第12話 同じじゃなくても、隣にいられる
予測できない未来に揺れるカイエルは、初めて「選ぶ」ことそのものと向き合う。エルネアもまた、広がる黒薔薇のひびに崩壊ではなく可能性を見出し始めていた。分からないことを楽しめるリリアの言葉を受け、三人の中で“正しさ”よりも“選択”を肯定する感覚が静かに育ち始める。
放課後の教室は、昼間とは違う顔をしている。
残る者の数が減るだけで、空気の密度が変わる。声は少なく、物音は遠くなり、窓から差し込む光もどこかやわらかい。
人が減っただけのはずなのに、そこには昼間にはなかった余白が生まれていて、その静けさが妙に印象に残った。
私はその余白の中で、珍しく席に残っていた。
帰る必要がないわけではない。むしろ、帰って整理するべきことはいくらでもある。頭の中には、言葉にして並べればいくらでも増える種類の問題が、いつも通りちゃんと存在していた。
それなのに今日は、それらを後回しにしている。自分でも理由を明確に説明できないまま、ただそうしていた。
――後回しにしている。
その認識自体が、少しだけ新しかった。これまでの私は、整理できるものを先送りにすることを、ほとんど選ばなかった。
必要なことは必要な順番で処理する。それが当たり前だったからこそ、今の自分の曖昧さが妙に引っかかった。
「エルネア様」
呼ばれて、顔を上げる。
静かな教室では、たったそれだけの声でもよく通る。反射的に視線を向けた先にいたのは、教室の入り口で立ち止まり、こちらを見ているリリアだった。
それが誰なのか理解するまでの時間は、もうほとんど必要なかった。
「まだいたんですね」
「あなたもでしょう」
「私はちょっとだけ用事があって」
「そう」
それ以上は聞かない。
以前なら、理由を確認していたかもしれない。何の用事か、誰に会ったのか、どれくらいかかるのか。盤面を把握するために必要だと判断していたはずだ。
だが今日は、それをしなかった。聞かなくても困らない、というより、聞かないままの方が自然だと思ってしまった。
リリアはそのままこちらへ歩いてきて、隣の席に座る。
あまりにも自然な動きだった。遠慮がないと言えばそうだが、今さらそこを咎める気にもならない。
もはやそれを止める理由を、私は明確には持っていなかった。
「今日は何も起きなかったですね」
彼女が言う。
「そうね」
「ちょっとだけ、物足りないかも」
「あなたは何を期待しているの」
「分かりません。でも、なんとなく」
曖昧な言い方だった。
だが、少しだけ分かる気もする。何も起きない一日は、確かに正しい。問題もなく、余計な負担も増えず、計画だけを考えるなら理想に近い日だろう。
でも今の私は、それを完全に“良い”と断定できなかった。何も起きなかったはずなのに、何も起きないだけでは足りないような感覚が、どこかに残っていた。
「ねえ、エルネア様」
リリアが言う。
「少し歩きませんか?」
私は彼女を見る。
提案はいつも通り曖昧だった。目的地も、理由も、必要性も示されていない。そういう誘い方は、本来なら一番扱いにくい。
判断材料が少ないからだ。少ないものは、整理しづらい。
「……どこを」
「どこでも」
やはり曖昧だ。
目的がない。理由もない。あるのは、ただ“少し歩きたい”という感覚だけだ。
それでも私は、その不確かさを以前ほど不快には思わなかった。
「……いいわ」
答えてから、自分で少しだけ驚く。
断る理由が見つからなかった、というのは半分だけ本当だ。もう半分は、断りたくなかった。
その認識をはっきり言葉にする気はまだなかったが、少なくとも完全な受け身ではなかった。
校舎の外へ出る。
夕方の空気は少しだけ冷えていて、昼間とは匂いが違う。風の温度も、地面の色も、影の伸び方も、すべてが少しだけ穏やかだった。
並木道をゆっくり歩く。急ぐ理由はないし、急がなければならない誰かもいない。
特に会話はない。
沈黙が続く。
だが、不快ではなかった。むしろ、少しだけ落ち着く。言葉を探さなくていい時間があること自体、今の私には少し新しかった。
――これも、予定外だ。
誰かと並んで歩いていて、何も話していないのに落ち着く。そういう状態を、これまで私はあまり必要としてこなかった。
必要がないから排除していたのか、それとも知らなかっただけなのかは、まだ自分でも分からない。
「エルネア様」
リリアがぽつりと言う。
「はい」
「最近、ちょっとだけ変わりましたよね」
「何度も言われているわ」
「嫌ですか?」
問いは軽かった。
だが、軽いからこそ逃げにくい。大げさに構えることもできず、曖昧に笑って流すにも妙に真っ直ぐだった。
変わった、と言われることに以前ほど強く反発できなくなっている自分を、私はもう知っている。
「……分からないわ」
正直に答える。
前なら、即座に否定していた。変わることは計画の乱れであり、避けるべきものだと、迷わずそう言えたはずだ。
でも今は、完全にはそう言い切れない。その揺れを、もう誤魔化しきれなかった。
「私は、いいと思います」
リリアはそう言った。
口調は軽い。けれど、その言葉はちゃんと届く。ただ慰めようとしているわけではなく、自分の実感として言っているのだと分かる。
だからこそ、簡単には跳ね返せなかった。
「どうして」
「なんとなくですけど」
彼女は少しだけ考える。
言葉を選んでいるが、無理に綺麗に整えようとはしていない。だからたぶん、そこから出てくるものは彼女なりの本音に近い。
「前より話しやすいです」
その評価に、私は少しだけ眉をひそめる。
話しやすい。褒め言葉として処理するには曖昧だし、喜ぶには少し無防備すぎる。
けれど、否定もしない。したところで、今の変化そのものを否定することになる気がした。
「それは、褒めているの?」
「褒めてます」
「……そう」
納得はしていない。
だが、否定もしない。できない。
それが何を意味しているのかを、まだ私はうまく整理できていなかった。
「エルネア様って」
リリアが続ける。
「最初、すごく遠かったです」
私は少しだけ視線を前に向ける。
遠かった、という評価は事実だ。私は意図して距離を取っていたし、それを必要なことだと思っていた。
近づきすぎれば管理が難しくなる。そう判断していたのだから、彼女の認識は間違っていない。
「距離を取っていたからでしょう」
「そうなんですけど」
彼女は少し笑う。
「今は、ちょっと近いです」
その言葉に、私は少しだけ足を止める。
近い。
それは事実だ。並んで歩いていて、それを不自然だと思っていない時点で、もう否定は難しかった。
「それが良いとは限らないわ」
私は言う。
「近すぎる関係は、崩れやすい」
それは経験則というより、構造の話だった。
距離が近くなればなるほど、影響は大きくなる。影響が大きくなれば、崩れたときの損失も増える。
だからこそ、私はずっと適切な距離を保とうとしてきた。
「そうですね」
リリアは頷く。
「でも」
彼女は少しだけこちらを見る。
その視線はやわらかい。反論したいのではなく、ただ自分の考えを置こうとしているだけだと分かる。
「遠すぎると、そもそも始まらないです」
その言葉は、静かだった。
強くもない。だが、残る。遠すぎれば安全かもしれない。けれど、安全であることと、何も始まらないことは、案外近い場所にある。
その当たり前のことを、私は今まで意識してこなかった気がした。
「……始まる、とは?」
私は聞く。
「関係です」
即答だった。
迷いがない。少なくとも、彼女の中ではそれが自然な答えなのだろう。
誰かと仲良くなることも、一緒にいることも、関係の始まりとして同じ線上に置かれている。
「誰かと仲良くなるとか、一緒にいるとか」
「それは目的なの?」
「目的というより」
リリアは少しだけ考える。
「結果、ですかね」
結果。
その言葉に、私はほんの少しだけ引っかかった。結果は普通、目的の先にあるものだ。そう整理するのが自然だと思っていた。
だが彼女は、それを逆向きに置いた。そこに意図よりも流れを重く見る感覚がある。
「どういう意味?」
「うーん」
リリアは少しだけ困った顔をする。
「うまく言えないんですけど」
そのまま、ゆっくり歩きながら続ける。
言葉を整えながらではなく、歩く速度に合わせて考えている話し方だった。
だからこそ、作られていない感じがした。
「仲良くなろうって思ってなることもあると思うんですけど」
「そうね」
「でも、気づいたらそうなってることもありますよね」
私は答えない。
否定しにくい。
今のこの状況そのものが、たぶんそうだからだ。
「エルネア様と私も」
リリアは言う。
「最初からこうなる予定じゃなかったですよね」
私は小さく息を吐く。
予定ではなかった。むしろ避ける側に置いていた。
それでも今、こうして並んで歩いている。その事実は、もう動かしようがない。
「ええ」
「でも、今こうなってます」
並んで歩いている。
会話をしている。
それを、自然だと感じている。
確かに。
予定にはなかった。
けれど、起きてしまったあとでそれを完全な誤りとも言い切れなかった。
「だから」
リリアは少しだけ笑う。
「同じじゃなくても、いいのかなって思います」
その言葉に、私は視線を落とす。
同じ。
何度も繰り返されてきたその単語が、今回は少し違う形で響いた。
同じじゃなくてもいい。
それは、関係の成立条件そのものを緩める言葉だった。
理解しきれなくても、価値観が重ならなくても、それでも隣にいられるかもしれないという前提。
「……あなたは」
私は言う。
「私と同じになりたいの?」
問いかけてから、自分でも少し意外に思う。
たぶん私は、ずっとそこを気にしていたのだ。同じか、違うか。理解できるか、できないか。
その二分のどちらかに置かないと、関係を整理できないと思っていた。
「なりたくないです」
即答だった。
迷いもない。
その速さがむしろ、気持ちよくさえあった。
「どうして」
「だって、エルネア様はエルネア様なので」
リリアは言う。
「私は私です」
当たり前のことを言っている。
でも、その当たり前が妙にしっくりくる。
同じになることを求めないまま関わる、という考え方は、私の中では意外なほど形を持っていなかった。
「でも」
彼女は続ける。
「隣にいることはできますよね」
その言葉に、私は完全に足を止めた。
隣にいる。
同じじゃなくても。
それは、今までの私の中にはなかった考え方だった。
同じ価値観でなければ理解できない。理解できなければ、関係は成立しない。
少なくとも、私はずっとそういう前提で人を見てきた。
でも。
違うのかもしれない。
同じであることと、隣にいることは、同じ条件ではないのかもしれなかった。
「……分からないわ」
私は小さく言う。
「できるかどうか」
正直な言葉だった。
分からない、と言えることが増えている。それを危険だと思う気持ちは、まだ消えていない。
だが同時に、分からないことをそのまま置いておくことにも、少しだけ慣れ始めている自分がいた。
リリアはそれを聞いて、少しだけ頷く。
無理に答えを急がせる顔ではなかった。分からないままでも、そのまま隣に置いておけると思っている顔だ。
その態度が、少しだけ救いのように感じられるのが厄介だった。
「じゃあ」
彼女は言う。
「試してみましょう」
試す。
その言葉に、私は少しだけ笑う。
随分と軽い。軽いが、だからこそ今の私には刺さる。
「随分と軽いわね」
「軽いです」
「失敗したらどうするの」
「その時考えます」
あまりにも無責任だ。
だが、それが少しだけ羨ましいと思った。考えすぎないこと。失敗の可能性を先に数えすぎないこと。
そういう在り方を、私はずっと自分の外側に置いてきた。
「……本当に」
私は言う。
「あなたは適当ね」
「よく言われます」
「褒めていないわ」
「知ってます」
リリアは笑う。
その笑顔を見て、私はほんの少しだけ肩の力を抜いた。
抜いてしまった、という方が正しいのかもしれない。意識して緩めたわけではなく、気づけばそうなっていた。
気づけば、並木道の終わりまで来ていた。
自然と足が止まる。
もう少し歩ける気もしたが、ここで区切るのがいちばん自然だった。
「今日はありがとう」
リリアが言う。
「話せてよかったです」
「……そう」
「また、歩きましょうね」
「予定が合えば」
そう返した瞬間、リリアがすぐに反応する。
その早さが少し可笑しい。
もうこういうやり取り自体が、私の中でほとんど定着し始めている。
「予定、また言ってる」
「悪い?」
「ちょっとだけ」
そんなやり取りをして、彼女は手を振って去っていく。
私はその背中を、少しだけ見送る。長くではない。けれど、完全に無関心なふりをするには少し長い。
そのくらいの時間だった。
そして、ゆっくりと自分のケースを開いた。
黒薔薇。
ひびは、さらに広がっている。
だが。
その形は、以前よりも安定しているように見えた。
ただ壊れているのではない。複数の線が交差し、支え合うように広がっている。
まるで。
一つの道ではなく、いくつもの道が同時に成立しているような。
分岐しているのに、崩れてはいない。むしろ全体として、前より均衡を保っている。
私はそのひびを見つめる。
正しさだけではない。
同じでなくてもいい。隣にいられる。
その考えが、少しずつ形になり始めている。
まだ不安定だ。まだ受け入れきれない。
でも、完全に否定することも、もうできなかった。
その事実が、静かに、確かに、そこにあった。




