プロローグ:時計の針が深く沈む場所に
私たちは誰もが、「時間は無限にある」と錯覚して生きています。
「ごめんね」と言いそびれたあの日の夕暮れも、「ありがとう」と伝えられなかったあの笑顔も、いつでも取り戻せるのだと、心のどこかで信じている。
しかし、運命という名の針は、ある日突然、無慈悲にその足を止めます。
もしも、大切な人の未来と引き換えに、自分のすべての時間を差し出さなければならないとしたら。
あなたなら、その手を差し伸べますか?
これは、あまりにも不器用で、あまりにも愛おしい、ある二人の「命の時間」の物語です。
今日という日の尊さを、少しでも感じていただければ幸いです。
カララン、と静まり返った店内にドアベルの音が響く。
十一月の終わり。東京の片隅にある路地裏は、午後五時を過ぎると急速に夜の闇へと沈んでいく。冷たい木枯らしが吹き抜ける外の世界とは遮断されたこの『カフェ・時溜まり』には、いつも古びた柱時計の秒針の音と、深く焙煎した珈琲の香りだけが満ちていた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中でサイフォンを揺らしながら、私は静かに声をかける。
入ってきたのは、まだ二十代前半とおぼしき若い青年だった。肩は小刻みに震え、コートの袖には冷たい雨の滴がいくつも張り付いている。しかし、何よりも私の目を引いたのは、彼の瞳だった。
それは、この世のすべての光を失ったかのような、深い絶望の色。
青年――エドは、吸い寄せられるようにカウンターの端の席へと腰を下ろした。差し出された温かいおしぼりにも気づかないほど、彼の魂はどこか遠くの、取り返しのつかない場所に囚われているようだった。
「ここは……どんな願いでも叶うって、本当ですか」
絞り出すような彼の声が、温かい珈琲の湯気に溶けていく。
「まさか」
私は穏やかに微笑み、温かい一杯を彼の前に差し出した。
「ここはただの喫茶店ですよ。ただ、少しだけ……人生の『残り時間』を上手に使いたいお客様の、お手伝いをしているだけです」
青年は目を見開いた。その瞳の奥で、小さな、しかし狂おしいほどの希望の炎が爆ぜるのを私は見逃さなかった。
「誰かの命を救いたい。あるいは、失われた時間を取り戻したい。ここへ来る方は皆、心に消えない傷を負っています。ですが、忘れないでください。等価交換こそが、この店の唯一のルールです」
私は彼を見つめ、言葉を紡ぐ。
「あなたの残りの寿命と引き換えに、愛する人の【苦痛のない輝かしい1日】を買い戻すことができる。……ただし、代償はあなたの存在そのものです。明日が来れば、彼女は救われ、あなたは消える」
柱時計の音が、やけに大きく響いた。青年は溢れそうになる涙を堪えるように強く拳を握りしめ、そして、深く深く頷いた。
「お願いします。僕の命なんて、どうなったっていい。……アヤノを、助けてください」
こうして、また一つ、あまりにも切なくて温かい、最後の24時間が始まろうとしていた。
初めまして、あるいは、お久しぶりです!作者です。
プロローグをお読みいただき、本当にありがとうございました。
久しぶりの執筆で少し緊張していますが、どうしてもこの「切なくて温かい物語」を皆さまにお届けしたくて、再びペンを執りました。
絶望の淵でエドが下した決断、そして彼が愛するアヤノのために紡ぐ最後の24時間が、これから始まります。
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次回、第1話ではエドの視点から、二人の「あの日の後悔」についてお話しします。
また次の物語でお会いしましょう。




