第一話 穏やかな太陽
1
君との距離が近すぎて、気づけなかった。
何度後悔しても、それはあまりにも遅すぎて。私はただ、ベッドに横たわる君を一歩後ろで見守ることしかできなかった。
――バカ。
唇だけを動かして無音の言葉を落とす。
お願いだから届いて、気づいてほしい。……私のこの、小さな気持ちに。
明日から夏休みがはじまる。暑くて暑くてたまらない、長い長い夏休み。学校はないけれど、私には変わらない……日課、みたいなものがある。
世話のかかる幼馴染みの姿を探して、私は階段を上がり教室に入った。すぐさま窓際の席に座っている幼馴染みの姿を見つけて、静かに安堵する。
「里見ー」
じぃっと本を読んでいる幼馴染みの一条里見に、私は話しかけた。余程読書に集中しているのか、里見は私に気づいていないようだった。
「聞いてるのー?」
ぐいっと耳たぶを引っ張ろうとすると、里見の黒髪の隙間から映えるような白いイヤホンが見えた。里見が愛用しているそれからは、かすかに音楽が聞こえる。
「さぁーとぉーみぃー」
思いきりイヤホンを引っ張ると、「うわっ!」と里見は小さく驚きの声を漏らした。
「ひどいよ花夜ぁ~」
里見は不満げになって私の手に握られていたイヤホンを引っ張り返した。私は腰に両手を当ててそんな里見を見下ろす。
「ひどくないし! っていうか、もう学校終わったんだからさっさと帰ろうよ」
「花夜は大地と帰ればいいじゃん。俺ははつのと帰るからさ」
急に自分たちの恋人の名前を出されて、不意をつかれた私は言葉を喉に詰まらせた。
里見はまたイヤホンを耳につけて本に視線を落とす。「できるなら私もそうしたいわよ」と、今度は本を引っ張った。
「あぁー!」
「大地もはつのも家が私たちとは正反対なんだから、しょーがないじゃん。それに比べて、里見は家近いし」
「え、はつのもう帰ったの?」
「知らないわよ」
話を折られたことへの苛立ちを押さえつつ、きょとんとしている里見に言い放った。
「それに里見、放っておくといつまでたっても帰らないじゃん」
「えー、そんなこと……」
「あるでしょ」
「……あるね」
得意気になっている里見を見ると、里見はヘラッと苦笑いに近い笑い方をする。そして「わかったよ」と立ち上がり、私に本を返すように手を差しのべた。
「……はい」
「ありがと」
里見が鞄に本を詰めるのを見届けて、私は歩く。里見は左耳につけていたイヤホンを外し、「聞く?」と私に差し出した。
「……聞く」
里見から奪い取るようにイヤホンを受け取って、左耳につける。イヤホンで繋がれた私たちはお互いに歩調を合わせて歩きだした。
里見と肩を並べて歩いていると、廊下の奥にある図書室から里見の彼女のはつのが出てきた。はつのは私たちを見つけてニコッと笑い、駆け寄ってくる。
「はつの~」
里見もはつのの元へと駆け寄り、同時に私の左耳についていたイヤホンがスポンッと抜けた。地味な痛みに左耳を押さえていると、里見とはつのが夏休み中のデートの約束をしているのが聞こえた。
(……私も大地とデートの約束すれば良かったかなぁ)
大地の携帯番号はもちろん知っている。けれど文章でのデートの誘いなんて、私にはできそうにない。そんな事を考えて「はぁ」とため息をつくと、「またね、はつの」と里見が手を振った。
「うん。花夜も夏休み遊ぼうね」
はつのは長くてキレイな黒髪を耳にかけて私たちに手を振る。くせっ毛で焦げ茶色の私の髪とは大違いだ。
「っあ、もちろん! 遊ぼ遊ぼ!」
少し落ち込んでいた私は、とっさに笑って手を振り返した。
はつのが去って見えなくなると、私は笑顔を消して里見に向き合った。二人きりになったからには手加減なんてしない。
不思議そうに私を見下ろす里見の、右耳からぶら下がっているイヤホンを私は思いきり引っ張った。
「いった! なんで?!」
「なんでじゃない! ちょっとはこっちのことも考えてよね! 地味に痛かったんだから!」
「あ、そっか。ごめんごめん」
手を合わせた里見は、私に必死になって謝る。眉を八の字に下げる里見を見て、いつものことだけれど私は怒っていることがバカバカしくなった。
「今度から気をつけてよね」
「そうする」
この会話もいつものことで、何度も何度も二人でした。「そうする」と言って考えるよりも先に行動するのが、私の幼馴染みの一条里見だ。だから私は、里見のこの部分だけは一生信用するつもりはない。
「あんたさぁ、ちゃんと考えて行動してよね。自分の身に何か起こったらどうするのよ」
「えー……、花夜には言われたくないなぁ。花夜の方が危なっかしいし」
「私はちゃんと考えて行動してるわよ」
里見の頭を叩くと「いてっ」と里見は声を上げて頭をさすった。
「じゃあもし考えて行動した花夜に何かあったら……」
「何かあったら?」
「――俺が守るから」
私よりも頭一個分背の高い里見はニコッと笑って私に告げた。私は数秒かけて里見の台詞を理解し口を開いた。
「…………はぁ?」
私の反応が予想外だったのか、里見は目を丸くする。
「なんで私が里見に守られなきゃいけないの? っていうか、そういう台詞ははつのに言ってあげなさいよ」
「はつのに?」
戸惑いの中に不思議そうな表情をみせた里見に、「あんたの彼女でしょうが」と喝を入れる。なんだかこんなのを彼氏に持つはつのが憐れに思えてきた。
「じゃあ花夜は誰が守るのさ」
何故か不満げな里見に私はため息をついて
「私には大地がいるから」
と言ってやる。
「……あ、そっか」
里見は目を見開いたまま呟き、そしてヘラッと笑った。
「花夜には大地がいるもんね」
「わかればいいのよ」
私はニヤッと笑って腕を組んだ。
夏の気温は高く、太陽が眩しいくらいに輝いている。向日葵はそんな太陽に照らされて力強く咲いていた。どこからか蝉の鳴き声が聞こえてきて、私はイヤホンを左耳につける。
「なんかおすすめの曲流してよ」
「りょーかい」
里見も右耳にイヤホンをつけて、ズボンのポケットから取り出した音楽プレーヤーをいじった。
明日から夏休みが始まる。
今年の夏はどんな夏休みになるのだろうと期待して、里見の好きな音楽に耳を傾けた。
2
辺りが異様に白かった。
上も下もわからない空間の中、不意に私はなつかしい気配を感じて振り向いた。
『花夜っ!』
『里見?』
やっぱり里見だった。里見のヘラヘラした微笑みが、私に安心感を与えてくれる。
『良かった。ねぇ、ここはどこなの?』
里見は微笑みを張りつけたまま、無言で首を横に振る。そして一気に私に近づいた。
『な、何よ里見。急にどうしたの?』
吐息がかかるほど近い。近すぎる。
慌てる私を見て里見はクスクスと笑う。里見がそんな笑い方をするわけないとわかっているのに、目を逸らせられなかった。
『――だから、俺が花夜を守るよ』
急に真顔になって里見は囁いた。何故この台詞を言う時だけ、里見は真面目な表情をするんだろう。
『だ、だから! 何言って……』
ピピピピ!
タイムリミットのように、電子音が耳元で鳴り響いた。
「んッ!?」
あまりのうるささに一気に目が覚めて、私は目覚まし時計を止める。長い息を吐いて、今のが夢であることに私は気がついた。
「……ゆ、夢?! うそ、なんであんな夢を……!」
今が現実だと自分に言い聞かせるために、頬を思いきりつねる。理由なんてわかっていた。
(絶対昨日の里見のせいだ!)
夏休みなのに目覚まし時計をかけておいて良かったと思いながら、数件先の方に建っている一条家を睨んだ。
『花夜ー! 起きたらさっさと下りて来なさーい』
「はぁい!」
この苛立ちをお母さんへの返事に乗せる。けれど、この苛立ちは次の瞬間まっすぐにお母さんに向けられる事になった。
「これ、里見君の家におすそ分けしてきて」
「は?」
梨がたくさん入ったかごを押しつけられ、お母さんはキッチンに戻った。起きたてでしかもパジャマ姿の娘に何を言っているんだこのババ……お母さんは。
「ちょ、なんでよ!」
今度こそ本当の苛立ちをお母さんにぶつける。「いつも里見君にはお世話になっているじゃない」とお母さんは本気で言った。
「世話してるのはこっちだし!」
ダンッと床を蹴ると、足が痛いだけでそれ以外は何も変わらなかった。
「バカやってないで、着替えてさっさと行きなさい」
私は早々に反抗するのを止め、かごをテーブルの上に置く。着替えるために部屋に戻る途中、どんな服を着ていこうかと一瞬悩んだ。
一条家のインターホンを軽く指で押す。しばらくして聞こえてきたのは、女性の声だった。
『はーい?』
「あ、有賀です! 花夜です!」
『あぁ、花夜ちゃん!? 久しぶりねぇ、随分大人っぽくなって……』
里見のお母さんは里見と似たような笑い声で言った。
『ちょっと待っててね、すぐ出るわ』
「はい!」
応対したのがおばさんで良かったと安心しながら、私はおばさんが出てくるのを待った。けれど聞こえてくるのはドタドタとした慌ただしい音で、私は眉をひそめる。
ガチャッと開かれた扉の向こうにいたのは、瞳を異常に輝かせた里見だった。寝癖がついている髪から下に視線を動かすと、里見が着ているのはパジャマだった。
「……って、何してんのよバカァ!」
勢いでかごを投げつけると、不意をつかれたにも関わらず里見はそれを見事にキャッチした。顔面ギリギリでキャッチしたかごを里見はポカンと見つめて、腕を下ろす。
「え、何? どうしたの花夜?」
夢の一件であまり会いたくなかったのに、今の里見は夢の里見とはまったく違ういつもの里見だった。
「『何?』じゃないわよ! なんでパジャマなのあんた! バカ?!」
困惑する里見は私を見下ろして、次の瞬間スパァンッとスリッパで頭を叩かれた。里見を叩いたのは、後ろから慌てた様子で駆け寄ってきたおばさんだった。
「里見! なんて格好をしているの!」
「だって花夜が来たからいったぁ!」
苦痛に顔を歪めながら抗議した里見の頭を、おばさんはもう一度叩く。そして片手で頭を押さえる里見に言い放った。
「『だって』じゃない! 恥を知りなさい!」
「……はい」
急に縮こまった里見を見て、私は私も里見もお母さんには敵わないんだなぁと客観的に思った。
「ごめんなさいね、花夜ちゃん」
里見に比べて素晴らしい常識を持ったおばさんは、里見の後頭部をぐりぐりと押す。里見は母親似らしいけれど、似ているのは外見だけだった。
「いえ、ちょっとびっくりしただけですから」
「それよりも花夜、これ何?」
苦笑いした私に、里見は持っていたかごを見つめて尋ねた。おばさんはそれを里見から受け取って、私に視線を向ける。
「梨です。うちのお母さんがおすそ分けして来いって」
「っえ、梨?!」
実母からかごを奪い、里見はかけてあった布をめくった。そこには拳ほどの大きさをした梨が五個詰まっている。
「どうしたのよ、急に」
「俺の好物梨なんだよね。ありがと花夜」
ぱちくりと驚いた私に、里見は頬を緩ませて答えた。ずっと側にいたのに里見の好物を知らなかった私は、勝手にショックを受ける。
そんな私を見て、今度は逆に里見がぱちくりと不思議そうに首を傾げた。
「あ、そうだ花夜。朝ごはんまだだったらうちで食べてかない?」
「いいわねそれ。梨のお礼だから、遠慮なく食べていってよ」
おばさんは奥にあるリビングへと戻っていった。里見は瞳を輝かせながら私の手を軽く引っ張る。
「ダメ?」
ちゃんと人の"意見"を聞いてくれる里見はあまり強引な方ではない。ならもっと人の"話"を聞いてほしいものだ、と私は心の中でため息を吐いた。
「じゃあ、お邪魔します」
「やった!」
弾けるように笑う里見に、私は「ただし」と付け足して人差し指を突きつける。
「その代わりちゃんと服を着替えてよね」
「ん。りょーかい」
里見は階段を駆け上がって自分の部屋へと戻った。
私は靴を脱いでリビングに上がらせてもらう。そこにいたおばさんは電話で誰かと話していた。話し方から察するに、きっと私のお母さんだろう。
久しぶりの一条家に少しだけ緊張しながら、私はそっとソファに腰かけた。わずかに里見の匂いがして、何故か焦った私は鼻と口を塞ぐ。
「花夜ー」
そうしている間にも里見は猛スピードでリビングまで来て、制服姿を私に見せた。
「里見ッ!? なんで制服着て……」
「え、だって今日から夏期講習じゃない」
「そうだけど気が早いっていうか!」
時計に視線を向けると、まだ七時半だった。夏期講習は十時から始まるが、ここから学校まで電車で三十分はかかる。だから結局はまだ気が早いってことで。
「……はぁ、もう」
きちんと結べていない里見のネクタイを結び直して、私は頭を抱えた。
「里見、ネクタイくらい自分で結べるようになりなさい! いつまでも花夜ちゃんに頼らないの!」
「はぁーい」
いつの間にかお母さんとの電話を切ったおばさんは、里見の耳たぶを引っ張った。なんだかその様子がいつもの私たちみたいで、私は笑みを溢した。
「っあ、花夜! ひどい! 今笑ったでしょ!」
「ほらもう。花夜ちゃんに笑われちゃって。花夜ちゃんは里見みたいなダメ男じゃなくて、ちゃんとした人をお婿さんにした方がいいわよ」
「そうですね、面倒をみるのは子供で充分です」
「ほんとよねぇ~!」
おばさんは笑いながらキッチンへと足を運んだ。
不意に里見が黙ったことに気づいて振り向くと、里見は頬を膨らまして拗ねるどころか逆に俯いてしまっていた。
「ちょっと、里見? 怒ってるの?」
「……別に」
「うそ。怒ってる」
「ほら、二人とも。朝食できたから、冷めないうちに食べなさーい」
おばさんが朝食をテーブルの上に置く。いきなりだったにも関わらず、ちゃんと私の分もあった。
「……はーい」
「どうぞ、花夜ちゃん」
「ありがとうございます」
チラッと里見を見ると、里見はやっぱり不機嫌なまま私の手を引っ張って席に座らせた。自分も私の隣に座って食パンにかぶりつく。
私も里見にならって口に入れると、サクサクとした食感が食パンの美味しさを引き出していた。
「美味しいです」
「そりゃそうだよ。母さんの得意料理は食パンだけなんだから」
ムスッとした表情のまま里見が言う。その台詞の中にも棘が含まれていて、里見がどれほど不機嫌なのかを物語っていた。
「里見、お母さん怒るわよ?」
「俺は怒ってるよ」
「……あら? 珍しいわね、里見がこんなに怒るなんて」
「……ですね」
私とおばさんは、顔を見合わせて互いに首を傾げた。
玄関で脱いでいた靴を履いて、私はおばさんに頭を下げる。
「お邪魔しました!」
「いえいえ。また来てね~」
「はい!」
「そうだよ花夜。また来てもらわないと困るからね」
少しだけ機嫌を取り戻した里見は私を指差して、おばさんに視線を向ける。睨んでるほどではないがその目には少しだけ怒りが宿っていた。
「ほら、早く花夜の家に行こう!」
里見は私の背中を押して、私を家から出す。そのまま手を引っ張ってすぐ近くの私の家へと駆け込んだ。
「お邪魔しま~す!」
「ちょっと、バカ里見ぃ!」
「あら、里見君? 久しぶりねぇ」
「はい、おばさん!」
ニコッと笑う里見を私はリビングに入れて、いつものように指を立てた。
「いい? 里見。絶対にリビングにいるのよ?」
「心配しなくても大丈夫だよ、花夜」
釘を刺す私に、里見はいつものようにヘラッと笑いながら返事をする。里見を少しの間でもリビングにいさせるのが不安だった私は、ダッシュで部屋に戻って制服に着替えた。
息を切らせながらリビングに行くと、里見はソファでポテトチップスを食べながらくつろいでいた。
「何してんのバカ里見!」
「っえ?! ちゃんとリビングにいたのに……」
「誰も『くつろげ』なんて言ってない!」
里見からポテトチップスを取り上げる。よくよく見なくてもこれが私の買ったポテトチップスだというのはわかっていた。
「ごめん花夜。怒った?」
ソファに座っていたせいで、里見は上目使いで私に尋ねる。たまにこういうことを里見はするけれど、その度にこれはわざとなんじゃないかと私は思っていた。
「う」
こうなると自分の怒りの沸点がわからなくなって、結局何も言えなくなるのがオチだった。里見はそれを許してくれたと勘違いして笑うのだから、複雑だ。
「とにかく朝からポテトチップスは禁止だからね。あと、学校に行く前に代わりのポテトチップスを買うこと」
「りょーかい」
里見はニコッと笑って敬礼する。
「じゃ、もう行こっか」
「そだね」
一緒に鞄を持って玄関へと行くと、お母さんが「もう行くの?」と驚いた様子で出てきた。
「うん」
「あらあら、本当に仲がいいわね。里見君、これからも花夜のことをよろしくね」
「はい!」
「はい?」
なんだか私たち付き合ってます的なことを言われた気がして、変な声が出た。きょとんとするお母さんと里見を見て、どうでも良くなったけれど。
「行こう里見」
里見を急かして私たちは家を出た。
真夏の太陽が、駅まで歩く私たちを照らしていた。