第3章ー8
作中で、皇軍の将兵が西暦のみを使っているのは、厳密に言えばおかしいのですが、作者の都合(要するにこの方が書きやすい)や読みやすさから、西暦標記にしています。
(本来なら、紀元(皇紀)2202年(西暦1542年)とか書くべきでしょうが)
島津貴久は、気を何とか取り直しつつ、話を続けることにした。
「そもそも、貴方がたの軍勢は、どれ程いるので。これが全兵力ですか」
「いや、ルソンや琉球にも軍勢がいる。総勢は10万人を超えるな」
「それは」
牟田口廉也中将の返答に、貴久は目がくらむ想いしかしなかった。
貴久とて、名門島津家の武士である。
従って、実際のところ、万を超える軍勢を集めて、運用するとなると大変な苦労が掛かることが、いわゆる肌で分かる身でもある。
それなのに10万人を超える軍勢が集まっているとなると、貴久は内心で理解を拒絶したくなった。
「軍艦も全て鉄製で大砲を装備している。あのような軍艦を見た覚えがあるか」
「いえ、ありません」
遠目に見える「鳥海」(もっとも、貴久に名称は分からなかったが)等の威容は、貴久にしてみれば、島津家の軍船総がかりでも、1隻とて沈められる想いがしてこない。
そもそも、帆も櫂も櫓も無くして、航行できる船等、貴久は観たことも聞いたことも無いのだ。
(これは抗戦は無意味というより、不可能だ。抗戦をせずに、交渉で少しでも有利な条件を引き出さない訳にはいかない)
そう、貴久は決意したが、そもそも交渉するにしても、どこまで譲歩せずに済むだろうか。
そう貴久が考える間にも、牟田口中将の話は続いていた。
「まず、今の帝の先帝は、何と言われる」
「はっ、後柏原天皇陛下におわします」
「おお」
貴久の返答に、牟田口中将のみならず、周囲の参謀達もどよめいた。
牟田口中将らにしてみれば、過去の時代に戻っていることを再確認できたからだ。
「後柏原天皇陛下が崩御されて、何年になる」
「確か15年程かと」
「となると、やはり今はおそらく1542年か」
貴久にしてみれば、意味不明の1542年という言葉が、いきなり出てきたが。
牟田口中将らにしてみれば、後柏原天皇陛下が崩御されたのは、1526年という知識がある。
そして、旧暦である以上、正月、新年はまだなのだ。
だから、崩御されて15年ということで、辻褄が合うという計算になる。
「今の年号は天文で、天文10年ということで間違いないか」
「はい、その通りです」
貴久の返答に、牟田口中将らは顔を見合わせて、お互いに話をした。
「ここも史実と同じらしいな」
これまた、貴久にしてみれば、意味不明の話である。
「ところで、今の帝は、京の都におわしますのか」
「少なくとも、私の耳にはそう入っております」
貴久の返答に、牟田口中将は、貴久を半ば無視して吠えた。
「山下中将の下に、この情報をすぐにお知らせしろ。帝は京におられると。先程の情報も併せてな」
「はっ」
その場にいた通信士官(もっとも、貴久にはさっぱり分からなかったが)が、牟田口中将の命を受けて、すぐに打電の準備に取り掛かろう、とこの場を去っていく。
それを見た貴久は、腹を括って尋ねることにした。
「一体、何をなされるおつもりですか」
「決まっておる。京の都に皇軍の一部は向かい、帝、天皇陛下の下に向かうのだ。島津家には、それを手伝ってもらう」
牟田口中将の返答に、貴久は思わず絶句した後で、気を取り直して尋ねた。
「京の都に向かうですと。どうやって」
「無論、海を使ってだ。坊津港等を活用して、食料を積み込み、大阪湾に上陸する。島津家には、その際の案内等を頼みたい。島津家と近衛家は所縁があるとも聴いておる。当然、先導してくれるだろうな」
「はい?」
牟田口中将の半ば演説に、貴久は気が遠くなる思いしか、しなかった。
薩摩から京の都等、遠く離れた土地という想いが、貴久にしてみれば先立つのだ。
それなのに、目の前のこの人物は、何でもないことのように言う。
貴久は目が回る思いがしていた。
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