第6章ー5
銃を作るのも一騒動になった。
最初は、たたら製鉄等で作られたいわゆる和鉄で、火縄銃を試作、習作することから始める羽目になった。
(何しろ、本格的な鉄砲、銃は皇軍によってもたらされたものになるが。
皇軍のもたらした99式短小銃や38式歩兵銃が、幾ら手作業で作られる銃と一般的にいわれるとはいえども、銃というものを見たことが無いとさえいえる16世紀の日本人にいきなり作れる訳が無かったのだ)
その一方で、史実を知る皇軍の面々は、半ば縁起も担ぎ、最初は陸中の釜石と筑前の八幡に製鉄所を設けて、高炉を試作、運用して鉄を製造しようと試みることになった。
鉄作りに携わりたい、と希望する当時の面々を募り、それらの者と協働して、高炉を試作して運用を繰り返して、苦心すること数十度、ようやく連続しての銑鉄量産が2か所共に可能な状況が確立しつつあった。
そして、和鉄や試作段階での銑鉄を使用することで、前装式ライフル銃試作に、日本国内ではようやく挑めるようになり、連続しての銑鉄製造が確立するのとほぼ並行して、前装式ライフル銃の量産が可能になるようにもなった。
更に言えば、黒色火薬等を作るのも大騒動になった。
黒色火薬の原料の木炭や硫黄は日本国内で自給できるが、硝石は当時の日本国内には存在しない、といってもあながち間違いでは無かったのだ。
古土法を駆使すれば、日本国内ですぐに硝石が採れないこともないが、大量に使用することを考えれば、そんな方策を講じるくらいなら。
ということで、硝石に関しては、当面は主に東南アジア方面からの輸入に頼り、硝石丘法での国産による量産を目指すことにした。
並行してやったらどうか、という声が挙がらなかったわけではないが、並行してやるだけの人材が惜しいし、それに古土法はすぐに廃れる、という見込みもあって、日本は硝石丘法に拘ることになった。
こうして銃を作り、黒色火薬を作り、軍人も育て、と頑張る一方で。
徐々に海外探査も進められて行った。
とはいえ、皇軍の陸海軍の意見対立から、海外探査についても激論が交わされた。
海軍としては対米戦の悪夢の残影から、南北アメリカ大陸を早期に目指したがった。
その一方で、陸軍としては、東南アジアからインドへ、更にアフリカ、オーストラリアに行きたがった。
そのために一時は、天皇の御前会議で。
「陸軍としては、海軍の意見に反対である」
「海軍としては、陸軍の意見に反対である」
と天皇の御前を弁えずに、山下奉文陸軍中将と近藤信竹海軍中将が大喧嘩を始める始末になり。
それに怒った今上(後奈良)天皇陛下から、
「そんなにお互いの意見に反対するなら、海外に出るのを止めよ」
と一喝されてしまう始末になった。
(天皇陛下を始めとする面々、皇軍関係者以外は、国内優先で海外探査に消極だったという理由もある)
流石にこの一喝で、目が覚めた二人は、今上天皇陛下に謝罪する羽目になり。
陸海軍共同で海外探査を進めることになった。
更に日本の国民を啓蒙し、海外への関心を積極的に高めていこうと、絵本等を作って、毎年、海外探査の最新結果を発表するようにもした。
(当時の日本の国民の識字率等もあり、絵本等が手ごろと判断された。
ちなみに、プリチャの連れ子、タンサニー(美子)、サクチャイ(勝利)は共に、その絵本を読みたいがために、日本語の読み書きを覚えたほどだった)
今では、日本の探査は、太平洋を越えて、南北アメリカ大陸方面ではメキシコに到達し、そこのスペイン人と接触を成功させていた。
そして、蘭印、ニューギニアを経由して、オーストラリア、ニュージーランドにも到達している。
ペルシャ湾、紅海、喜望峰にまで到達もしていた。
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