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第18話 見えない原因に触れたとき、選択は形を持つ

 医務室前でエルネアたちは倒れた生徒が五人に増えたと知り、異常が確実に広がっていると悟る。花との連動も濃厚になる中、待つだけでは追いつけないと判断したエルネアは、自ら原因を探るため動くことを選ぶ。リリアとカイエルも同行を決め、三人は初めて“見えないまま踏み出す側”へ回り始めた。

 医務室を離れると、空気が少しだけ軽くなった。

 ざわめきは残っている。だが、さっきまでの“密集した圧”はない。音が広がり、少しだけ距離を持っただけで、呼吸がしやすくなる。

 人の不安は空間が狭いほど濃くなる。逆に言えば、そこから一歩離れるだけで、同じ騒ぎでも受け取り方は変わる。今はまさに、その違いがはっきり分かる状態だった。


 それでも。

 状況が変わったわけではない。

 軽くなったのは空気だけで、事態そのものは何ひとつ片づいていない。むしろ、観測の段階を抜けて、ここから何をするかを選ぶ場面に入りつつあった。


 むしろ。

 ここからが、本番だと分かっていた。

 医務室の前で得たのは答えではなく、“答えが出ていない”という事実だけだ。なら、そこから先へ進むには、自分たちで見に行くしかない。


「……ちょっと、外の方が楽ですね」

 リリアが言う。


 その声には、単なる感想以上のものが混ざっていた。

 息がしやすくなったという身体的な意味と、視線の密集から離れたことで頭が少し回るようになったという意味。その両方をまとめて言っているのだと分かる。

 今の彼女は、軽く言いながらもちゃんと状況を受け取っている。そこが少しだけ頼もしかった。


「人が密集していると、どうしても空気が重くなるわ」

「精神的な意味で、ですよね?」

「両方よ」


 短いやり取り。

 だが、それで少しだけ落ち着く。

 意味のある会話かと言われれば微妙だ。けれど、こういう確認のような言葉の応酬が、思考を次へ進めるための小さな足場になることがある。


「どこから見ます?」

 リリアが聞く。


「発生地点からが自然ね」

 私は答える。

「最初は中庭。その次が廊下と教室前」


 順番を決める。

 今の状況では、完璧な正解より、まず動き出せる筋道の方が重要だ。

 手探りでも、起点を持って進む方がまだ外しにくい。少なくとも、闇雲に歩くよりはずっとましだった。


「順番に潰していく感じですか」

「ええ」


「地味ですね」

「地味な方が、外さないわ」


 リリアが小さく笑う。

 派手さはない。だが、派手な方法ほど前提が必要になる。今の私たちに必要なのは、まだそこではない。

 観測できるものを一つずつ潰す。それは遠回りに見えて、結局いちばん崩れにくい。


「エルネア様っぽいです」

「どういう意味かしら」

「ちゃんと面倒なことやるタイプ」


「褒めているの?」

「褒めてます」


 軽い。

 でも、嫌ではない。

 以前ならこういう評価は雑だと思って切っていた。今は、そこに含まれる“信頼”の方が先に見える。


「カイエル」

 私は呼ぶ。


「はい」


「あなたはどう見る?」

「優先順位としては同意です」

 彼は即答する。


 返答に迷いはない。

 少なくとも、場所を順に当たるという方針自体は彼の中でも妥当なのだろう。

 だが、彼がそのまま終わらせないことも分かっていた。カイエルがすんなり同意する時は、その先に必ず補足がある。


「ただし」

 一瞬だけ間を置く。


「“時間”も見るべきかと」


「時間?」

 リリアが反応する。


 私は彼の言葉を受けて、頭の中でさっきまでの情報を並べ直す。

 場所では縛り切れない。接触も共通点がない。なら、残る大きな軸は時間だ。

 それを先に出してくるあたり、やはりこの男は観測の方向が早い。


「発生がほぼ同時刻である以上」

 カイエルは続ける。

「場所よりも、“何が起きた瞬間か”を特定する方が早い可能性があります」


「なるほど……」

 リリアが少し考える。


「じゃあ、チャイムの後とか?」

「可能性はあります」

 カイエルが頷く。


「移動が重なる時間帯ですから」


 時間帯。

 人の動きが一斉に変わる瞬間。

 何かが起きる“場”ではなく、“瞬間”を押さえる方が近道かもしれない。その発想はたしかに筋が通っている。


「つまり」

 私は言う。

「“同じタイミングで何かをした”可能性がある」


「はい」


「花も含めて?」

 リリアが聞く。


「否定はできません」

 カイエルは答える。


 曖昧なまま。

 だが、それでいい。

 今必要なのは断定ではなく、候補を落とさずに並べることだ。断定の早さより、外さないことの方が重要だった。


「……分担する?」

 リリアが言う。


「どう分けるの」

「場所と時間で」


 少しだけ考えてから続ける。


「エルネア様は中庭」

「私は廊下を見る」

「カイエル様は時間の整理」


「随分ざっくりね」

 私は言う。


「細かく決めても、外れたら意味ないですし」

「それもそうね」


 納得する。

 綿密な計画は、前提が揃っている時ほど強い。今みたいに見落としの方が多い状況では、逆に硬すぎる計画の方が脆い。

 ざっくりしているからこそ、途中で修正が効く。その程度の粗さが、今はちょうどよかった。


「異論はありません」

 カイエルが言う。


「じゃあ決まりですね」

 リリアが軽く手を叩く。


 その仕草に、少しだけ空気が緩む。

 無理に明るくしようとしているわけではない。ただ、決まったことを決まったものとして前へ送るための、小さな区切りみたいな動きだった。

 以前なら、こういう決め方はしなかった。今は、それでいいと思える。


「後でここ集合でいいですか?」

 リリアが言う。


「ええ」

「問題ありません」


 三人とも頷く。

 そこで一瞬だけ、静かになる。

 動く前の、短い間。決まったことをそれぞれの中へ落とし込むための、ほんのわずかな空白だった。


 私は無意識にケースに触れる。

 黒薔薇。

 ひびは――進んでいる。触れなくても分かるほど、あの変化はもう身体感覚に近くなっていた。


「……やっぱり」


 小さく呟く。

 気のせいではない。状況が動くたびに、この花もまたわずかに形を変えている。

 それは観察というより、もはや確認に近かった。


「何か分かりました?」

 リリアがすぐに聞く。


「まだ仮説よ」

 私は答える。

「でも、止まってはいない」


「時間で進んでる感じですか?」

「それに近いわね」


 カイエルがこちらを見る。

 その目は、否定よりも検証へ向いている。

 この段階の彼は、まだ仮説を潰そうとしているというより、どう条件を足せば形になるかを見ている目だった。


「連動している、と」

「可能性は高い」


「興味深いですね」

 彼は言う。


「面白がる余裕あるんですね」

 リリアが少しだけ呆れる。


「余裕ではありません」

 カイエルは淡々と返す。

「ただ、未知なだけです」


「それを面白いって言うんじゃないですか?」

「否定はしません」


 軽く言う。

 いつもの彼だ。

 でも、完全ではない。いつもと同じ言葉の中に、どこか“揺れ”が混ざっている。未知を前にしている時の、わずかな熱みたいなものがあった。


「……行くわよ」

 私は言う。


 三人がそれぞれ動く。

 私は中庭へ戻る。

 人は少し減っていた。だが、完全には消えていない。騒ぎの名残はまだそこに残っていた。


「まだいるんですね……」

 後ろからリリアの声。


 振り返ると、普通についてきていた。

 分担したはずでは、と一瞬だけ思う。だが、問いかける前に本人の顔を見た時点で、理由をなんとなく察してしまう。

 この子は一度決めても、必要だと思えば平気で動きを変える。そういうところがある。


「あなた、廊下担当じゃなかった?」

「やっぱり最初は一緒に見た方がいいかなって」


「……合理的ではないわね」

「安心の方が大事です」


 即答だった。

 迷いがない。

 そういう基準で動けるのは、この子の強さでもあり、私にはまだ少し眩しい部分でもあった。


「そう」


 否定はしない。

 できない。

 理屈だけなら分担の方が正しい。けれど今この瞬間、誰かと一緒に見ることで得られる“安定”を、私はもう完全には軽視できなくなっていた。


 中庭の中心へ近づく。

 倒れていた場所。

 痕跡はない。誰かが何かをこぼした跡も、争った形跡も、目立つ異常も何も残っていない。


「ここですよね」

 リリアが言う。


「ええ」


 私はその場に立つ。

 視線を巡らせる。人の流れ、立ち位置、見える範囲、死角。

 当時ここにどれくらい人がいて、どの方向から騒ぎが広がったのかを頭の中でなぞる。何もない場所ほど、流れを想像しないと何も残らない。


「この辺に人が集まってて」

 リリアが言う。

「それで、倒れて……」


「ええ」

 私は頷く。


「でも」

 彼女が少し首を傾げる。

「特別なもの、何もないですよね」


「それが問題よ」


 見える異常がない。

 だから、厄介だ。

 物として残る原因がないなら、条件か、瞬間か、あるいは目に見えない何かになる。候補が増えるほど、決定打は遠のく。


「……花、見てもいいですか?」

 リリアが言う。


「ええ」


 私はケースを開く。

 黒薔薇。ひびが、複雑に走っている。分岐し、絡み、広がり続けている。

 さっき見た時より、またわずかに進んでいた。目を離した数分の間に、それでも変化している。


「うわ……」

 リリアが小さく声を漏らす。

「これ、進んでません?」


「ええ」

 私は答える。

「今も」


「今も!?」


 驚く。

 無理もない。

 止まった形として存在しているのではなく、“現在進行形で動いている”ものを見せられれば、そうなる。


「……気持ち悪いですね」

「同感よ」


 その時。


「エルネア様」


 リリアの声が少し低くなる。

 ふざけた調子が消える。

 何かを見つけた時の声だと分かる。


「あの人」


 視線を追う。

 壁にもたれている男子生徒。

 顔色が悪い。立っているだけで精一杯という感じだった。明らかに異常だ。


「……」


 私は一歩、近づく。

 ケースは閉じたまま。だが、触れていなくても今は分かる。

 この場に近づくほど、黒薔薇の違和感も少しずつ濃くなっている。


「あなた」


 声をかける。


「え……?」


「体調は?」

「ちょっと……ふらついて……」


 その瞬間。

 黒薔薇のひびが、わずかに広がる。

 視覚として認識できるほどはっきりと。今までの“気がする”ではなく、確かに動いたと分かる変化だった。


「……っ」


「今、動きましたよね!?」

 リリアがすぐに言う。


「ええ」

 私は答える。

「はっきり見えた」


 カイエルも近づいてくる。

 その歩幅が少しだけ速い。

 彼にしては珍しく、観測が反射へ近い速度になっていた。


「変化がありましたか」

「ええ」

 私は言う。

「この人に反応した」


「……連動確定ですね」

 彼が小さく呟く。


 距離か。

 状態か。

 あるいはその両方か。少なくとも、無関係ではなくなった。


「距離か、状態か」

「どっちだと思います?」

 リリアが聞く。


「両方の可能性があるわ」

 私は答える。


 そして、男子生徒を見る。

 焦点が甘い。反応も遅い。倒れる直前とまではいかなくても、すでに危険圏に入っている。

 検証を続けるより先に、離した方がいい。そう判断できる程度には状態が悪かった。


「今、何をしていたの」

「え、普通に……立ってただけ……」


 その返答に具体性はない。

 だが、今はそこを掘る意味も薄い。

 この場に留めて観察を続けること自体が危険になりつつある。


「医務室へ行きなさい」

 私は言う。


「でも……」

「今すぐ」


 少しだけ強く言う。

 迷わせる余地を残さないための声だった。

 この手の場面では、相手に考えさせる方が危ない。動かすなら、はっきり言うしかない。


「……はい」


 男子生徒が動く。

 その瞬間。

 ひびの進行が、わずかに緩む。


「……止まりました?」

 リリアが言う。


「完全じゃないけど」

 私は答える。

「変化はある」


 カイエルが呟く。

「距離……」


「か、影響範囲」

 私は続ける。


 反応はする。

 だが、完全には止まらない。

 つまり一点だけではなく、周囲全体に何かが残っている可能性もある。そう考える方が自然だった。


「じゃあ」

 リリアが言う。

「近くにいると危ないってことですか?」


「可能性は高いわ」


「うわ、それ普通に怖いですね」

「ええ」


 短く答える。

 怖い。

 今はもう、その表現をわざわざ否定する理由もなかった。


 そして。

 私はケースを見る。

 黒薔薇。ひびは、まだ動いている。完全には止まらない。


「……これ」


 リリアが小さく言う。


「もう止めるとかの話じゃないですよね」


「ええ」


 私ははっきり答える。


「段階が違うわ」


「どういう意味ですか」

 カイエルが聞く。


 私は一瞬だけ考える。

 言葉にするなら、今どの段階へ入ったのかを示す必要がある。

 観測して終わる段階ではない。原因を知るだけでも足りない。ここから先は、どこまで踏み込むかを自分で決める話になる。


 そして。


「どこまで行くかを決める段階よ」


 そう言った。


 その言葉に、二人が黙る。

 理解している。

 これはもう、観測だけで終わる話じゃない。関わるか。踏み込むか。その選択が必要になる。


 私は黒薔薇を見る。

 ひびは、止まらない。

 進んでいる。確実に。


 そしてそれは。

 私たちの選択を待っているように見えた。

 ただ壊れていくだけではない。こちらが何を選ぶかで、まだ先の形が変わる。そう告げているみたいだった。


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