずリュックを里見にぶつけてしまう。
「ちょっと花夜! ポテトチップス砕けちゃうでしょ?!」
「だから問題はそこじゃない!」
そんなことを言い合っていると夏期講習が行われる教室に辿り着いて、私はすぐに扉を開ける。すると、電車の時にも図書室の時にも感じた冷気が私を包み込んだ。
「癒されるー……」
「出た。花夜の涼しいの最上級」
里見を無視して黒板を確認する。黒板によると夏期講習の席は自由らしく、私は迷わず廊下側の席を選んだ。そして、里見は何故か私の隣に座った。
なんでここに座るのよ、と言おうとして口を噤む。
里見は、大地が言った通り文武両道だ。そんな里見が残念な頭脳を持つ私の隣だったら、困った時に答えを教えてくれるかもしれない。
「里見は本当にいい子ね」
思わず頭を撫でてしまった。里見は不思議そうに私を見ていたが、不気味がることはなかった。
「よろしくね、花夜」
「なによ改まって。まぁ、こちらこそよろしくだけどね」
物心ついた時からの付き合いだというのに、二人して握手をする。さっきまで冷たかった里見の体温は温かく、熱かった私の体温は冷めてくる。
里見ははにかむように笑ってなかなか手を離そうとしない。
同じ体温を共有した私たちの手が離れたのは、夏期講習を担当する先生が教室に入ってきてからだった。
二十人くらいの出席を確認した先生は、早速宿題の答え合わせをする。これは里見に教えてもらったおかげですべて正解していた。
「良かったね」
里見は小声で微笑む。私も小声で「ありがとう」と伝えて親指を立てた。
チョークの音とエアコンの音が微かに聞こえてくる。黒板に書かれている文字は新しい数式で、私は早くも頭を抱えた。
(……わ、わからない! 夏期講習でしょこれ?!)
髪をぐしゃぐしゃに掻き毟る。隣を見れば、里見は涼しげな表情でノートに落書きをしていた。
里見は夏期講習に来る必要がない程に秀才で、サッカー部の助っ人に行く程に天才だ。けれど、今ノートに書かれている落書きは幼稚園の頃から何も変わらない、下手くそな絵だった。
それはもう、一部の人から画伯と呼ばれ揶揄われているくらいに芸術的な才能が一切ない里見は、ついでに言うと音痴でもある。
文武両道でもそういうところがあるからこそ、里見は色んな人たちから好かれている。私はそんな里見を尊敬していた。
「──が! 有賀! 聞こえてるのか?!」
「はっ、はいっ?!」
びくっと肩が震えて心臓が止まりかける。それは里見も同じで、先生へ、そしてその次に私へと視線を向けた。
「ようやく気付いたか。有賀、この問題を解いてみろ」
「なんで私なんですか!」
「お前が一番わかってないからだ」
「うっ?!」
確かにそうかもしれない。途中で話を聞くのをやめて里見の落書きを見ていたくらいには理解できていない。けれど、その為の里見だ。
里見だって話を聞いていた訳じゃないけれど、里見は公式を見ればさっさと解ける。
ちらっと里見に意味ありげな視線を送ると、里見はにこっと笑って破いたノートにペンをさらさらと走らせた。
「まだか、有賀」
「もう少しです!」
さっと私の机に投げられた紙を穴が空く程に見つめると。
《夏期講習くらい自分で解きなよ》
それは、紛れもなく里見が書く文字だった。左を見ると里見は訳のわからない達成感に浸っている。
「有賀ー?」
「……わ、わかりません」
瞬間、教室に笑いが発生した。
後から聞くと、この問題は私以外の全員が解けていたらしい。そうと知る前に私は問答無用で里見を叩いていた。
夏期講習も終わって私たちは帰り道を歩く。
「まったく。酷いよ花夜、叩くことないじゃん」
「それはこっちの台詞! 教える為に隣に座ってくれたと思ったのにぃー!」
今でも笑われたことが恥ずかしくて、私は髪を掻き毟った。汗ばんだ髪が嫌になってすぐにやめるけど。
「そんな訳ないじゃん。俺はそんな目的の為に花夜の隣には座りませーん」
私は頬を膨らました。
「ほっぺた膨らましても俺の気持ちは変わりませーん」
「里見のバーカ!」
今日は散々だった。別に誰かのせいにする訳じゃないけど、とにかくついていない。
朝から里見のパジャマ姿を目撃したこと。里見が私のポテトチップスを食べたこと。暑がりなのに炎天下の中で時間を潰したこと(あ、でも大地に会えたからそうでもないかもしれない)。夏期講習で当てられたこと。里見に答えを教えてもらえなかったこと。
「って、ほとんど里見のせいじゃない!」
前言撤回。思わず隣を歩いていた里見の胸ぐらを掴む。
里見は当然驚いて、困惑の表情で私を見下ろした。
「ちょ、花夜? 急にどうしたの? この暑さで頭やられたの?」
「なんであんたには危機感がないの。胸ぐらを掴まれてるのよ?」
そんな里見を見ていると、物事がいつもバカバカしくなってくる。私は脱力した腕を静かに下ろした。
「──なんでって、花夜だから?」
「ッ!」
小さな頃は私が手を上げただけで泣くような奴だったのに。帰り道、伸びた影が私と里見が男と女であることを物語っていた。




