第8話 観測は、壊れる瞬間を見逃さない
放課後、ルーカスとの会話でエルネアは“正しさ”と“納得”を軸に生きてきた自分の在り方を揺さぶられる。終わりを前提に感情を切り捨ててきた価値観に疑問が差し込み、思考はわずかに停滞する。そして黒薔薇のひびは、まるで何かに引かれるように不自然に進み、彼女の内面の変化を映すかのようだった。
その日の帰り道、私は妙に静かだった。
何も起きていないわけではない。むしろ起きすぎている。ルーカスとの会話、価値観への疑問、黒薔薇のひびの進行。考えるべきことは山ほどあるのに、頭の中は不思議と騒がしくなかった。
代わりに、どこか一箇所だけが、はっきりと引っかかっている。
――途中で“嫌だ”と思っても、止まれない。
ルーカスの言葉が、思った以上に残っていた。
私は首を振る。余計なことを考えても仕方がない。今やるべきは整理だ。現状を確認して、次の手を決める。それだけでいい。
そう思っていたのに。
「エルネア様」
声に呼ばれて、私は足を止めた。
振り向くと、リリアが立っていた。校門の少し手前、夕方の光がちょうど差し込む位置で、彼女は少しだけ息を切らしている。
「……どうしたの」
「少し、お時間いいですか」
断る理由はいくつも浮かぶ。
疲れている。頭を整理したい。これ以上予定外を増やしたくない。
けれど、それらを並べる前に、私は答えていた。
「……少しだけよ」
リリアはほっとしたように笑った。その顔を見ると、ほんのわずかに胸の奥が軽くなる。理由は分からない。分かりたくもない。
「こっち、いいですか」
彼女が指したのは、校門の外にある小さな並木道だった。人通りは少ないが、完全に人目がないわけではない。話をするには、ちょうどいい距離だ。
私は頷き、並んで歩き出す。
しばらく、会話はなかった。
足音だけが続く。
先に口を開いたのは、リリアだった。
「今日、ルーカス様と話してましたよね」
「見ていたの」
「途中からですけど」
やはり見られていたか。
私は特に隠す気もなく答える。
「少しね」
「何の話だったんですか?」
「雑談よ」
「それにしては、ちょっと真面目な顔してました」
よく見ている。
この子は、本当に細かいところを拾う。カイエルほど理屈で追ってくるわけではないが、感覚で違和感を掴む。
それもまた、面倒だ。
「あなたには関係ないわ」
私は軽く言う。
「関係あります」
リリアは即答した。
「エルネア様の顔、ちょっとだけ変わってたので」
足が、ほんの少しだけ止まりそうになる。
変わっていた?
「どう変わっていたの」
私はできるだけ平静に聞く。
「うーん」
リリアは少しだけ考えた。
「迷ってる感じ」
「……」
「あと、ちょっとだけ」
彼女は言葉を選ぶように続ける。
「“嫌だな”って思ってる顔でした」
完全に、当たっていた。
私は何も言えない。
言い返す言葉を探すより先に、その指摘が正確すぎることに思考が止まる。
「違いますか?」
リリアがこちらを見る。
赤い瞳が、まっすぐに。
逃げ場がない。
「……違わないわ」
私は小さく答えた。
言ってしまってから、ほんの一瞬だけ後悔する。こんなふうに認める必要はなかった。誤魔化すことだってできたはずだ。
なのに、できなかった。
「やっぱり」
リリアは少しだけ安心したように笑う。
その反応が、さらに理解できない。
「どうして安心するの」
「だって、同じだから」
同じ。
その言葉に、私は眉をひそめる。
「何が」
「嫌だなって思うの」
彼女はあっさりと言った。
「私も、思ってます」
風が少しだけ強く吹いた。並木道の葉が揺れて、影が揺れる。
私は足を止める。
リリアも、合わせて止まった。
「……何が嫌なの」
私は聞く。
聞くつもりはなかったのに、気づけば口に出していた。
リリアは少しだけ視線を落とした。
「花です」
彼女は言う。
「ひび、増えてるじゃないですか」
分かっている。
昨日も、今日も、見た。
「これがどこまで行くのか、分からないのが嫌です」
リリアは続ける。
「止められるのかも分からないし、どうしたらいいかも分からないし」
声は落ち着いている。
けれど、その中にある不安は隠しきれていない。
「それで」
彼女は少しだけ顔を上げた。
「エルネア様は、どうなんですか?」
まただ。
また、こちらへ向けられる。
「黒薔薇」
リリアは言う。
「最初からひび入ってましたよね」
逃げ場がない。
私は自分のケースを取り出す。
黒い薔薇。
そのガラスに走る、細いひび。
確かに、そこにある。
「嫌じゃないんですか?」
リリアが聞く。
私はすぐには答えない。
答えられない。
今までなら、迷わず答えていたはずだ。
嫌ではない。
これは必要な進行だ。
正しく終わるための過程だ。
そう、言えていたはずなのに。
「……嫌ではないわ」
私は言う。
言ったあと、ほんのわずかに間が空く。
「……ただ」
言葉が、続く。
続いてしまう。
「予定より、早いとは思っている」
自分でも驚いた。
“嫌ではない”で終わらせるつもりだったのに、その先を口にしてしまった。
リリアはそれを聞いて、小さく頷く。
「やっぱり、予定あるんですね」
「あるわ」
「ちゃんとしてる」
「ちゃんとしているのが普通よ」
「そうかな」
彼女は少しだけ首を傾げた。
「でも、予定って」
リリアは言う。
「崩れることもありますよね」
その言葉に、私は一瞬だけ視線を逸らす。
崩れている。
すでに、いくつも。
「……崩れた場合は、修正すればいいだけよ」
「全部?」
「全部」
「無理なものもありますよ」
即答だった。
軽い言い方なのに、妙に重い。
「例えば?」
私は聞く。
「例えば」
リリアは少しだけ考える。
「気持ちとか」
――それを言うのか。
私は息を止める。
「予定どおりにしようとしても」
彼女は続ける。
「途中で“嫌だな”って思ったら、そっちの方が強くなること、あります」
ルーカスの言葉と、重なる。
違う角度から、同じことを言われている。
「それでも、無視できます?」
リリアが聞く。
無視できる。
そう言いたい。
それが正しい。
それが、今までの自分だ。
でも。
私は少しだけ、考える。
昨日のこと。
今日のこと。
リリアの手を取った時。
囲まれているのを見た時。
そして、さっき。
ルーカスの言葉を聞いて、“嫌だ”と思った時。
それを全部、無視できるかと言われたら。
「……できるわ」
私は言う。
言った。
けれど。
その言葉は、自分でも少しだけ軽く感じた。
リリアはその違和感に気づいたのか、少しだけ目を細める。
「そっか」
彼女は言う。
それ以上は追及しない。
代わりに、小さく笑った。
「でも」
リリアは続ける。
「できない時も、あると思います」
断定ではない。
否定でもない。
ただ、可能性として置いてくる。
それが、妙に残る。
私は何も返さない。
返せなかった。
並木道を抜けると、校門が見えてくる。
ここで別れるのが自然だ。
「今日はありがとう」
リリアが言う。
「話せてよかったです」
「……そう」
「また、話してもいいですか?」
「内容によるわ」
「じゃあ、また考えてきます」
そう言って、彼女は軽く手を振った。
そのまま、反対方向へ歩いていく。
私はその背中を少しだけ見送る。
そして、ゆっくりと自分のケースを開いた。
黒薔薇。
ひびは、確かに進んでいる。
けれど。
その形が、少しだけ変わっていた。
ただ一直線に伸びていたものが、途中でわずかに分岐している。
まるで。
進む方向を、迷っているみたいに。
私はそのひびから目を離せない。
予定どおりに進むはずだったものが、ほんの少しだけ逸れている。
その事実が、はっきりとそこにあった。




