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悪役令嬢ですが、バッドエンドを全員生存ルートに改変します  作者: 蜜柑くらげ
第2章 救いは、正しくなくてもいい
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第12話 同じじゃなくても、隣にいられる

 予測できない未来に揺れるカイエルは、初めて「選ぶ」ことそのものと向き合う。エルネアもまた、広がる黒薔薇のひびに崩壊ではなく可能性を見出し始めていた。分からないことを楽しめるリリアの言葉を受け、三人の中で“正しさ”よりも“選択”を肯定する感覚が静かに育ち始める。

 放課後の教室は、昼間とは違う顔をしている。

 残る者の数が減るだけで、空気の密度が変わる。声は少なく、物音は遠くなり、窓から差し込む光もどこかやわらかい。

 人が減っただけのはずなのに、そこには昼間にはなかった余白が生まれていて、その静けさが妙に印象に残った。


 私はその余白の中で、珍しく席に残っていた。

 帰る必要がないわけではない。むしろ、帰って整理するべきことはいくらでもある。頭の中には、言葉にして並べればいくらでも増える種類の問題が、いつも通りちゃんと存在していた。

 それなのに今日は、それらを後回しにしている。自分でも理由を明確に説明できないまま、ただそうしていた。


 ――後回しにしている。

 その認識自体が、少しだけ新しかった。これまでの私は、整理できるものを先送りにすることを、ほとんど選ばなかった。

 必要なことは必要な順番で処理する。それが当たり前だったからこそ、今の自分の曖昧さが妙に引っかかった。


「エルネア様」


 呼ばれて、顔を上げる。

 静かな教室では、たったそれだけの声でもよく通る。反射的に視線を向けた先にいたのは、教室の入り口で立ち止まり、こちらを見ているリリアだった。

 それが誰なのか理解するまでの時間は、もうほとんど必要なかった。


「まだいたんですね」

「あなたもでしょう」

「私はちょっとだけ用事があって」

「そう」


 それ以上は聞かない。

 以前なら、理由を確認していたかもしれない。何の用事か、誰に会ったのか、どれくらいかかるのか。盤面を把握するために必要だと判断していたはずだ。

 だが今日は、それをしなかった。聞かなくても困らない、というより、聞かないままの方が自然だと思ってしまった。


 リリアはそのままこちらへ歩いてきて、隣の席に座る。

 あまりにも自然な動きだった。遠慮がないと言えばそうだが、今さらそこを咎める気にもならない。

 もはやそれを止める理由を、私は明確には持っていなかった。


「今日は何も起きなかったですね」

 彼女が言う。


「そうね」

「ちょっとだけ、物足りないかも」

「あなたは何を期待しているの」

「分かりません。でも、なんとなく」


 曖昧な言い方だった。

 だが、少しだけ分かる気もする。何も起きない一日は、確かに正しい。問題もなく、余計な負担も増えず、計画だけを考えるなら理想に近い日だろう。

 でも今の私は、それを完全に“良い”と断定できなかった。何も起きなかったはずなのに、何も起きないだけでは足りないような感覚が、どこかに残っていた。


「ねえ、エルネア様」

 リリアが言う。

「少し歩きませんか?」


 私は彼女を見る。

 提案はいつも通り曖昧だった。目的地も、理由も、必要性も示されていない。そういう誘い方は、本来なら一番扱いにくい。

 判断材料が少ないからだ。少ないものは、整理しづらい。


「……どこを」

「どこでも」


 やはり曖昧だ。

 目的がない。理由もない。あるのは、ただ“少し歩きたい”という感覚だけだ。

 それでも私は、その不確かさを以前ほど不快には思わなかった。


「……いいわ」


 答えてから、自分で少しだけ驚く。

 断る理由が見つからなかった、というのは半分だけ本当だ。もう半分は、断りたくなかった。

 その認識をはっきり言葉にする気はまだなかったが、少なくとも完全な受け身ではなかった。


 校舎の外へ出る。

 夕方の空気は少しだけ冷えていて、昼間とは匂いが違う。風の温度も、地面の色も、影の伸び方も、すべてが少しだけ穏やかだった。

 並木道をゆっくり歩く。急ぐ理由はないし、急がなければならない誰かもいない。


 特に会話はない。

 沈黙が続く。

 だが、不快ではなかった。むしろ、少しだけ落ち着く。言葉を探さなくていい時間があること自体、今の私には少し新しかった。


 ――これも、予定外だ。

 誰かと並んで歩いていて、何も話していないのに落ち着く。そういう状態を、これまで私はあまり必要としてこなかった。

 必要がないから排除していたのか、それとも知らなかっただけなのかは、まだ自分でも分からない。


「エルネア様」

 リリアがぽつりと言う。


「はい」

「最近、ちょっとだけ変わりましたよね」

「何度も言われているわ」

「嫌ですか?」


 問いは軽かった。

 だが、軽いからこそ逃げにくい。大げさに構えることもできず、曖昧に笑って流すにも妙に真っ直ぐだった。

 変わった、と言われることに以前ほど強く反発できなくなっている自分を、私はもう知っている。


「……分からないわ」


 正直に答える。

 前なら、即座に否定していた。変わることは計画の乱れであり、避けるべきものだと、迷わずそう言えたはずだ。

 でも今は、完全にはそう言い切れない。その揺れを、もう誤魔化しきれなかった。


「私は、いいと思います」


 リリアはそう言った。

 口調は軽い。けれど、その言葉はちゃんと届く。ただ慰めようとしているわけではなく、自分の実感として言っているのだと分かる。

 だからこそ、簡単には跳ね返せなかった。


「どうして」

「なんとなくですけど」


 彼女は少しだけ考える。

 言葉を選んでいるが、無理に綺麗に整えようとはしていない。だからたぶん、そこから出てくるものは彼女なりの本音に近い。


「前より話しやすいです」


 その評価に、私は少しだけ眉をひそめる。

 話しやすい。褒め言葉として処理するには曖昧だし、喜ぶには少し無防備すぎる。

 けれど、否定もしない。したところで、今の変化そのものを否定することになる気がした。


「それは、褒めているの?」

「褒めてます」

「……そう」


 納得はしていない。

 だが、否定もしない。できない。

 それが何を意味しているのかを、まだ私はうまく整理できていなかった。


「エルネア様って」

 リリアが続ける。

「最初、すごく遠かったです」


 私は少しだけ視線を前に向ける。

 遠かった、という評価は事実だ。私は意図して距離を取っていたし、それを必要なことだと思っていた。

 近づきすぎれば管理が難しくなる。そう判断していたのだから、彼女の認識は間違っていない。


「距離を取っていたからでしょう」

「そうなんですけど」

 彼女は少し笑う。

「今は、ちょっと近いです」


 その言葉に、私は少しだけ足を止める。

 近い。

 それは事実だ。並んで歩いていて、それを不自然だと思っていない時点で、もう否定は難しかった。


「それが良いとは限らないわ」

 私は言う。

「近すぎる関係は、崩れやすい」


 それは経験則というより、構造の話だった。

 距離が近くなればなるほど、影響は大きくなる。影響が大きくなれば、崩れたときの損失も増える。

 だからこそ、私はずっと適切な距離を保とうとしてきた。


「そうですね」

 リリアは頷く。

「でも」


 彼女は少しだけこちらを見る。

 その視線はやわらかい。反論したいのではなく、ただ自分の考えを置こうとしているだけだと分かる。


「遠すぎると、そもそも始まらないです」


 その言葉は、静かだった。

 強くもない。だが、残る。遠すぎれば安全かもしれない。けれど、安全であることと、何も始まらないことは、案外近い場所にある。

 その当たり前のことを、私は今まで意識してこなかった気がした。


「……始まる、とは?」

 私は聞く。

「関係です」


 即答だった。

 迷いがない。少なくとも、彼女の中ではそれが自然な答えなのだろう。

 誰かと仲良くなることも、一緒にいることも、関係の始まりとして同じ線上に置かれている。


「誰かと仲良くなるとか、一緒にいるとか」

「それは目的なの?」

「目的というより」

 リリアは少しだけ考える。

「結果、ですかね」


 結果。

 その言葉に、私はほんの少しだけ引っかかった。結果は普通、目的の先にあるものだ。そう整理するのが自然だと思っていた。

 だが彼女は、それを逆向きに置いた。そこに意図よりも流れを重く見る感覚がある。


「どういう意味?」

「うーん」

 リリアは少しだけ困った顔をする。

「うまく言えないんですけど」


 そのまま、ゆっくり歩きながら続ける。

 言葉を整えながらではなく、歩く速度に合わせて考えている話し方だった。

 だからこそ、作られていない感じがした。


「仲良くなろうって思ってなることもあると思うんですけど」

「そうね」

「でも、気づいたらそうなってることもありますよね」


 私は答えない。

 否定しにくい。

 今のこの状況そのものが、たぶんそうだからだ。


「エルネア様と私も」

 リリアは言う。

「最初からこうなる予定じゃなかったですよね」


 私は小さく息を吐く。

 予定ではなかった。むしろ避ける側に置いていた。

 それでも今、こうして並んで歩いている。その事実は、もう動かしようがない。


「ええ」

「でも、今こうなってます」


 並んで歩いている。

 会話をしている。

 それを、自然だと感じている。


 確かに。

 予定にはなかった。

 けれど、起きてしまったあとでそれを完全な誤りとも言い切れなかった。


「だから」

 リリアは少しだけ笑う。

「同じじゃなくても、いいのかなって思います」


 その言葉に、私は視線を落とす。

 同じ。

 何度も繰り返されてきたその単語が、今回は少し違う形で響いた。


 同じじゃなくてもいい。

 それは、関係の成立条件そのものを緩める言葉だった。

 理解しきれなくても、価値観が重ならなくても、それでも隣にいられるかもしれないという前提。


「……あなたは」

 私は言う。

「私と同じになりたいの?」


 問いかけてから、自分でも少し意外に思う。

 たぶん私は、ずっとそこを気にしていたのだ。同じか、違うか。理解できるか、できないか。

 その二分のどちらかに置かないと、関係を整理できないと思っていた。


「なりたくないです」


 即答だった。

 迷いもない。

 その速さがむしろ、気持ちよくさえあった。


「どうして」

「だって、エルネア様はエルネア様なので」

 リリアは言う。

「私は私です」


 当たり前のことを言っている。

 でも、その当たり前が妙にしっくりくる。

 同じになることを求めないまま関わる、という考え方は、私の中では意外なほど形を持っていなかった。


「でも」

 彼女は続ける。

「隣にいることはできますよね」


 その言葉に、私は完全に足を止めた。

 隣にいる。

 同じじゃなくても。


 それは、今までの私の中にはなかった考え方だった。

 同じ価値観でなければ理解できない。理解できなければ、関係は成立しない。

 少なくとも、私はずっとそういう前提で人を見てきた。


 でも。

 違うのかもしれない。

 同じであることと、隣にいることは、同じ条件ではないのかもしれなかった。


「……分からないわ」

 私は小さく言う。

「できるかどうか」


 正直な言葉だった。

 分からない、と言えることが増えている。それを危険だと思う気持ちは、まだ消えていない。

 だが同時に、分からないことをそのまま置いておくことにも、少しだけ慣れ始めている自分がいた。


 リリアはそれを聞いて、少しだけ頷く。

 無理に答えを急がせる顔ではなかった。分からないままでも、そのまま隣に置いておけると思っている顔だ。

 その態度が、少しだけ救いのように感じられるのが厄介だった。


「じゃあ」

 彼女は言う。

「試してみましょう」


 試す。

 その言葉に、私は少しだけ笑う。

 随分と軽い。軽いが、だからこそ今の私には刺さる。


「随分と軽いわね」

「軽いです」

「失敗したらどうするの」

「その時考えます」


 あまりにも無責任だ。

 だが、それが少しだけ羨ましいと思った。考えすぎないこと。失敗の可能性を先に数えすぎないこと。

 そういう在り方を、私はずっと自分の外側に置いてきた。


「……本当に」

 私は言う。

「あなたは適当ね」

「よく言われます」

「褒めていないわ」

「知ってます」


 リリアは笑う。

 その笑顔を見て、私はほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 抜いてしまった、という方が正しいのかもしれない。意識して緩めたわけではなく、気づけばそうなっていた。


 気づけば、並木道の終わりまで来ていた。

 自然と足が止まる。

 もう少し歩ける気もしたが、ここで区切るのがいちばん自然だった。


「今日はありがとう」

 リリアが言う。

「話せてよかったです」

「……そう」

「また、歩きましょうね」

「予定が合えば」


 そう返した瞬間、リリアがすぐに反応する。

 その早さが少し可笑しい。

 もうこういうやり取り自体が、私の中でほとんど定着し始めている。


「予定、また言ってる」

「悪い?」

「ちょっとだけ」


 そんなやり取りをして、彼女は手を振って去っていく。

 私はその背中を、少しだけ見送る。長くではない。けれど、完全に無関心なふりをするには少し長い。

 そのくらいの時間だった。


 そして、ゆっくりと自分のケースを開いた。

 黒薔薇。

 ひびは、さらに広がっている。


 だが。

 その形は、以前よりも安定しているように見えた。

 ただ壊れているのではない。複数の線が交差し、支え合うように広がっている。


 まるで。

 一つの道ではなく、いくつもの道が同時に成立しているような。

 分岐しているのに、崩れてはいない。むしろ全体として、前より均衡を保っている。


 私はそのひびを見つめる。

 正しさだけではない。

 同じでなくてもいい。隣にいられる。


 その考えが、少しずつ形になり始めている。

 まだ不安定だ。まだ受け入れきれない。

 でも、完全に否定することも、もうできなかった。


 その事実が、静かに、確かに、そこにあった。


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