エピローグ 三年後の初夏
1
いつもの道、いつもの時間。
曲がり角を曲がると、早速いつもの男性が視界に入った。今日もまた、店長のくせに外に置いたパイプ椅子に座って読書をしている。なのに俺が横を通って『猫のあしあと』に入ると、必ず「らっしゃい」と呟く。……高坂透也は謎だ。
「あー、いらっしゃーい!」
そんな店長とは対照的に、ピョコッと本棚の奥から顔を出した時任さんは無邪気に笑った。彼女の笑顔を見ると、どんな辛いこと(主に就活)でもすぐに忘れられる。
「あ、どうも」
「また来てくれたんだ! 今日はどうしたの?」
「どうしたのって……普通に客として来たんすけど」
「……あっ! そっか……!」
こういう抜けているところも癒される。これは多分、時任さんの一種の才能だ。
「じゃあ、今日はどんな本を探してるの?」
「えっと……時任さんのオススメ……とかですね」
「っえ? 私のオススメ?!」
瞬間、時任さんはうろたえて脚立に乗ったまま店内を見渡した。
「あ」
俺の予想通り足を踏み外して、バランスを崩した時任さんを俺が支える。時任さんのいい匂いがしたって言ったら、変態だな、俺は。
「ぅえ!? ごめん! あ、ありがとう!」
時任さんは恥ずかしそうに俯いて、脚立の上に乗り直した。
「すみません、急に変なことを言って」
「ううん、そんなことない! 全然へーき!」
そう言ってエプロンについたしわを時任さんは直した。そして、「私のオススメでしょー?」と脚立から下りて改めて店内を見回した。
「これは? 前にとーやが読んでたよ!」
「とーや?」
「うちの店長! ほら、外で本読んでる人」
あぁ、あの高坂透也さんか。時任さんから”とーや”なんて呼ばれてるんだ。
「……あの人、いつも外で本読んでますよね」
「うん。だってとーや、好きだもん」
それは外で本を読むことが、でいいんだよな。
俺は視線を時任さんに戻して、時任さんが持つ本を手にとった。
「私のオススメはとーやが読んだやつ全部だよ。その本だけは絶対に覚えているから、なんでも聞いてね!」
「あ、ありがとうございます……。じゃあ、これください」
文庫本のそれを時任さんに渡して、レジの方へと向かう。その間も店長さんが動くことはなく、なんだか時任さんが一人で店を運営しているように思えてきた。
「ありがとうございましたー」
「また来ます、時任さん」
頭を下げて店を出る。すると店長さんが無言で俺を見上げた。
「……なんですか」
「お前、好きだな」
「っは?!」
唐突な店長さんの台詞に、らしくもなく心臓がドキッと跳ねた。変な汗が体中から流れて止まらない。
「……本」
本かよ!
「いや、まぁ、その、好きですけど……本も」
「も?」
「な、なんでもないです!」
店長さんは「そうか」と俺から興味を失ったように、視線を活字に落とした。クールな見た目のくせにマイペース過ぎるぞこの人。
俺はため息を吐いて店長さんの前を通り過ぎる。すぐに視界いっぱいに花が広がり、その花は嫌でも俺の目を引いていた。
商店街にある『猫のあしあと』と同様に、小さな店舗の花屋、『ミミズクの家』から一人の女性が出てきた。日本人離れした色素の薄い髪が風に揺れて、シャンプーの匂いが俺の鼻孔をくすぐる。鼻の辺りを押さえると、女性は俺に気づいて首を傾げた。
「えっと、何かお探しですか?」
「あ、いえ! すみません、違います!」
「え、すみません! あの、大丈夫ですので謝らないでください!」
ペコペコと女性が頭を下げる。体を起こした時に見えたが、エプロンに付いた名札には『高坂』と書かれてあった。
高坂と言えば、すぐ側のパイプ椅子から俺を射るような目付きで睨む店長さんと同じ名字だ。兄妹なんだろうけど、ちょっと仲良過ぎやしないか?
「客じゃないならさっさと帰れ」
グサッ。
その店長さん言葉は俺の胸に突き刺さった。おかしいな、この店長さんってこんなに怖かったっけ。
「……は、はい」
オロオロする花屋の高坂さんに軽く頭を下げて、俺は歩き出した。背中から、本屋の高坂さんの視線がまだ刺さる。
「とーやー!」
その声に反射的に振り向いてしまった。振り向いた先には時任さんがいて、店長さんに受話器をつきだしている。
「ほい。発注先からの電話」
「あぁ」
めんどくさそうに、と思いきや真剣な表情で受話器を受け取る店長さんは立派な店長さんだった。そんな店長さんを花屋の高坂さんも時任さんも見つめている。
(……なんだ、あれ)
ちょっとズルい。
というか羨ましい。
大学だと好きな人に会う確率は減るのに、職場だとあぁやって接することができるのも。社会人になるのはためらうけど、あんな風にちゃんと社会人をやれているのも。
高坂透也をライバル視するほど俺はすごくないけど、だからこそ彼女を取られそうで俺は焦った。
「あの、すみません」
焦る。
焦るからこそ。
三人がバラバラに視線を上げて俺を見た。
俺はその中から花屋の高坂さんに視線を合わせて、売り出されてある花を指差す。
「やっぱり花ください!」
自分でも笑ってしまうくらい必死だった。
けれど、それくらい時任さんは明るくて、美人で。
高坂店長さんはクールで、イケメンで。
勝ち目なんてないと思っても、もっと近づきたくて。
「は、はい!」
高坂さんは俺の迫力にビビっていた。けれどもすぐに店の中に俺を入れる。
「こほん。では、改めて。どんな花をお探しですか?」
どんな花って聞かれても困る。
俺はさっき買った本も人任せにしてしまうほど、何かをすぐに決められる性格ではないから。けど、どんなに困って迷ってもこれだけは自分で決めたかった。
あの人に似合う花はなんだろう。いっつも笑っているあの人に、いっつもまっすぐなあの人に、いっつも一生懸命なあの人に似合う花はなんだろう。
俺は口元を手で覆って、普段は使わない部分の頭脳を回転させる。目の前の高坂さんはニコニコと微笑みながら俺の言葉を待っていた。
「……あ、"ひまわり"とか」
「おい」
振り向くと、怖い顔をした高坂店長さんがいた。
この人がこんな表情をするなんて普通じゃない。というかなんで怒ってるんだこの人。
「透也さん?」
高坂店長さんは俺の横を通り過ぎて、高坂花屋さんの手首を掴んだ。仲良い兄妹が何をしているんだ、と思うと高坂店長さんが高坂花屋さんを指差す。
「陽鞠は俺の嫁だ」
するとすぐに、高坂花屋さんは顔中を赤面させて高坂店長さんの影に隠れた。
「あ、そうなんですか。兄妹だと思ってました……」
高坂店長さんは時任さんの彼氏じゃないのか。安心したら、今にも力が抜けそうだった。
「違う」
ムスッと高坂店長さんがふて腐れる。お嫁さんの前だと感情表現豊かだな。
「でも、それがどうかしたんですか?」
「だから、人妻に手を出すな」
言葉の意味を理解するのにしばらく時間を使って。
「え?! いやいや、出すわけないじゃないですか! 何をどうしたら俺が人妻に手を出すんですか!」
そこでようやく俺は自覚した。
この年にもなると、好きになった人が彼氏持ちじゃなくて夫持ちになる場合もあるのか、と。
「お前は陽鞠が好きじゃないのか?」
「違いますよていうか下の名前初めて聞きました!」
高坂店長さんは陽鞠さんの手首を掴んでいた手を離した。
「ならお前は、誰が好きなんだ」
「誰って、そんなの……」
「俺はお前が本目当てでこの辺りに来ていると思ったことは、一度もない」
おい。じゃあなんで陽鞠さんだと勘違いしたんだよ。多分、高坂店長さんはそれくらいお嫁さんが好きで、お嫁さんしか見ていないんだろう。
「と、時任さんですよ!」
そんな高坂店長さんに負けたような気分になった俺は、半ばやけくそ気味になって叫んだ。
「へ? 私?」
次の瞬間、真後ろから時任さんの呑気な声が聞こえてきた。
「…………」
前の方にいた高坂店長さんは、ジロッと時任さんを睨んで。陽鞠さんは未だに顔を真っ赤にさせたまま時任さんの様子を盗み見て。俺は振り返れないまま顔を手で覆い隠した。
「……今の」
「ん?」
「今の、聞いていましたか?」
一瞬の間があって
「……うん」
時任さんは答えた。珍しく間を開けて話す時任さんは、多分動揺していて。
「希々。お前はなんでいちいちタイミングが悪いんだ」
「そ、そんなこと言われても知らないよ!」
高坂店長さんが結婚しているのは知らなかったけど、時任さんが高坂店長さんのことを好きなような予感は前からしていた。
恋は学生の特権、みたいなことを思っていた俺にとって、大学生の今になって出逢えた時任さんは女神そのものだったのに。
(……なんで上手くいかないんだよ)
学生だからって、大人になったからって、恋愛は上手くいかない。今日はそれを痛いほど思い知らされた。
「……俺、やっぱり今日はもう帰ります」
なるべく時任さんを見ないように出口に向かう。
「あ、あの! またのご来店をお待ちしております!」
そうやって必死に言葉をくれたのは、陽鞠さんだった。俺はまたここに来ていいんだと言われたかのようだった。
2
大学受験に失敗して、とーやに誘われてからはじめたバイトは思いの外楽しかった。一つ年上の恩人、店長を兄のように慕って、その店長から言われて次の年に再受験をしたけれど結果は同じだった。
『やー。やっぱ私には無理だった! だからとーや、私をまた雇ってよ! あ、今度は正社員ね!』
『断る。帰れ』
元ヤンだったからか、とーやはやけに私を大学に行かせたがっていた。とーやは店長だから受験できないけど、私なら、って。
けど私は受験よりも就職を選んだ。
とーやの側でゴロゴロしながら働きたかった。
でも、いつからか陽鞠が隣の店でバイトとして雇われた時、当時大学生だった陽鞠を少しだけ羨ましく思ったのも事実だった。その次の年に大学受験をして受かった、常連の里見と花夜も羨ましく思っていた。
だから、私が就職してとーやと陽鞠が結婚してしばらくした頃に現れた"彼"にも、私はあの三人とまったく同じことを思った。同時に一発合格した"彼"にも憧れた。
私にとって名前も知らない"彼"は、そんな存在だった。
「……なんで私って、いっつもタイミングが悪いんだろ」
なんで私の人生って、上手くいかないんだろ。
とーやみたいに運良く店長になれたり、
陽鞠たちみたいに一発で大学に合格したり、
二人みたいに想いを通じあわせて、陽鞠が大学を卒業したらすぐに結婚なんて、私には夢のまた夢だった。
「透也さん、今のは……」
「わかってる。俺が悪かった」
あ。とーやがはじめて自分の非を認めた。……ううん、とーやが悪かったことなんて今まで一度もなかった。
「き、希々さん? あの、大丈夫ですか?」
「……ムリ」
「え?」
「……ムリだよ。苦しいよ」
私は呟いて、走り出した。
名前も知らない彼に追いつくために、走り出した。
勤務中とかそんなの知らない。今、会って言いたいことがあるから走り出した。
3
「待ってっ!」
好きな人の声が聞こえて、俺は立ち止まりかけた。
かけたのは、さっきみっともない姿を見せたからで、合わせる顔がないからだった。
「ねぇ、待ってよ!」
「うぉ?!」
急に腰の辺りに重みがきたと思ったら、それは時任さんが俺の服の裾を引っ張った重みだった。
「なんで逃げるのっ?」
声だけでも純粋なそれに、余計にどんな顔をしていいかわからない。
「私、まだ何も言ってないじゃんっ!」
なのにその言葉ばズルかった。
「私、君のことずっとすごいなって思ってたよ! いーなーって! 羨ましいなーって!」
「……え?」
「私、大学に二回落ちたから知ってる! 君や陽鞠が私の想像もつかないほどいっぱい勉強したんだなぁってことはわかるよ!」
首だけを振り向かせると、時任さんの必死な表情が間近で見れた。
「けど、それ意外は何も知らない!」
時任さんの突飛な行動に驚きすぎて、何も言えないでいると
「だから、君が私のこと『好き』って言った時、君のこともっと知りたいなって思った!」
時任さんは泣きたくなるような言葉をくれた。
「私、このままお別れは嫌だよ」
「時任さん……」
「希々でいいよ」
「……き、希々……さん?」
向かい合った希々さんはニコッと笑う。
「君の名前は?」
そこで俺は、希々さんに名乗ってもいないことに気づいた。
「綺堂有徒です。希々さん、俺と友達からはじめてくれませんか?」
「うん! いーよ、有徒くん!」
希々さんが差し伸べた手を握りしめる。温かくて柔らかいそれは、社会人とは思えない子供のものだった。
「希々さん」
「ん?」
「俺と友達になってくれて、ありがとうございます」
希々さんは右手の親指と人差し指で丸を作って笑った。
この人は純粋にすごい。俺にないものをたくさん持っている。俺には行動力も、空気を一瞬で作り替えることもできない。そんなところが、希々さんの全部が、俺は。
「好きです」
「ありがとー、有徒くん」
好きになった人が、希々さんで良かった。
いつか俺も、好きになった人が俺で良かったと希々さんに言わせたい。
この年になると、学生の頃とはまた違った感情が芽生えはじめる。ただ好きだったあの頃とは違って、今は。
この人となら、一生側で生きていけるという愛がある。