第5章ー8
なお、いわゆる(現代で言えば近畿以西の)西国において、地元勢力で国司になれたのは、土佐一条氏と伊予の河野氏だけで、他の国司は全て朝廷から派遣、地元の有力国人衆の1人が国司代となって、その国司と協力して、その国を治めることになった。
なお、国司になったと言っても、一条氏も河野氏も(更に大友氏も)、在京を強いられている。
そして、国司代が実際の地元の統治を行うことになっており、国司代は朝廷が国司の意見を聞いて、地元の有力国人衆の1人を任命している。
(更に国司代は、いつでも朝廷が評定の上で解任できることになっていたし、国司にしても、地元勢力から国司になった場合、基本は一代限りとなっていた。
地元勢力以外で朝廷から任命された国司は、4年で交代制になっている)
これは朝廷、新日本政府が、中央集権制を徐々に確実に進めていくためだった。
流石に1国以上を抑えるだけの勢力を、いきなり解体すると言うのは困難である。
そのために、地元勢力の主を在京させて、地元から切り離すと共に、次代は朝廷から任命する、という形を取ることで、世襲が認められるかも、という期待を抱かせて、国司級の抵抗を弱めようとしたのだ。
とはいえ、大内氏や尼子氏等、複数の国にまたがる大勢力も絶無とは言えない。
そう言った場合、色々と難癖を付けて、2国以下の国司とし、取りあえず、2国の国司となれたのだから、良かったという空気を漂わせることで、抵抗を弱めたのだ。
島津父子は、更にいわゆる東国の現状を考えた。
東国も色々と大変な現状になっている。
朝倉氏が越前を、北畠氏が伊勢を、能登畠山氏が能登を、斎藤氏が美濃を、斯波氏が尾張を、今川氏が駿河、遠江を、武田氏が甲斐を、(後)北条氏が伊豆、相模を、里見氏が安房を、佐竹氏が常陸を、山内上杉氏が上野をといった感じで、現状をほぼ追認する形で国司に任命されていった。
(尾張については、織田氏の内紛を理由に斯波氏が国司になった。
勿論、裏があり、織田信長の芽を早期に潰すためだった)
だが、全て円滑に行ったわけではない。
特に陸奥、出羽は、広大であったこともあり、越後も絡んで、複雑な分割が為された。
これは、陸奥の伊達氏が、越後の上杉氏の家督相続問題に介入したことに伴い、周囲の諸勢力を巻き込んで内戦を引き起こしていたのも一因だった。
(史実同様に、天文の乱が起きてしまっていたのだ。
なお、本来なら間に合ってもおかしくなかったが、史実を知る皇軍上層部の画策で、東国に朝廷の私戦停止令が届くのが遅れたのも一因だったりする。
伊達氏に血縁関係を駆使されて、陸奥、出羽から越後まで一体となって抗戦するようなことをされては、日本統一に時間と手間がかかることから、伊達氏の父子喧嘩勃発後に私戦停止令を送ることで、伊達氏一体による抗戦を困難にさせたのである)
結局、史実を知る皇軍上層部が介入したことで、
陸奥は、磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥の5つに、出羽を羽前、羽後に分割した上で、陸前が伊達氏に、磐城が蘆名氏に、陸中が南部氏に、羽前が最上氏に、越後が長尾氏に、それ以外は朝廷から国司が派遣されるという形で落ち着いた。
(その際に、岩代は、相馬家等もあることから、岩城家が国司代になるという形で、話がまとまった)
伊達稙宗、晴宗父子は、かなり不満を零したが、そもそも親子喧嘩を始めて、周囲の諸勢力を巻き込んだのは、伊達父子自身なのだ。
それこそ、お前らが親子喧嘩を始めなければ良かった話だろうが、と周囲どころか、家臣団からも責められては、陸前1国の国司で満足するしかなかったのだ。
島津父子は、日本の今後は、どうなっていくのだろうと改めて考えた。
これで、第5章は終わり、次から第6章になります。
第6章では、基本的に1548年初頭時点での日本の国内情勢や、この時点で日本が把握できた海外の探査状況の説明章となり、上里松一大尉が主な語り手になります。
ご感想等をお待ちしています。




