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「よく来てくださいました。こちらへどうぞ」
黄檗色の着物を着た女性が、ディーンたちを天幕の中へ招き入れた。そこは、昨夜ディーンが覗いた練習場とは別の団員たちの休憩所だった。
鏡の前の椅子に腰掛けて髪を結ってもらっていた少女が、入ってきた人に気づいて立ち上がる。結いかけた長い黒髪が、ひらひらと彼女を追った。
「ディーン!」
『こんばんは、メイリン』
メイリンと呼ばれた少女は、背の高い少年に飛びつくようにして出迎えた。はずみで、赤く塗られた唇が彼の頬をかすめる。
『よかった。来てくれたのね』
『もちろんさ。――はい、これ』
『まあ、お花。いい香りね。待って、今姉さまを呼んでくるわ』
メイリンが花束を抱えて天幕の奥へ去る。
聞き慣れない極東公語でかわされた会話に入り込めなかった三人は、意味深長な視線を少年に浴びせた。
「随分と親しげだな」
棘をふんだんにまぶした口調でレイが言う。
ディーンは魔力の使える少年へ目顔で助けを求めたが、九曜は一言、
「口紅、ついてるよ」
と言ったきり、高みの見物を決め込んだ。
慌ててディーンが、袖で頬の口紅を落とそうとする。傍からレイが、手巾で手荒くそれを拭った。
そこへ、紫の着物をまとった女性がメイリンに連れられて現われた。
『ディーン殿、よく来てくださいました。感謝します』
深々と膝を折り、彼の手を取る。
『いや。困っている女性を助けるのは当然のことだ』
柄にもない台詞を聞き、一人言葉を解する九曜が思わず吹き出した。
紫の服の女性が気付いて、改めてディーンの後ろの少年たちに眼差しを移す。
『その方たちは?』
「ああ、念のために助っ人を呼んだんだ」
統一言語で答え、ディーンはレイたちを紹介した。
どう見ても子供の九曜と、日位の剣士とはいえ女顔負けの美貌のレイには戸惑いの色を浮かべた彼女らも、ギガースの巨体には惜しみなく期待と安堵の笑顔を向ける。
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします。わたくしは座長のウー・ソンファ。これは妹のメイリンです」
先程見せたお転婆な態度とは打って変わり、メイリンがしとやかに頭を下げた。
レイも会釈を返して、
「それで、出るのはいつ頃だ?」
「もうじきかと。いましばらく支度に時間がかかりますので、お待ちください」
ソンファは丁寧に腰を曲げて挨拶し、奥へと下がる。
化粧着の下にすでに桃色の舞台衣装を身につけていたメイリンは、髪を結うために再び椅子に戻った。結い方をつとめる女性にもらった花束を渡して、
『ねえ、この花とてもいい香りだわ。髪に飾ってもらえる?』
『いいわよ』
中年の女性は櫛を片手に、慣れた手つきでメイリンの黒髪をとかし分けて、持ち上げ束ね、編みこんでいく。
近くの座椅子に座ってギガースと話をしていたレイは、その見事な手つきに、思わず目を留めた。
ギガースが、かすかに頬をほころばせる。こうしたところは、さすがに若い女性だと思ったのだろう。
ディーンは、手土産と借りていた肩掛けを近くの女性団員に渡し、九曜と一緒に曲技団の練習を見に行っていた。
やがて腰を過ぎるほどのメイリンの黒髪が、頭の両脇に丸く結い上げられた。髪の束の付け根へ白い月下香をぐるりと差す。
眩暈がするほどの芳香が、レイたちの元まで届いた。
『花が余ったわ。コサージュにする?』
『いい香りだけど、服につけるにはちょっとしつこいわね』
『勿体ないわね」
メイリンは寸分なく化粧した顔を傾げ、鏡の向こうに座る年若い剣士を見た。化粧着を着たまま振り返り、手招きをする。
「あなた……レイさんっておっしゃったわね。ちょっといらして下さいな」
「なにか?」
怪訝そうにやってきたレイの腕をとり、メイリンは有無を言わさず自分のいた席に座らせた。
「せっかくこんな綺麗な髪をしていらっしゃるのに、もったいないわ。見てらっしゃい、わたしが美しくして差し上げるから」
「あ……いや、私は」
女だとばれたかと狼狽するレイを、メイリンの茶色の瞳が覗き込む。
「お嫌? リューンの男の方は、身だしなみを気にすると聞いたんだけど」
「あ……ああ」
「じゃあ、いいのね」
メイリンは微笑み、レイの銀髪を束ねる紐を解いた。
帝都貴族という身分もあり外見にはいつも気を配っていたが、店の人混みで乱れたのだろう。細いやわらかな髪をメイリンは丁寧にとかした。
先程の中年女性と比べて格段に落ちる腕前だが、女性ということを隠すため、ほとんど侍女に身の回りの世話を任せることのないレイにとって、誰かに髪を梳いてもらうのは実に数年ぶりのことだった。
ふと、何も知らなかった頃のあたたかな情景が脳裏をよぎる。
「――ねえ」
メイリンの声に、レイは現実に引き戻された。
「この玉の首飾りはあなたのもの?」
メイリンは鏡越しに、レイの首元に掛けられた数個の貴石を連ねた首環を覗き込んだ。
「ああ、人からもらったものだ」
「それはよかったわね。わたしたちの国では、八色の玉は邪気を祓うと言われているの。大切にするといいわ」
その言葉にレイは軽い驚きを受けて、首環に手を触れた。
革紐から白金の鎖に変わっているが、これは以前、身につけていた護り石が壊れた時に代わりとしてディーンから貰ったものだった。
「はい、できたわよ」
メイリンの声がかかり、レイは顔を上げた。
くら、と月下香が間近で薫る。
綺麗に束ね直された銀髪に、一輪が飾られているのだ。
メイリンが手鏡を渡して後ろを見せる。
「どう? よく似合うわ。あなた、本当に綺麗」
心からの感嘆に、レイの表情がわずかに曇る。メイリンは言い訳するように、慌てて語を継いだ。
「誤解しないで。わたしたちカルディアロス人は、美しいことは最大の美徳だと思っているの。男性でも女性でも」
「――ありがとう」
レイはようやく微笑んだ。その中性的な笑顔に思わず見惚れたメイリンは、持ち前の茶目っ気を発揮して、レイに耳打ちする。
「ね、お化粧もやってみない?」
「え……」
レイが慌てる。見ていたギガースが、ぷっと吹き出した。
幸いその目論見はソンファたちの登場によって阻止されたが、レイの緊張とギガースの忍び笑いはなかなかおさまらなかった。
一行が曲技団の本陣を出たのは、日もとっぷりと暮れた宵の刻だった。
ソンファとメイリン姉妹の他に荷物持ちの若者ティアンを加え、彼らは人通りの減った街を歩いた。
道中、灯り持ちの脇侍といった風情のディーンに、九曜が小声で話しかける。
「ねえ、レイの髪気がついた?」
「ああ」
「なんとか言ってあげたら?」
「あの乱暴者に何を言うんだよ」
「綺麗だね、とか言って褒めるんだよ。喜ぶから」
「馬鹿馬鹿しい。そんなこと言ったら口がひん曲がるぜ」
投げやりに答えるディーンにこれ以上押すこともできず、九曜は口を閉ざした。
ウー姉妹を招いたシュワルゼの屋敷は、オファリス郊外に位置する。郊外といっても田畑があるわけではなく、街中の喧騒から少し離れたというだけの背の高い石造りの建物が立ち並ぶ通りの一画であった。
それでも街灯の並びも寂しげで、建物から漏れる明かりがなければ、一つ先の角の向こうが見えぬ暗さである。
その中で広い外庭に篝火を置いたシュワルゼ邸は、皓々と白く夜景を圧して浮かび上がった。背の高い煉瓦と鉄柵でできた塀がぐるりと巡り、兵のように武装した門番が迎える様はリューン貴族の威厳そのものだ。
「子供とそこと……そこの男。それ以外の方は中へどうぞ」
長い槍を持った門番が、九曜とティアン、ギガースを指差して傲然と告げる。
レイは表情を険しくした。ディーンが事を荒立てるなと眼で制す。
だが勝気なメイリンが、ひとり門番に食ってかかった。
「彼らはわたしたちの護衛です。共に通さねば参りません!」
「こんなガキが護衛だと? 本来ならおまえたち以外は通さんのだ。それともこの二人もここでお待ち願おうか?」
明らかに小馬鹿にした態度で、門番は一蹴する。
怒りに体を震わせる妹の手を取り、ソンファが中へ促した。
ぷう、と頬を膨らます九曜にとりなし顔を向け、ティアンの荷物を持ったディーンとレイがその後に続く。
鋭い鉤のついた鉄扉の向こう側に閉め出され、九曜は拳を握りしめて抗議した。
「なんで入れないのさ!」
「仕方ありません。よくあることです」
ティアンがすまなそうに言った。
「われわれは所詮よそから来た流れ者ですから、甘くみられてしまうのです」
「気にするな、九曜。外の見張りだと思えば腹も立たん」
差別的な扱いに慣れている原罪者の男が、穏やかになぐさめる。九曜は、ふくれっ面のまま道端にしゃがみこんで、さも口惜しげに呟いた。
「僕、そんなに大人じゃないもん。メイリンたちの芸が見たかったのに……」
長年生きてきた妖魔とは思えぬ台詞に、ギガースは一瞬絶句し、塀にもたれて笑い出した。九曜のほっぺたが、ますますふくれる。
ティアンとギガースが九曜をなだめている頃、邸内に入ったディーンたちは、広間へと通されていた。壮麗な吊り下げ式の装飾燭台がまばゆく照らす広間では、バルコニーに通じる大きな窓の前に簡単な舞台が用意されていた。その前に白い円卓が五つ並び、着飾ったリューンの紳士や貴婦人たちが賑やかに食事を囲んでいる。
白髪の背の高い紳士が立ち上がり、こちらへやってきた。突き出た腹を強調するように反り返り、
「ようこそ、東国の貴婦人方。わたしがシュワルゼです」
左胸に手を当て、軽く会釈する。
「わざわざお越し頂き、ありがとうございます。噂に高い異国の妙技を皆楽しみにしているのですよ。どうです、飲み物でもお持ちしましょうか?」
「お招きありがとう存じます。せっかく皆様にお集まり頂いたのですから、いつまでもお待たせするわけには参りません。よろしければ、すぐにでも始めさせて頂きたいのですか」
「どうぞ、こちらへ」
シュワルゼはソンファの手を取り、姉妹を舞台に案内した。ディーンとレイは言われたとおりに荷物を下ろし、壁際に下がって二人の出番を待つ。
運んできた派手な色の箱を中央に置いて、まずメイリンの芸がはじまった。
ソンファが箱から取り出した玉を矢継ぎ早に妹に投げつける。メイリンは姉を見もせずに、次々に玉を受け取っては空中へ投じた。
白い手が十個の玉を自在に操り、ひとつを天上高く放り投げる間に、メイリンの小柄な体がくるくると回ってそれを片手にとらえた。拍手が起こる。
次に短剣を手に取ったメイリンは、客席からポモナの実をひとつもらうと、宙へ投げて一刀両断に切った。短剣の切れ味を充分に見せつけ、さらに四本の短剣を加えて、先程の玉と同様に操る。そこへソンファが続けざまに三本の短剣を投げ入れ、姉妹の間で短剣の投げ渡しがはじまった。客席から、どよめきと歓声がさざめく。
メイリンは短剣を両手に集めると、あざやかな微笑と共に姉と舞台を交代した。
うって変わって、水色の長い飾り衣をつけたソンファが羽扇をひるがえす。高く澄んだ声が、異国の詩を嫋々と唄った。
「――悲恋歌だ。男が故郷に置き去りにした女を想って唄う歌だよ」
レイの耳元でディーンが教える。
だが、たとえ言葉の一句一言が解らずとも、その切々たる哀傷は人々の心をかきたてるに十二分だった。異国の歌だけが響く静寂の中で、ソンファの声にメイリンの奏でる笛の音が重なる。
それは、いつかディーンが砂漠で吹いた笛の音と似ていた。
あくまでも静かな舞は、その眼差しと指先と所作に次第に激しい情念を帯びていく。月に届くほどの笛の高音と共に、それは見事な天頂をむかえて終幕へとなだれこんだ。
ひとすじの歌声が、細い糸のように静寂の中に溶け込んで消える。
瞬間、はじけるような喝采が広間を包んだ。観客は皆立ち上がって拍手し、感動の声があちらこちらから上がる。
「イーオ! 素晴らしい!」
一人の紳士が声高に叫ぶ。
異国の姉妹は中央に並んで立つと、しとやかに膝を折って挨拶した。
観客もけして多くはなく時間もわずかであったが、熱い賛美の声が、彼女たちの芸を物珍しさを売りにしているだけでないと認めていた。
シュワルゼからも抱擁を受けた姉妹は、惜しまれつつ舞台を後にする。荷物を抱え、ディーンとレイがそれに続いた。
広間の外までエスコートしたシュワルゼが、興奮に首まで赤く染めて言った。
「今晩は大変素晴らしい芸をみせて頂きました。これから食事でも……?」
「ありがたいお言葉ですが、明日の公演の用意がございますので、そろそろ失礼させて頂きます」
「まことに残念だ。では……些少だがこれを」
「ありがたく頂戴いたします」
ソンファは頭を下げ、シュワルゼから金貨の入った袋を受け取る。その手をぐっと彼の剛い手が包んだ。
「芸も素晴らしいが、それにもまして美しい御人だ。今度は是非個人的に来てもらいたいものだが……」
言葉の意図に気付き、ソンファの顔が強ばった。シュワルゼは出入国管理官。迂闊にこれをはねつければ、収穫祭での営業はおろか今後リューンに立ち入ることすらできなくなる。
その時、大きな箱を肩に担いだ少年が、
「……おや、蜂かな?」
呟いて、彼の腕をしたたかに打った。
「痛っ!」
思わずソンファの手を放したシュワルゼは、痺れた右腕を抱えて怒鳴った。
「こんな夜中に蜂がいるわけないだろう!」
「失礼。美しい花の香りに惹かれて、よく不粋な蜂がやってくるものですから。あんな小さな虫でも刺されると厄介ですからね」
その台詞は、女たちの花飾りに群がる蜂を見間違えたともとれぬことはない。
だが、黒髪の間から覗く不可思議な色の双眸が、痛烈な警告と共にそれを否定した。
これ以上近寄るな――と。
シュワルゼは忌々しげに少年を睨み、
「……し、失礼。お客様を待たせておりますので」
口早に言うと、そそくさとその場を立ち去る。
「ほぉ。さすがに引き際は心得てるみたいだな」
妙な感心するディーンに、レイが苦く笑った。
「気の利かぬやつでは役人は勤まらんということだ。だが……それにしても、おまえももう少し説得の仕様があっただろうに」
「女性の弱味につけこむやつに甘い顔はしないの、俺は」
ディーンは平然と言ってのける。その彼へ姉妹がほっとした笑顔を向けた
「ありがとう、ディーン。姉さまを助けてくれて」
「本当に助かりました。ご迷惑にならなければいいのですが」
「気にするな。護衛のうちだよ」
「ありがとうございます。いつもならメイリンが追い払ってくれるのですが……」
姉の発言に、勝気なメイリンが赤くなった。
「やぁだ、姉さま。それじゃまるでわたしが豪傑みたいじゃないの!」
「構わぬではないか」
恥ずかしがるメイリンに、自身も剣士でもあるレイが味方する。
「強い女は、わたしは好きだぞ」
ディーンは咄嗟に物言いたげな顔を荷物の陰に隠したが、メイリンは、はにかみつつもさも嬉しげな顔となった。先程とは違う理由で、ほんのりと頬が桃色に染まる。
「ありがとう、レイ」
思わずディーンは荷物の陰に隠れたまま、小声でレイに忠告した。
「あんまりやさしくするなよ。あとで現実を知って泣くのは彼女だからな」
「なぜだ? 親しくなったところで何の問題もないだろう?」
「そういう意味じゃなくてなー……」
変なところで世間知らずなレイに、ディーンは頭を抱えた。レイは怪訝そうに彼を見やり、
「おまえ、妬いているのか?」
「ば、馬鹿言ってんじゃねぇよ」
「そうなんだな? メイリンがおまえではなく、わたしに好意を持っているのが気に入らないんだろう。まったくおまえは女とみたら見境のない……」
少々誤解のある見解に、反論する気力のないディーンが力なく頷く。
「まあ……そういうことにしておいてくれ」
ひそひそと話し合う二人の様子に不安を覚えたのか、ソンファが声をかける。
「なにか……?」
「いや、なんでもない。それより早く出よう。門の外で、九曜がふてくされて待ってるだろうからな」
ディーンの言葉どおり、ギガースとティアンのなぐさめの甲斐もなくふくれ面のまま塀の外でしゃがみこんでいた少年は、屋敷から現われた四人を飛びあがって出迎えた。
「やっと出てきたあっ!」
「見張り役、御苦労」
ねぎらうディーンに、九曜がまだ不機嫌の残る顔で口を尖らせる。
「なーにが、御苦労だよ。二時間も外で待たせといて!」
「文句言うなよ。明日フリット付きで曲技団の公演に連れて行ってやるから」
九曜の目が輝いた。
「ほんと?」
「うん。護衛の報酬に、最前列を席を四人分押さえてもらったんだ」
「やった! フリット付きだね? ついでにエール水とトルテもつけてよ」
「馬鹿、つけあがんな」
ディーンは空いている左手で、少年の額を軽くはじいた。
曲技団の入場券と一個十オンで売られるオファリス名物の魚のから揚げで機嫌を直した妖魔を、不思議そうにギガースが見ている。
ティアンは無邪気な子供だといったように笑い、灯りと引き替えにディーンから荷物を受け取った。
九曜とレイが先頭に立ち、姉妹の後ろにティアン、ディーンとギガースがしんがりにつく。
「なんだか、こんな大勢で護衛することなかったね」
「でも大勢のほうが心強いもの」
九曜の声に、メイリンが笑顔で答える。
「だけど、あなた本当に強いの? だってまだあたしの半分の年くらいじゃない」
「人を見かけで判断しちゃいけないよ。僕に敵うやつなんていないんだから」
「そお? わたしも短剣の達人よ。今度勝負してみる?」
九曜が一都市を三日で半壊するほどの妖魔とは知らないメイリンは、大人びた態度の少年を楽しそうにあしらう。度胸のいい東国の少女はふいに首元に手を当て、足を止めた。
「……やだ。耳飾りを片方落としちゃったみたい」
「いつだろう? 帰り道で何かが落ちる物音は聞こえなかったけど」
五感の優れた九曜が断言する。メイリンは困り顔で左耳を探り、
「じゃあ、あの屋敷の中かもしれないわ。曲芸をしたときに落ちたのね」
「どうかしたの、メイリン?」
姉が気付いて話しかけた。
「お屋敷で耳飾りを落としちゃったみたい。お祖父さまが下さった真珠のもの」
「まあ、あんな大切なものを! あなたって本当にうっかり屋ね」
ソンファが呆れたような声を上げた時、後ろからどこかで聞いた男の声がした。
「ウーさん、お忘れ物ですよ!」
「――シュワルゼの屋敷の門番のようだな」
星明かりのほとんど届かぬ闇を見据え、天眼をもつギガースが言った。
メイリンがぱっと笑顔になり、
「待って、今取りに行くわ!」
駆け足で来た道を引き返す。すかさず、レイがその後を追った。
「この距離だ。レイだけでも大丈夫だろう」
「ああ」
ギガースの言葉に、ディーンは浮かない顔で頷いた。なんとなく釈然としない。
――屋敷ではまだ宴会が続いているはず。あの中で、なぜ耳飾りが彼女のものだと分かったんだ……?
ふと、傍らのギガースが激しく身動いだ。
「様子が変だ。なにか争っているような……」
「くそっ」
駆け出しかけたディーンの脇を、小さい影がすり抜ける。
「僕が行く!」
言って九曜が、少年とは思えぬ速さで走り去った。闇夜のこと、途中形態変化してもメイリンたちには怪しまれまい。
レイたちのほうは九曜に任せたディーンとギガースは、おのおの剣に手をかけ、辺りに目を配った。緊迫した事態を察し、ソンファとティアンが蒼ざめる。――と。
「来たぞ!」
ギガースが鋭く言い、背中の大剣を抜き払った。漆黒の魔剣・荒炎が、深紅の輝きを放つ。
その光に圧され、それらはわずかに呻き声を立てた。
「なんなんですか、あれはっ!」
ティアンが悲鳴を上げる。
闇間からにじり寄る、いくつもの虚ろな影、影、影――。
「少なくともこの世の者ではない」
顔上に厳しい色を湛え、ギガースが答える。
手に持った灯りに照らし出されたそれらの姿に、ソンファは声もなく蒼白となった。
幾人とも知れぬ黒い服の女たちが、ひたひたとこちらに押し寄せてくる。
その肌は土気色でひびわれ、表情のない中、異様に光る両眼だけがある意志を宿していた――殺意。
ディーンは舌打ちをして、大刀を構えた。
「厄介なやつらだぜ……」
呟き、刀身へ気を注ぎ込む。魔を祓う神呪の輝きが、刃に紋様となって浮かび上がる。
「きいいいいぃっ」
奇怪な声をあげ、一人の女が跳びかかった。
大刀が横へ薙ぐ。軌跡に沿って、青白い気が疾った。
「――!」
女は常人とは思えぬ跳躍を見せて、ディーンの頭上を軽々と越える。
妙に皺の多い手がソンファに伸びた。
「いやああぁっ!」
ソンファが顔を覆う。ごとり、と音がして、何かが足元に落ちた。
「!!」
ソンファは咄嗟に悲鳴を殺した。
それは、蜥蜴の尻尾さながら、断たれてもひくひくと動きの止まぬ女の右手であった。
女の腕を肘から斬り捨てたディーンは、返す刀でその胴を薙ぎ払い、首を斬り落とした。粘々としたどす黒いものが、どろりと地面に流れ出す。
ティアンが、恐怖の余り震えが止まらぬ様子でうわずった声をあげた。
「何もここまでする必要は――」
今までの人懐こさを払拭させた少年が、荒々しく遮る。
「あるんだよ。こいつらは……」
地面に転がった女の首を掴み上げれば、それは胴体と切り離されてなお、けたけたと笑っていた。
「人間じゃない。〝屍人形〟だ」
屍人形――それは、私欲のために能力を行使する魔術師をして邪法と言わしめる闇の呪術だ。死体を掘り返し、三日三晩かけて呪文を唱え、かりそめの魂を入れて傀儡とする。
元が死体なのだから、けして死なず、裏切ることのない下僕の完成だ。しかも彼らが殺した人間もまた、同じ屍人形になるという。
その使い方を間違えて、術師もろとも村または町単位で滅んだという噂話は、ひとつやふたつどころではない。
不気味に笑う女の首を、死の右手が握り潰す。
鈍い音と共に、腐った脳漿が辺りに飛び散った。
「この人たち全部が……死んでいるというの……?」
信じられないといったソンファの呟きに、ディーンは薄く笑った。
「その通り。屍人形を使うとは考えたもんだぜ。こいつらに殺された者は同じく屍人形になり、しかも日の光に当たれば灰になる――跡が残らないはずだ」
なかば自嘲するように吐き捨てる。そうしている間にも、切り刻まれた屍人形の女の体が灰色の塵となって消えていった。
だが、残された敵の数はあまりにも多かった。
――畜生……。
屍人形は、妖魔や妖魅のような魔界の生き物ではない。屍――すなわち、すでに死んでいる人間だ。
気の剣法を遣う彼の技では、その体を傷つけることはできても、完全に倒すことは難しい。先程のようにばらばらにしなければ、屍人形の歪んだ生を断つことは不可能だ。
「仕方ねえな」
独りごち、ディーンは荒炎で屍人形を屠る巨漢に声をかけた。
「ギガース、まとめて殺っちまおうぜ。俺が援護する」
「分かった」
ギガースはマントをひるがえし、ソンファたちの前に降り立った。
交代にディーンは屍人形の群れの中へと入って、縦横無尽に飛び回りつつ、彼らを一箇所にまとめていく。
漆黒の魔剣を正面に構え、ギガースは両眼を閉じた。気が高まる。
全身に描かれた刺青が仄かに光りはじめ、眉間の紋がひときわ白い炎となって輝く。瞬間。
漆黒の刀身に光る何かがまとわったかと思うと、闇夜を焦がすほどの紅蓮の炎が渦を巻いて屍人形らに襲いかかった。
言語にならぬ断末魔が一帯を満たす。
屍人形の群れを駆け抜けた炎の竜が、見る間に不自然な生命を焼き尽くした。
再びソンファたちが顔を上げたときにはもう、すべては消え、地面には名残を示す灰すら残されていなかった。
「さすが妖魔狩人。ご立派」
後方で逃げる屍人形を抑えていた少年が、陽気に褒めた。
「あっちはどうだ?」
「九曜もいることだ。問題はないと思うが……」
言い差して、ギガースは闇の彼方を見つめた。
その視線の先では、すでに屍人形となっていた門番をきっかけ、に同じように屍人形の群れに襲われたレイとメイリンが、神剣・輝破矢と獅子となった九曜の助けを借りて、窮地を脱しようとしていた。
聖なる輝きと極冷の魔力に、屍人形たちは腐臭を撒き散らして倒れていく。
ふいに、どこからか深く響く笛の音が聞こえた。
途端、果てなく襲いかかり続けてきた屍人形たちが突如動きを止め、向きを変えてぞろぞろと後退をはじめる。
「なに……?」
はっとしたレイは、道を囲む建物の上で、屍人形の群れを見下ろす小さな人影を認めた。
「貴様が首謀者か!」
怒鳴ると、レイは一気に跳躍してそれを追った。気付いて、九曜が制止する。
《レイ、だめだ。深追いは危険だ!》
叫んだ、そのとき。
笛の音が低く変化した。刹那。
目の前の石畳が割れ、そこから現われた巨大な蔓が、九曜とメイリンの足にしゅるりと絡みついた。
「きゃあああっ」
メイリンの悲鳴に、身を翻してレイが戻る。レイは自在に動き回る太い触手を斬り払い、少女の腕を掴んだ。
次の瞬間。背後から伸びた別の蔓が二人の胴を巻き絞めたかと思うと、そのまま地面の中へと引きずり込んだ。
《レイ、メイリンッ!》
九曜が蔦の檻を食い破ったときはすでに、大地はわずかなうねりを残して元に戻っていた――二人の少女を呑み込んだまま。
甘い花の香りが、取り残されたようにその場に漂う。
一足遅れて駆けつけたディーンは、石畳の上にぽつんと置き去りにされた白いものに気がついた。
「……」
彼の手が、無言でそれを拾い上げる。
漆黒の闇に、芳香と共に浮かびあがる一輪の月下香。
持ち主を失った花飾りは、寂しげに、かすかに震えているように彼には見えた。