表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/8

第7話

 指先の皮は、もう塞がっていた。


 低い天井に向けて手を上げる。


 襖の隙間から漏れる常夜灯の光に、掌をかざす。


 前に切った場所は薄い線になり、その横に別の擦り傷があった。


 いつのものかは、分からない。


 外ではもう金属の擦れる音がしていて、遠くで低い声も混じっていた。


 枕元の合板の向こうで足音がして、押入れの襖が閉まった。


 誰が決めたか分からない。


 それでも、みんな同じ方へ動き出す。


 翔馬はしばらく、板越しの足音を聞いていた。


 隣の布団がめくれる。


 上げていた手を布団につき、上半身を起こした。


 背中の肩甲骨の間に、鈍い痛みが残っていた。


 布団をめくり、立ち上がる。


 足裏に、畳の冷たさがつく。


 翔馬は布団を畳み、玄関横のロッカーから作業着を取った。


 袖を通すと、肘のところに白く乾いた汚れが残っていた。


 指先で払っても、落ちなかった。


 手袋を取る。


 指先の裂け目は、前より広がっていた。


 翔馬はそこへ指を入れ、少しだけ押した。


 塞がった皮の線が、手袋の隙間から見える。


 その横にも、細い跡が増えていた。


 玄関先で、黒川が顔を出す。


「行くで」


 部屋の中の足音が、ひとつずつ外へ向かう。


 翔馬は着替えと手拭いを入れた布袋を取り、肩へ掛けた。


 指先が、袋の紐を探した。


 外へ出ると、路地にはもう人がいた。


 長屋は左右に続き、狭い路地の向こうにも同じような戸口が並んでいた。


 湿った洗剤の匂いが、横から流れてくる。


 建物と建物のあいだに渡された紐には、色の抜けた作業着が干されていた。


 その向こうの窓が開く。


 男が腕を伸ばし、乾ききっていない手拭いを取り込んだ。


 足元では、砂利とどぶ板が一定の間隔で鳴っている。


 誰も急いでいない。


 それでも、足の向きは同じだった。


 翔馬は黒川たちの後ろにつく。


 肩の布袋が、歩くたびに腰へ当たった。


 路地を抜けるころ、配膳口の金属音が聞こえ、テントの入口からは白い湯気が薄く漏れていた。


 食堂の列は、もうできていた。


 翔馬は前の背中に続き、トレーを取る。


 配膳口の向こうから出てきた器を受け取り、空いている席へ腰を下ろした。


 黒川たちは同じ卓に座っていた。


 低い声と、箸と器の音だけが長机の上で重なっている。


 翔馬も箸を動かした。


 味は、少し遅れてくる。


 向かいで甲斐が飯をかき込んでいた。


「今日は流すぞ」


 それだけ言って、また箸を動かす。


 黒川は湯呑みを置き、長机の端から全員を見た。


「食べ終わったか、出るで」


 誰も聞き返さない。


 椅子が引かれ、トレーが返却口へ重なっていく。


 翔馬も残った飯を口へ押し込み、立ち上がった。


 テントを出ると、背中に残っていた湯気の熱がすぐに薄れた。


 コンテナ街へ向かう道には、作業着の背中が続いている。


 ゲート前で、端末の音が鳴った。


 一人。


 また一人。


 短い電子音が、同じ間隔で続く。


 翔馬が手首を出すと、端末が鳴った。


 貸し倉庫の前で装備を受け取ると、金属の冷たさが指に移った。


 胸元の留め具に、指が先に当たった。


 甲斐はそれを見て、何も言わない。


 黒川の合図で、全員が奥へ歩き出す。


 ゲートの向こうから、低い金属音が返ってきた。


 広い場所へ出ると、黒川が立ち止まった。


「この辺なら、大丈夫そうやな」


 黒川が岩壁の隅に荷物を下ろすと、それぞれが道具を取り出した。


 三枝は奥の壁へ向かい、樋渡は何も言わず反対側へ歩いていく。


 甲斐はもう、岩壁の方を見ていた。


「俺らはこっち側いくぞ」


 翔馬は頷く前に、右手で棍棒の柄を握った。


 柄の先についた輪が手首にかかる。


 左手は、肩に掛けた袋の口を掴んだ。


 甲斐が小走りで先に進む。


 翔馬もその後ろについた。


 最初の一体は、岩壁の窪みに張りついていた。


 甲斐が踏み込み、鈍器を落とす。


 潰れた頭の横で、長い脚だけが動いている。


 翔馬はその脚を避けてしゃがみ、腕の根元を探した。


 捻ると節が抜け、砂を払って袋へ入れた。


 次。


 甲斐は止まらない。


 鈍器が落ちるたび、翔馬はしゃがみ、腕を外して砂を払い、袋へ詰めた。


 袋の口を押さえる手だけが、先に動く。


 声は少なかった。


 甲斐が顎を動かす前に、翔馬の手は袋を開いていた。


 指は、腕の根元の節へかかった。


 奥で、別の脚が跳ねた。


 甲斐の鈍器が横から入り、殻が割れた。


 だが、止まらない。


 潰れたまま、長い脚が翔馬の方へ流れてくる。


 甲斐の目は、もう先へ向いていた。


「サクッとやれ」


 翔馬は袋を落とし、鈍器の柄を握っていた。


 振った先で、殻がへこんだ。


 まだ動く。


「腕は傷つけんなよ」


 甲斐の声が飛ぶ。


 翔馬は踏み直し、もう一度振った。


 長い脚が、岩の上で止まった。


 息が遅れて戻る。


 翔馬の目は、もう腕の根元に落ちていた。


 しゃがむと、指はそこにかかり、捻った腕が袋へ落ちた。


 立ち上がろうとしたとき、足元で石ころがずれ、踏み直した足首が内側へ入った。


 翔馬は片膝をついた。


 痛みは、少し遅れてきた。


 近くで鈍器の音が鳴る。


 誰も止まらない。


 甲斐も振り返らない。


 翔馬は足先で石ころを壁際へ寄せた。


 細かい砂が、靴底につく。


 つま先を地面につけ、足首を軽く回す。


 熱が残る。


 動ける。


 袋の紐を肩へ掛け直す。


 次の死骸が、甲斐の足元に転がっていた。


 翔馬はその横にしゃがみ、腕を外して砂を払い、袋へ詰めた。


 足首の奥で、鈍さだけが残っていた。


 袋の口は、また開いていた。


 引き返す合図が出た。


 袋の重さが肩に沈んでから、黒川の声だと分かった。


 足首の熱は、歩くたびに遅れて戻ってきた。


 ゲートを抜け、精算を済ませ、貸し倉庫の前で装備を返した。


 留め具を外す手が、少し遅れる。


 翔馬は外した防具を、棚へ戻した。


 食堂で飯を受け取り、空いた席へ座る。


 箸を動かしているうちに、器の底が見えた。


 シャワー室では、最初の冷水を足首に当てた。


 息が止まる。


 冷たさの下で、熱が鈍る。


 しばらくして湯に変わると、熱はまた奥へ戻ってきた。


 翔馬は長屋へ入らず、外の室外機に腰を下ろした。


 鉄板の振動が、太ももの裏に伝わる。


 足首の奥でも、同じような揺れが残っていた。


 路地を人が通っていく。向こうで缶が転がり、乾いた音がした。


 どこかで、笑い声がした。


 翔馬は見上げた。


 空はなかった。


 長屋の屋根と、物干しの紐と、乾ききらない作業着だけが上にあった。


 近くで、どぶ板が跳ねる音がした。


 翔馬は顔を下ろす。


 首に手拭いをかけた甲斐が、長屋の入口に立っていた。


「明日は数こなすぞ」


 甲斐はそれだけ言って、ガラス戸の向こうへ入った。


 戸が閉まる音が残る。


 翔馬は足首を動かした。


 室外機の唸りが、足の下で続いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ