第4章ー10
そういった動きを足利幕府軍がしている一方で、皇軍の上洛作戦は着々と進行していた。
1542年2月10日に須磨海岸への上陸作戦を成功させた近衛師団は、2月12日に石山本願寺に対する恫喝等を行っている。
更に、2月13日には海軍の艦砲射撃を浴びせられた石山本願寺からの完全武装解除を受け入れた上での事実上の無条件降伏の受け入れも、皇軍は果たしていた。
(なお、その際に向こう50年間、石山本願寺が集めた門徒からの上納金の2割を朝廷、天皇陛下に天皇陛下に謀反を企んだことに対する詫び料、賠償金として本願寺は上納する、との石山本願寺にとっては屈辱的な講和条件も、石山本願寺は受け入れざるを得なかった。
そうしないと、証如及びその親族全員を朝敵と見なして、死罪に処する。
実際に石山本願寺は、皇軍の要求を最初は拒んだではないか。
という皇軍の論理を石山本願寺は否定できなかった。
石山本願寺が、本願寺門徒全員の塚と化そうとも徹底抗戦すべき、という主張が、本願寺門徒の間で全く無い訳では無かったが。
実際に一方的に砲撃を浴びせられ、こちらからは傷一つ与えられないまま、多数の死傷者が一方的に出ていくという現状の前では、そのような徹底抗戦派の主張が通る筈も無かった。
何しろ、講和に応じれば、全ての門徒の生命及び自由と財産は保障する、とも皇軍は併せて言ったのだ。
それなのに、徹底抗戦して自分も家族も全ての門徒が死ぬべきなのだ、という狂信者がそうそういる訳も無かったのだ。
更に余談をいえば、石山本願寺の詫び料、賠償金に皇軍が拘ったのには、それなりの理由があった。
当時の石山本願寺の財力は、それこそ当時の日本国内でも有数のモノがあった。
この財力を背景に、朝廷財政、更に新日本政府の財政に信用を与えよう、と皇軍は考えたのだ。
実際、当初は反発が大きかったが、新日本政府の財政を築くのに、石山本願寺の詫び料、賠償金が大きく役立ったことから、後世になると、石山本願寺側から詫び料、賠償金を言い出した、新日本政府において石山本願寺の功績は偉大である、という主張すら石山本願寺側から為されるようになるのだ)
そして、既述したように三宅国村等、三好長慶らには従わず、また、皇軍に対して抵抗の意を示した摂津の国人衆を、いわゆる撫で斬りに近衛師団はしていった。
幾らそう広くないとはいえ、摂津国内の制圧には、石山本願寺が面従腹背でないかを確認する(要するに実際に石山本願寺が武装解除に積極的に応じるのかを確認する)必要もあったため、実際に上洛するために山崎方面に近衛師団が向かい出したのは、2月16日になってからになった。
なお、この間に阿波水軍や和泉水軍は、皇軍に対して敵対の意思が無いことを書状で表明し、更に目端が利く一部の者、例えば真鍋貞行に至っては、皇軍に身を投じる有様だった。
その一方で、皇軍を迎え撃つために、そうしている間にも、足利幕府軍は山崎の地の防備を固め、更に多くの国人衆等が足利幕府軍のために駆けつけてはいた。
しかし、武藤章中将以下の近衛師団の将兵は、山崎の地を突破して足利幕府軍を破り、上洛を果たすことを確信していた。
「足利幕府軍は、明智光秀軍と同じ運命をたどるだろう」
それが、近衛師団の将兵の主な認識だった。
実際、近衛師団側からすれば、天王山を放棄したのは、足利軍の大失敗だった。
このために砲兵の観測所を、天王山に近衛師団は容易に設けられたのだ。
他にも、多くの失敗を足利軍は犯した。
だが、それは止むを得ない話でもあった。
何故なら、近衛師団の装備等を、足利幕府軍は余り知らなかったのだ。
そのために、山崎の戦いは一方的なものとなった。
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