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したたり落ちる暗黒の闇。
その中で、彼は懸命に闇を叩き、叫び続けている。
――出して……ここから出して!!
ここから出なければ、早く出なければ恐ろしいものがやってくる。早く――早く。
ふいに、ぴちゃりと何かが彼の足元を濡らした。
辺りは光ひとつないはずなのに、彼にはそれが見えた。
血だ。
血の海がここへ押し寄せてくる。
――逃げないと……早く逃げないと溺れてしまう!
彼は悲鳴をあげ、闇の扉を指先でこじ開けた。
鋼鉄のごとく堅固だった扉は、瞬間、木の扉となって軽く横へ流れた。
真っ白な世界。
そこに紅く映える何かが横たわっている。
――あ……ああぁっ!!
彼は眼を覆った。
血塗られた一人の女。
紅く染まった体に乱れた長い黒髪がまとわり、蒼白な顔は恐いくらいに美しかった。
死んでいるはずの女の眼が開く。
『……ディーン』
蒼ざめた唇が、彼の名を呼んだ。
黒い双眼から溢れ出しているのは、涙が、血か。
『あなたが殺したんだわ!! 』
別の少女の声が、それに重なる。
『返して。わたしの姉さんを返してよぉっ!! 』
彼は固く眼を瞑り、懸命に両手で耳を塞いだ。
それでも、彼には分かっていた。
自分の両手が血に濡れ、深紅に彩られていることを。
血の海が押し寄せる。
そこから抜け出す術を、彼は知らなかった。
*
激しく身じろいで、ディーンは目を覚ました。
――……夢か。
荒い呼吸を鎮めつつ、顎に伝う汗を拭う。
今見た夢に、まだ全身が小刻みに震えていた。
このところ観ていなかったあの紅い悪夢。それが再び甦るとは。
――ソンファとメイリンのことがあったせいか……。
昏い気持ちで彼は思う。
ふと、彼を見慣れぬ女が覗き込んだ。
「ヘイ、大丈夫?」
昨夜からいる此処、リューン市街の娼館[秋菊楼]で買った娼婦だった。
淡い金髪を短く刈った女はリューン人にしては珍しく痩せた小柄な女で、十代にも思えたが、肉体からすると二十歳を過ぎているようだった。
――名前は……パメラ、だったかな。
娼婦は煙草をふかしながら、ベッドに座ってディーンを見下ろした。
「今にも死にそうな顔しちゃってさ。随分うなされてたみたいだけど」
「なにか言ってたか?」
「人の寝言を聞く趣味はないからわかんないわ」
答えて、パメラは煙草を一口吸う。
「……そうね。女の名前を言ってたみたい」
「女?」
「そ。イとかエではじまる名前だったわね」
「――エレン?」
「ああ、そうかもしれないわね。恋人?」
慣れているのか、パメラは気を悪くしたふうもなく訊いた。
ディーンはかすかに首を振り、汗ばむ黒髪をかきあげた。
「いや……死んだ女だ」
「病気?」
「……自殺だ」
パメラが鼻にしわを寄せて、顔を伏せる。
「悪かったわね。変なこと聞いて」
「いいんだ。もう終わったことだ」
言い捨て、ディーンは起き上がると、床に投げ出したままの襯衣を頭から被った。
「もう行くの?」
「長居できるほどの金を持ち合わせてなくてね」
娼婦はかすかに笑った。
「まだ何もしてないわよ?」
「充分してもらったよ」
その答えに、パメラは胡坐をかいたまま紫煙を吐き、服を着る少年を眺める。
「あんたみたいな人、初めてだわ。いきなり一晩寝かせてくれって言って、本当に寝ただけで行っちゃうなんて」
「馴染みでもないのに悪かったかな」
「いいのよ。お金はもらったんだし、気にしないで」
言って、乾いた咳をたてた。
ディーンは大刀を腰に提げると、彼女の隣に座った。
「胸を病んでいるのか?」
「だいぶ前からよ。もう慣れちゃった」
自嘲するようにパメラは笑みを浮かべ、眼を伏せた。瞳の色が透けそうな薄い瞼の先で、淡い睫毛が震えている。
ディーンはこけた彼女の頬を、指の背でそっと撫でた。
「世話になったな」
「あんた、いい男よ。この体がもっということきけば、寝てても襲ったのに」
「ありがとう、パメラ」
「……パムよ。友達はみんなそう呼ぶの」
照れた少女の顔で、パメラはそう言った。ふくらみのないその唇に、ディーンは軽く唇を触れる。
「ありがとう、パム。この恩は忘れない」
「……病気がうつるわ」
「うつせば、きっとよくなるよ」
その言葉が気休めに過ぎないことは、お互いに分かっていた。
ディーンは黙って彼女から離れると、寝台を降りた。戸口のところで振り返る。
「パム。煙草は控えろよ。身体を大事に、な」
パメラの幼な顔が、くしゃっと歪んだ。
「最後の最後までやさしいままなのね……恨むわ。忘れられなくなりそう」
「じゃあな」
ディーンは、女の眼差しを断ち切るように扉を閉め、[秋菊楼]を後にした。
昼を過ぎ、早くも傾いた陽射しが、夏の気配を残した白い光の雨となって、石造りの街をうち叩いている。
だが熱さは感じず、どこか虚ろな偽物の光に思えた。
「やさしい、か……」
ディーンは苦い思いで、パメラの言葉を繰り返した。
自分がやさしいなど、これまで考えてみたこともなかった。
やさしく見えたとすれば、それはまやかしに過ぎないと彼は思う。
――贖罪だ。
ディーンは痛みをこらえるように、わずかに眼を細めた。
長い黒髪を乱して横たわる、血塗られた緋色の女。
自分に関わった者は、今までことごとく不幸に見舞われてきた。
今度もまた――。
ディーンは、澄んだ青天から世の中を見下ろす、白熱した光球を仰いだ。
『己に克て』
いつか、太陽と共に現われた人が言った。敵はおのれの心の中にあると。
――強くなりたい。もう誰も、涙を流さないで済むように。
深い紫の双眸を閉じ、彼は真っ白な光を全身に受けた。
ゆっくりと、なにかが熱い力となって身の裡を満たしていく。
――戦おう……この身が滅びるまで。
再び開けた瞳に、迷いの色はなかった。
ディーンは靭い眼差しで街を見据え、足を踏み出した。
*
妖術師の足取りを追っていた九曜は、夕方疲れきって宿への帰り路を歩いていた。
自慢の毛並みもどことなく埃っぽい。九曜は、普通の猫らしく建物から建物と、壁伝いを渡りながら、小さくぼやいた。
《……もう、やんなっちゃう》
一昨日の事件のせいで、街はリューン警察と中央捜査局の捜査員が入り乱れており、探索どころではなかった。少しでも怪しい者がいたら尋問するという具合なのだから、人々も警戒して必要以上に出歩いていない。犯人ともなればなおさらである。
妖魔の九曜にとってもうひとつ問題なのは、帝都の正規軍から法術師団の要員が出動していることだ。
――あんなのに捕まったら大変だよ。
大抵の能力者には勝てるつもりの九曜だが、法術師というのは神の名のもとに能力を行使する者たちで、厄介なことに、さほど強くない者でも魔封じの術などを使ったりして、油断も隙もないのだ。
とまあこれは妖魔の立場からの見解であって、能力をもたない人間たちにとっては、怪しげな魔性の関与が噂される今度の事件で、法術師が出張っていることは心強いに違いない。
《それだけ帝都も重く見てるってことだろうけど……》
呟いて九曜は、目指す木造の建物の窓辺に飛び移った。
――ここも引き払わなきゃまずいよなあ。
この[火蜥蜴亭]の亭主は口は悪いが気のいい親父で、仔猫の九曜を嫌がらなかったばかりか、食事には山羊のミルクをサービスしてくれたりと、人間嫌いの彼には珍しく憎からず思っていたのだ。
だが、東国曲技団が事件を通報した以上、捜査の手はここにも伸びるだろう。その前に早く宿を移るか、街を出るかしなければならない。
しかし肝心の相談をする相手は、昨朝から姿を消していた。
《まったくディーンったら……》
ぶつぶつ言いつつ、細く開けてある窓から部屋に入った九曜は、目の前に見覚えのある背中を見つけた。
「……なにやってるの? ディーン」
板張りの床に座り込み、胡坐をかいて書きものをしていた少年が顔を上げる。
「おう、お帰り」
「ただいま。いつ戻ったの?」
「昼すぎ。……あ、宿の亭主に話つけておいたぞ」
ディーンがにやりと悪戯っぽい笑顔を作る。
「今日から俺たちはここにはいないってことになってる。事件が解決するまでな」
「え、いいの?」
「事情を話したら、黙っておいてくれるとさ。その代わり昼間の外出は禁止。下手に魔力は使うなよ」
「分かった」
頷いて、九曜は猫の顔に笑みを漂わせた。
「なんだよ」
「へへ。やっぱりレイたちを助ける気なんだ」
「うるせぇ。……ははーん。ひょっとしておまえ、俺が尻尾を巻いて逃げるとでも思ってたのか?」
ディーンがおどけて、持っていた筆をちっちっと左右に振る。
「読みが甘いぜ。この程度で引き下がる俺じゃねえっての。負けられるかってんだ、畜生」
乱暴な気合いの入れ方に微笑を苦くし、九曜は少年の手元を覗いた。
「なに書いてたの?」
「ああ。一昨日の事件について覚えてることを順番を追って書き出してみたんだ」
何度か書き直したのか、×印の一番少ない一枚を九曜に見せる。
「足りないことがあったら言えよ。書き込むから」
「そうだね。攫われた直後、近くで空間移動した気配があったけど……」
二人が話していると、外套姿のギガースが戻ってきた。
「お帰り」
「よお、遅かったな」
ギガースは丸一日ぶりに見る少年の姿にやや目を見開き、外套を脱いで、背負っていた魔剣・荒炎を壁に立てかけた。
「捜査員に尋問されそうになったので捲いてきた」
「大丈夫か?」
「ああ。なるべく人目は避けたかったが、思った以上に人員が出ていた」
「まあ、あんたに目立つなっていうのは無理な話だが、極力外出は避けたほうがいい。……あ、ここの亭主が部屋使っていいってさ」
「本当か。それは助かる」
心から安堵したように言い、ギガースは床に座る二人の傍にやって来る。
「どうやら手がかりはなしだ」
「こっちもだよ」
九曜が言った。
その隣で足を崩して座ったギガースは、ディーンの前に広げられたものを見て、
「これは?」
「ああ、おまえも手伝ってくれ。事件を整理してるんだ」
統一文字で細かく書きこまれた用紙に、ギガースがさも意外といった顔になる。
「よく書いたな。おまえがこんな地道な作業をするとは思わなかったぞ」
「だよね」
九曜が同意した。ディーンの頬がひきつる。
「おまえら、俺のこと何か誤解してないか?」
「してないって」
九曜は晴れやかな笑顔で否定した。妖魔が嘘をつかないことは事実とはいえ、性格のひねくれ度合いは人間の比ではない。少年は納得しかねる顔ながら、筆を握り、書き込みを続けた。
その背中越しに、ギガースが物言いたげな視線を仔猫に向ける。どちらともなく笑みがこぼれた。
事件後誰よりも自分を責めていたディーンは、昨日の朝、東国曲技団に行くと言って出て行ったきり戻ってこなかった。
レイやメイリンの行方も心配だが、二人の不安は、彼が自棄を起こしたのではないかということだった。
陽気で人懐こいが、必要以上に他人に干渉しない彼の生き方において、唯一の例外といえる少女が目の前で攫われてしまったのだ。その衝撃は想像して余りある。
万が一の事態まで想定していた二人にとって、ディーンが戻ってきたという事実は嬉しく、また安心できるものだった。
同時に、自分の中での彼の存在の大きさに気付かされる。
――いつの間に……こんなに心を許していたんだろう。
九曜は思う。それはギガースにとっても同様であった。
そんな二人の思惑も知らず、ディーンは筆の柄尻を噛みつつ、真剣に用紙に向かっている。
どことなく表情の緩む二人に気付いて、少年が濃い眉をしかめた。
「おまえら、本当に変だぞ。悪いものでも食ったんじゃねーか?」
「そんなわけないでしょ。ディーンじゃあるまいし」
言い返す仔猫は、だがやはり上機嫌だ。気味が悪そうな顔になるディーンの手から、ごまかすようにギガースが用紙を奪った。
「触るなよ。まだ乾いてないから」
「これは……シュワルゼの屋敷周辺の地図か?」
「ああ」
ディーンは足を組み直して座りをよくすると、筆の柄で図を指しつつ説明をした。
「これが屋敷で、こっちが中央通り。ここが公園――曲技団の天幕がある場所だ。俺たちは一昨日の夜こう通って屋敷に行って、戻ってここで襲われた、と」
旅慣れているせいか、ディーンの地理感覚は確かなものだ。
「よくここまで正確に描けたな」
「さっき見てきた」
「見てきた? 捜査員がうろうろしていて、あの辺りは一般の立ち入りができなくなっていたはずだぞ」
驚くギガースに、ディーンは得意げな笑みを浮かべる。
「ちょろいもんだって、あんなの」
「――誰を攫ったの?」
横合いから、冷ややかに九曜が訊いた。
「攫ったなんて人聞きの悪い。しばらくの間、服を借りただけだ」
「服と名前でしょ。ばれなかっただろうね?」
「そんなヘマしねえよ」
自信満々でディーンが言った、そのとき。
階下から扉を蹴破る荒々しい物音が聞こえ、複数の重い足音が狭い建物を揺らした。店の亭主の怒鳴り声が響く。
「なんだ、てめえら!」
「中央捜査局だ。誘拐犯人隠匿の疑いがあるので、調べさせてもらう」
「ノックもなく人の家へいきなり押しかけて、それでも役人かい?! 顔を洗って出直しな!」
宿のある二階に押し入ろうとする捜査員に、[火蜥蜴亭]の亭主はしわがれ声で啖呵を切った。
天眼で階下を視たギガースが、言下に断じる。
「相手は五人。どうやら武装しているようだ」
「外にはもっといるみたいだけど?」
優れた能力をもつ二人から非難の眼差しを浴び、ディーンは気まずげに、ぽりぽり、と頬をかいた。
「あー……ばれたみたい、だな?」
「馬鹿」
心配したことを心底後悔して、九曜が言い捨てる。
亭主を押し退けた捜査員たちが、階段を駆け上がった。鍵のかかった部屋の扉をこじあける。窓の外にも兵士が待機しており、猫の子一匹洩らすものではない。
だが、その部屋には誰一人いなかった。