第6章ー4
他にも元足軽等で、今更、農業等に従事したがらない面々を、除隊した古参兵の代わりの新兵として採用して、あらためて訓練するようなこともしている。
(もっとも、そのようなことをしなければ、元足軽等が失業者として憤懣を溜め込むのも、又、事実だった。
採用されて食べていけるという希望があれば、暴発しようとする面々は減るものである)
他にも、海外に出ていくために、若手武将達を士官として訓練するようなこともせねばならなかった。
最も、自発的に皇軍に入って、士官になろうとする者もいる。
例えば、武田晴信が何れ武田が国司から下ろされるのではという懸念等から、陸軍士官に志願している。
他にも、立花道雪等も、陸軍士官に志願してなった口だった。
そんな感じで、軍人を育てる一方。
兵器を始めとする様々な産品の開発、量産化にも力を注がねばならなかった。
外航用の帆船等の建造を担当したある技術者の回想によれば。
「もうこの世界、過去に来たことを、一時は心底、後悔しました。
何しろ当然にある、と思い込んでいたモノから作らないといけないのです。
早く作れ、と技術者でない方々は、ある意味、簡単に言われますが、その言葉を聞いた瞬間に殺意を覚えたのは、何回どころか、何十回、何百回という感じでした。
工作機械どころか、工具レベルから、自分達の時代、経験からその物の図面を示し、行き違いを生じながら、その物を開発させて、量産化させて、という始末でしたよ。
一例として、木工に使う台鉋の話をさせてもらいます。
台鉋は、私たちがこの世界、過去に来た時には、こんな物くらいは当然にあるだろう、と多くの者が思っていた物の一つでした。
しかし、台鉋が引いて使うのが当たり前の代物になったのは、何と私達の史実で言えば江戸時代中期以降の話でして、更に私達の知る台鉋の形がほぼ確定されたのは明治時代以降だったのです。
そういったことを、この時代の大工の方々の話から推測し、更にそれこそ全ての艦船が所蔵する書籍を洗いざらい探して読んで、ようやく把握する羽目になったのです。
よくこんな地獄を見せられて、その地獄を切り抜け、これだけの船を建造できるようになったな、と認めて欲しい、と心から思いますね」
ともかく、日本から明(中国)沿岸に行ったり、基本的に島、沿岸伝いに東南アジアに行ったりするどころか、太平洋往復が可能な帆船を作らねばならないのである。
当時の日本の船大工に、そんな船を作ろうとした者等がいるわけがなく、また、皇軍の中に船舶に詳しい者がいるといっても、大型木造帆船の建造経験等はない。
そのために。
シャムから大型ジャンク船を購入して、参考にするだけに止まらず。
その一部について、わざと解体して内部構造について把握して、という作業まで行われた。
それによって内部隔壁を備えた外航用の帆船を、3年を掛けて日本は自力製造できるだけになった。
なお、この建造においては、琉球からも技術者が送られる等の技術提供が行われている。
(この当時、琉球もジャンク船を建造していたが、太平洋往復等までは当然、想定しておらず、日本がそのような帆船を建造していることを知った琉球王国の上層部は、余りの壮大さに気が遠くなったという)
本来なら汽船をいきなり作りたかったが、大型帆船をまずは造れるレベルにならないと、汽船も建造できる訳が無い。
佐世保、長崎に国営の造船所等を建設し、そこで技術を蓄積して、実際に建造し、更にその経験を生かして、他にも造船所を建設していくと言った形で、日本は帆船から汽船への移行を果たしていくことになる。
他にも多くの製品等が、そんな感じで開発、量産化されていくことになった。
感想欄で指摘されましたが。
立花道雪については、この当時の氏名としては戸次鑑連が正しいですが、読者への分かりやすさ優先ということで、立花道雪と表記しているということでお願いします。
ご感想等をお待ちしています。




