第4章ー9
「円明寺川を盾として、柵や土塁を築くのだ」
三好長慶は、配下の兵を督励していた。
三好長慶が今いる山崎の地には、続々と足利幕府軍が集結しようとしている。
足利幕府軍の名目上の総大将は足利義晴であり、実質的な総大将は細川晴元といったところだったが。
その先手の総大将と言えるのが、三好長慶といえた。
三好長慶は、皇軍を迎撃するのに、自らの智謀を絞った。
山崎の地形を勘案した末、天王山は最初から放棄されることになった。
天王山を抑え、山崎の隘路を存分に駆使して、皇軍を迎撃するのも一案ではあったが。
天王山に柵等を築いて、簡易の陣地を築くよりは、山崎の隘路を抜けてきたところを叩く方が、自軍の兵力の優位を生かせる、と三好長慶は見なしたのだ。
そう、実はこの時、山崎の地に集おうとしているのは、4万に実際には達しようかともしていたのだ。
これは六角定頼の参戦が大きい。
細川晴元の義父、六角定頼は近江に勢力を持っており、娘婿の苦境に際して、急きょ主に南近江衆の兵を集めて山崎の地に急行していた。
(北近江にも六角定頼は声を掛けたが、山崎の戦いには間に合わなかった)
そして、これを見た山城衆や丹波衆も三好政長の麾下に集った。
更に木沢長政に背を向けていた河内、大和衆の一部も、これならば勝てる、勝ち馬に乗らねば、と山崎の地に参上して、足利幕府軍に忠義を示そうとした。
こうした事情から、三好長慶が当初、2万も集えば、と考えていた兵は3万を確実に越えていた。
そして、皇軍の兵力は2万余と、物見の兵の情報等から推察された。
こうしたことから。
「円明寺川を盾として、柵や逆茂木を並べ、皇軍の進撃を防ぎます」
三好長慶は、足利義晴や細川晴元が臨席し、六角定頼や三好政長ら、主な諸将が集う軍議の場で、自らが考え抜いた武略、いわゆる作戦計画を披露した。
「円明寺川を盾とするだと。むしろ、天王山を抑え、山崎の隘路で阻止すべきではないか」
三好政長が異議を唱えた。
(なお、三好長慶と三好政長は、同じ三好一族だが、諸事情から余り仲が良くなかった)
「いえ、隘路を抜けてきたところを大軍で押し包んだ方が、より兵力を生かせます。それに島津氏からの書状等の情報からしても、柵や逆茂木を並べて、皇軍と称する者達の進軍を阻止し、白兵戦を挑むべきかと」
「ふむ」
軍議に参加している諸将は、三好長慶の提言に唸った。
「そして、そこを見計らって、一向一揆の面々が蜂起してくれれば、必勝かと、幾ら何でも数倍の大軍に挟撃されては、皇軍と言えども敗北するでしょう」
三好長慶は自信満々に言った。
そう、三好長慶は考え違いをしていた。
本願寺は皇軍の武威の前に、すぐに屈服し、武装解除に応じてしまっていたのだ。
勿論、その情報はすぐに足利幕府軍の下に送られたが、その情報が、確実なものとして三好長慶らの下にまで届いた時には、既に山崎の戦いは始まっていたのだ。
だが、この軍議の席では、そんな情報がまだ入ってはいない。
だから。
「三好長慶の提言を採用し、円明寺川の堤防も生かし、柵や逆茂木を並べ、皇軍と称する異形の軍勢を防ぐことにしよう。そこに後ろから本願寺勢が襲い掛かれば必勝と言えよう」
そう足利義晴が決断を下し、足利幕府軍は展開した。
先手の右翼は六角定頼が、先手の左翼は三好政長が受け持った。
尚、先手の中央は言うまでもなく三好長慶である。
軍議の席では不満をぶつけたが、三好政長とて歴戦の将である。
一旦、決断が下されれば、それに従う。
それに相手が相手なのだ。
なお、中央、後詰には幕府奉公衆や河内衆等が当たっている。
これらの諸勢は旗頭が乏しく、先手には置けなかった。
足利幕府軍は要撃準備を整えた。
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