第9話 見えすぎる未来は、時に足を止める
帰り道、リリアに呼び止められたエルネアは、互いの“嫌だ”という感情について向き合う。予定を優先し感情を無視できると答えながらも、その言葉に確信は持てない。別れた後、黒薔薇のひびは分岐するように変化しており、彼女の選択が揺らぎ始めていることを静かに示していた。
カイエル・グランフォードは、基本的に外さない。
観測して、予測して、順序を組み立てる。人がどう動くか、その結果どうなるかを、ほとんど誤差なく辿ることができる。だから彼にとって世界は、ある程度までは“読めるもの”だった。
読めるから、対処できる。
対処できるから、間違えない。
――そのはずだった。
朝の教室で、彼はいつも通り座っていた。姿勢は崩れず、視線は一定、ノートは整っている。周囲から見れば、完璧な優等生のそれだ。
だが、彼の視線は一つの場所に固定されていた。
エルネア・ヴェルローズ。
そして、その隣にいるリリア・フローレンス。
昨日の帰り道の会話を、カイエルは直接見てはいない。だが、その前後の変化は十分すぎるほど観測していた。
順序が違う。
反応が違う。
選択が違う。
エルネアは、合理性を優先する人間だ。状況を把握し、最適解を選び、余計な行動はしない。そういう“完成された思考”を持っているはずだった。
だが今は違う。
彼女は“迷っている”。
しかも、その迷いを隠しきれていない。
「……」
カイエルはペンを止めた。
この違和感をどう扱うか、考える。
排除するか、受け入れるか。
だがその前に、確認が必要だった。
何が変わったのか。
どこから崩れたのか。
そして――
それは、危険な変化なのか。
授業が終わると同時に、カイエルは立ち上がった。
「エルネア嬢」
声をかける。
エルネアはすぐにこちらを見る。その反応速度も、以前と変わらない。だが、その視線の奥にあるものが、少しだけ違う。
「何かしら」
「少し、お時間をいただけますか」
「また雑談?」
「ええ」
「本当に信用できないわね」
軽く言いながらも、彼女は立ち上がる。
断らない。
それもまた、以前とは違う点だった。
廊下に出る。
人の少ない場所へ移動し、カイエルは足を止めた。
「単刀直入に聞きます」
彼は言う。
「あなた、最近“予測どおりに動いていない”」
エルネアの表情は変わらない。
だが、ほんのわずかに間があった。
「それがどうしたの」
「どうした、ではありません」
カイエルは淡々と続ける。
「あなたの行動は、これまで一貫していました。合理的で、無駄がなく、結果に最短で到達する」
そこで一度、言葉を切る。
「ですが、ここ数日でそれが崩れている」
静かな指摘だった。
だが、逃げ場はない。
「具体的には?」
エルネアが聞く。
「昨日の放課後」
カイエルは即答する。
「あなたは、リリア嬢が囲まれているのを見て、思考より先に動いた」
「場の安定のためよ」
「それならば、より目立たない方法を選べたはずです」
「……」
「ですがあなたは、最も目立つ方法を選んだ」
事実だった。
エルネアは一瞬だけ目を伏せる。
「そしてお茶会でも」
カイエルは続ける。
「あなたは彼女の手を取った」
そこまで言われて、エルネアは小さく息を吐いた。
「よく見ているわね」
「観測ですので」
あまりにも当然のように言う。
「で?」
エルネアは顔を上げる。
「それを確認して、何がしたいの」
「確認したいだけです」
「何を」
「あなたが、変わったのかどうかを」
真正面から来た。
エルネアは、少しだけ黙る。
否定はできる。
今まで通り、合理的に説明することもできる。
だが。
「……変わっているわ」
彼女は言った。
あっさりと。
カイエルは一瞬だけ、言葉を失う。
予想外だった。
否定するか、誤魔化すと思っていた。
だがエルネアは、認めた。
「理由は?」
カイエルはすぐに問いを重ねる。
「分からない」
エルネアは答える。
「分からない?」
その返答は、さらに予想外だった。
「分からないわ」
彼女は繰り返す。
「予定外だから」
予定外。
その言葉に、カイエルは小さく目を細める。
「あなたに“分からない”が出るとは思いませんでした」
「私を何だと思っているの」
「少なくとも、“すべてを整理して動く人間”だと」
「それは買いかぶりよ」
エルネアは軽く肩をすくめる。
「整理できないものもある」
「例えば?」
「……」
少しだけ、間が空く。
「感情、とか」
その言葉に、カイエルは完全に黙った。
理解できないわけではない。
だが、それをエルネアが口にするとは思っていなかった。
「あなたがそれを優先するとは」
「優先しているつもりはないわ」
「では?」
「割り込んでくるだけよ」
淡々とした言い方だった。
だが、その内容は重い。
カイエルはしばらく何も言わない。
考えている。
観測して、整理して、結論を出す。
いつも通りの流れ。
だが――
そこで、止まった。
「……予測が、できない」
彼は小さく呟いた。
エルネアが眉を上げる。
「何が」
「あなたの次の行動です」
カイエルは正直に言う。
「これまでは読めました」
「そう」
「ですが、今は読めない」
それは、彼にとって異常だった。
見えすぎる世界の中で、見えないものが出てきた。
それは。
恐怖に近い。
「不安?」
エルネアが聞く。
その問いに、カイエルは少しだけ考える。
「……違います」
彼は答える。
「不安ではない」
だが。
「ですが、落ち着かない」
それは本音だった。
すべてが見えている状態の方が、彼にとっては正常だった。
予測できない未来は、足場がないのと同じだ。
「そう」
エルネアは小さく頷く。
少しだけ、視線を逸らす。
「……それで?」
彼女は言う。
「どうするの」
「どうする、とは」
「観測できないものが出てきた」
エルネアは言う。
「それを、どう扱うの」
カイエルは、ほんの少しだけ黙る。
排除するか。
無視するか。
それとも――
「……観測を続けます」
彼は言った。
「それしかできませんので」
エルネアは、その答えを聞いて、少しだけ笑った。
「らしいわね」
短い言葉だった。
だが、その中に少しだけ、柔らかさが混じっていた。
カイエルはそれを見て、また一つ理解できないものが増えたと感じる。
なぜ、今の言葉で笑うのか。
どういう意図なのか。
読めない。
――読めない。
その感覚が、少しだけ広がる。
エルネアはそのまま、ふと自分のケースに視線を落とした。
黒薔薇。
ひびは、確かに進んでいる。
そして。
その形が、さらに複雑になっていた。
一本だった線が、枝分かれし、絡み合うように広がっている。
まるで。
進む道が増えているみたいに。
「……ねえ、カイエル」
エルネアがぽつりと呟く。
「はい」
「未来って、全部見える方がいいと思う?」
唐突な問いだった。
カイエルは少しだけ考える。
これまでは、答えは決まっていた。
見える方がいい。
見えれば、間違えない。
間違えなければ、最適な選択ができる。
だが。
「……分かりません」
彼は言った。
自分でも驚くほど、自然に。
エルネアが少しだけ目を見開く。
「あなたも?」
「ええ」
カイエルは頷く。
「分からないものが出てきましたので」
その言葉に、エルネアは小さく息を吐いた。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
肩の力が抜けた気がした。
それが何なのかは、まだ分からない。
だが一つだけ、確かなことがある。
予測できない未来が、ここにある。
そしてそれは。
思っていたより、悪いものではないのかもしれない。
そんな認識が、ほんのわずかに、芽生え始めていた。




