第3章ー11
少し幕間めいた説明話になります
八代近辺での戦いの結果は、徐々にだが、九州どころかそれ以外にも徐々に噂という形で広まっていった。
何しろ。
「合戦の際に、矢がとても届かない距離から、鉄らしき弾が飛んできて、多くの武将が狙い撃ちされて、大けがをして、更に討死する者が出る羽目になったらしいぞ」
「あれは、てつはうという武器らしいが、そんな遠く離れたところから、鉄の弾が当たるのか」
「皇軍と名乗る者どもは、そんな武器を全員が持っていると聞いたぞ」
「わしが聴いた話だと、鎧を着ていた方が、怪我は酷かったとも聞いたぞ」
「相良長唯は、多くの家臣を失い、自らも重傷を負ったことから、人吉の館に引きこもり、頭を丸めて皇軍に詫びを入れる羽目になったとか」
「相良長唯は頭を丸めるだけでは済まず、一族郎党、磔にされたとも聞くが」
なお、こういった話は、言うまでもなく噂の常として、偽りが多く含まれている。
だが、皇軍の武器の威力が、いわゆる肥後の一揆軍というか、戦国時代の軍勢が装備している武器の威力と比較した場合、威力が懸絶していたのは事実だった。
なお、この時、第18師団の将兵の多くが持っていたのは、かつていた世界では、既に旧式化していた三八式歩兵銃だったのだが。
(これは、既に出征していて中国戦線等で戦っていたことから、第18師団の装備改編が遅れていたことや、第25軍司令官を務める山下奉文中将に対する半ば嫌がらせ(東条英機首相と山下中将は犬猿の中であり、そういったことからも第25軍の装備に関しては忖度が働いたとされる)から、第18師団は三八式歩兵銃のままであったとされる)
それでも、何しろいわゆる「鉄砲伝来」前の戦国時代の装備のままのこの時代の軍勢にしてみれば、本当に異界の威力を持つ装備に他ならない。
弓、槍、刀を装備して、鎧兜を着込んで、という形で戦を挑んでは、射程距離の違い等々から、皇軍相手に鎧袖一触という結果になるのは、ある意味、当然の結果だった。
更に既述したように、兵の練度、能力、更に指揮系統にも格段の違いがあった。
第18師団の兵は、ある程度、自分の判断で動くことさえ可能である。
(勿論、ある程度であり、下士官や士官の指揮を受けるのが当然ではある)
また、第18師団の指揮系統は、基本的に師団、連隊、大隊、中隊、小隊、分隊という形で整っている。
それに対し、この時代のいわゆる個々の足軽、雑兵にそのような能力を求めるのは無理があった。
いわゆる旗頭、武将等の指揮に従うのが精一杯なのだ。
更に指揮系統も、第18師団の将兵からしたら、呆れる程度の貧弱な指揮系統しかもっていない。
こうした様々な差から、野戦で第18師団を相手に、この時代の軍勢が勝利を収めるのは困難なのだ。
もっとも、ある意味、このような戦闘結果になったのは、もう一つ理由がある。
それこそ、牟田口廉也中将を筆頭に菊兵団の将兵の多くが激怒に駆られて、肥後に向かったものの、暫く経つと怒りが少しずつ治まってくる。
そうなると。
やはり、先祖の日本人に銃口を向けるのはどうか、という想いが湧いてくる。
特に足軽等は、基本的に武将の命令に従うだけの存在ではないか。
更に我々には補給が今のところ無い、という現実も頭をもたげてくる。
そうしたことから。
少しでも銃砲弾等の消耗を減らしつつ、一揆軍を破る必要性から、菊兵団は、このような戦術を半ば取らざるを得ず、その結果、このようなある意味、奇妙な戦闘が引き起こされるという事態になったのだ。
もっとも、この戦闘で、いわゆる大名、領主層が被った打撃は極めて大きいものがあった。
最終処分は、天皇陛下の裁可を受けて、という態度を、山下奉文中将は執ることにしたが。
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