ゆりかごのねがい(6)
その日の最後の講義が終わった。外は生憎の天気で、しとしとと雨が降っていた。サークル活動のない学生は、足早にキャンパスを後にした。雲が厚くて、まるで日没後のように校舎内は薄暗かった。
シンは、マヤに用事があるということで呼び出されていた。雨のせいで、学生課の掲示板前は人でごった返している。この中から、背の低いマヤの姿を探すのは至難の技だろうが。
骸骨の方は話が別だった。あっさりと骸骨を発見すると、シンはマヤと合流して人混みから離脱した。
「すいません、榊田さん、お手数をかけます」
「いや、良いんだけど。部室で待ち合わせた方が良くなかったかな?」
「ええと」とマヤはゴニョゴニョと口ごもった。まあ、事情は判らないでもない。こんな雨の中、大学の辺境であるプレハブ棟で待ち合わせて、そこからまた移動するなど面倒なことこの上ない。それに、シンと待ち合わせしてでかけるとなると、宮屋敷家に仕える立場のマヤはコトハに遠慮してしまうのだろう。
特に追求はせず、シンはマヤについていくことにした。
「どこまでいくの?」
「すぐそこです。ホントにすいません」
ぺこぺこしながらも、マヤは足を止めなかった。さぁー、というホワイトノイズのような雨の音が、辺り一面に響き渡っている。心なしか、少し肌寒い。マヤの隣を歩く骸骨の姿も相まって、ホラー映画のような雰囲気だった。
すれ違う学生の数も、段々と少なくなっていった。今日はどこの部活も休みなのだろうか。普段なら、このくらいの天気ならその辺の空き教室から話し声くらいは聞こえてくるものなのだが。
今日は少し、静かすぎる。
「マヤさん、ひょっとして、何かしてる?」
シンに尋ねられると、マヤはぴやっと肩を縮こまらせた。
「ええっと、人払いしてます。め、目立つわけにはいかないので」
目立たないで。
シンと二人で。
マヤは一体何をするつもりなのだろうか。怪しげな感じはしたが、マヤの様子はいつも通りだった。変わったところは何もない。骸骨もしっかりとマヤに随伴しているし。シンのすぐ前を、シキが行進するみたいに手を大きく振って歩いている。
考えすぎだ。
そう思ったところで、マヤが足を止めた。講堂教室の入り口だった。緩やかな傾斜のついた、半球型のホールみたいになっている部屋だ。二人が立っているのは、講堂教室の前方、一番深い位置にある扉の前だった。シンも幾つかの講義をこの部屋で受けており、教授を見下ろすような視点がなかなかにアカデミックで気に入っていた。
「どうやら、先にいらしているみたいです」
「誰が」とシンが訊く暇もなく。マヤは扉に手をかけると、一息に開け放った。
広い講堂教室の中には、先頭の席に一人だけ女子学生が座っていた。すっくと立ち上がって、シンの方に顔を向ける。
栗色の明るい髪が揺れて。
清楚なお嬢様といった風情の柔らかい笑顔が、薄暗い室内に眩しく花開いた。
「マヤさん、あと、榊田君。どうしたの、こんなところに呼び出して?」
待っていたのは、魔法研究会の部長――橘ユイだった。
しかも、『呼び出した』とはどういうことだろうか。
マヤは無言のまま講堂教室に入っていく。シンは軽く会釈して、その後に従った。
「橘ユイ部長」
教卓の前に立つと、マヤはユイの方に身体を向けた。その表情が、いつになく険しい。マヤの横に立つ骸骨が、くわぁ、と威嚇するように口を開いた。
「天羽セイ、または『銀の鍵』の所在について、知っていることを話してください」
ざぁ、っと。
強くなった雨脚が、ホールの中を激しいノイズで埋め尽くした。
雨音が大人しくなるまで、しばらく誰も口を開かなかった。マヤが睨みつけるようにユイを凝視し。シンはただ呆然と目の前の二人を見つめて。
ユイは、静かに微笑んでいた。
「・・・それは、『宮屋敷』の言葉なのかしら?」
普段通りの、穏やかな口調だった。ユイの表情は少しも変わらない。「榊田君、お茶でも飲む?」と部室で語りかけてくる時とまるで一緒だ。シンにはそれが、背筋が凍るほどに恐ろしかった。
「はい。これも私の仕事なのです。榊田さんには、証人になっていただきます」
『宮屋敷』の仕事。
マヤは宮屋敷家に仕えて、天羽セイと『銀の鍵』に関する情報を収集していた。セイがかつて部長を務めていた、尖央大学魔法研究会に入り込み。セイと交際していたという、現部長の橘ユイに接触する。
そして。
「橘部長は何かを隠しています。それは間違いなく、天羽セイの居所か、『銀の鍵』の在り処に関わる情報です」
その情報を得るためならば、手段は厭わない。『銀の鍵』はそれだけ危険な代物なのだ。
「今お話しできることは、何もないわ」
「知らない、とは言わないんですね」
マヤの隣から、骸骨が一歩前に踏みだした。骨の一つ一つが、軋みを上げている。まずい。シンはユイに向かって駆け寄ろうとした。
「こないで、榊田君!」
強い制止の言葉だった。驚いたシンの目線の先で、ユイはじっと骸骨を見据えていた。
「・・・多分、大丈夫だから」
大丈夫なわけがない。骸骨が部活でどんなに残忍な戦いを繰り広げたのか、ユイはその眼では見ていないのだ。あの骸骨がどういうものなのか、まるで判っていないのだろう。
あの骨の一つ一つは、敵を切り刻むための武器になっている。しかもより相手を苦しめ、より痛めつけるために特化された、冷酷無比なものだ。
シンはマヤの方を向いた。やめさせなければならない。シンの力では難しいが、シキならなんとかできるかもしれなかった。
「シキ!」
シキの姿を探して、シンは周囲に視線を巡らせた。シキは――
シキは、ユイの隣に立っていた。
敵と戦うための武器、攻性防御の半透明の翼は展開されていない。シキはユイと並んで、ただ真っ直ぐに骸骨と対峙していた。
「シキちゃん・・・」
意外という表情を浮かべたユイに向かって、シキはにっこりと笑ってみせた。
――判ってる。きっと、それであってる。
ユイは小さく、それでいてしっかりとうなずいた。
「うん、ありがとう」
「馬鹿にしないでください。この子はそんな甘ちゃんじゃないんですよ」
マヤの言葉を証明するように、骸骨は雄叫びを上げた。聞こえる者にだけ聞こえる、恐怖を喚起する地鳴りのような声。思わず耳を塞いだシンの眼前を、骸骨が通り過ぎていこうとした。血の赤で染まった、人の骨。止めなければ。しかし、その骨は全てが刃物でできている。安易に触れることですら許されない。
「いきなさい、シワテテオ!」
覚悟を決めて、シンは手を伸ばした。シンが傷つくのなら、シキが反撃してくれる。こんなことは、あってはいけないんだ。
ここはどこだろう。
白い光が、視界を覆い尽くしていた。何も見えない。何も聞こえない。
自分が立っているのか、座っているのか。それすらも定かではない。
落ち着こう。こういう時は、自分を強く意識する。コトハに教わった通り、シンは自分の形を思い浮かべた。手が、足が、身体が。じりじりと炙りだしのように、空間の中に形作られていく。
同時に、自分がどこにいるのかが見えてきた。これはチューニングだ。シンは、誰かの意識と記憶に自分を合わせている。段々と、そこがどこなのかが明らかになってくる。
ベッドと、水色のシート。所々に飛び散った、真っ赤な血糊。
シンはぐるり、と周りを見渡してみた。
カーテンと、幾つもの機械と。
やはり水色の手術着を着た、何人もの医師たち。
誰も何も言わなかった。
マスクの下は、苦渋に満ちた顔ばかりだった。
彼らは失敗した。
助けられなかった。
苦しみの感情だけが、この部屋を支配していた。
ベッドの上には、女性が仰向けに横たわっていた。
血が、そこかしこにこびり付いている。理科の実験で使う、エナメル線に似た色の髪。そういえば、面影がある。そう思ったところで。
シンの隣に誰かが立った。
同じ女性だった。
ベッドにいる女性と瓜二つ。寸分違わぬ、同じ人物だった。
女性はじっと、寝かされている自分の姿を見つめていた。
血塗れで。
息もしていなくて。
何の物音も聞こえてこない。
ただ、死んでいくだけの自分。
――ごめんね。
もう助からない。正確には、助からなかった。
精一杯に生きようとは思っていた。
このまま死んでしまうなんて、冗談ではなかった。
だってまだ、これからだったのだ。
毎日を楽しみにしていた。
少しずつ大きくなっていくお腹。
元気な胎動。
もうすぐ会えますよ。
誰よりも近くにいる他人。
自分の中にいるのに。
自分じゃない誰かなんて。
とっても不思議で。
とっても愛おしくて。
早く会いたい。
声を聞きたい。
この手に抱きしめたい。
そう願っていたのに。
――ごめんね。
「奇跡的に胎児は無傷」
そんな言葉が聞こえてきた。
シンと、女性が見守る前で。
世界が割れた。
暗闇の中から、光に満ちた外に飛びだしていく。
もう意味をなさない命の絆が断たれて。
産声と共に、肺の中に外の空気を一杯に取り込んで。
温かさと、寒さと。
柔らかさと、硬さと。
痛さと、苦しさと。
喜びに満ちたこの世界に。
君は、産まれた。
「良かった、助かるぞ!」
医師たちの歓声が上がった。
女性の顔に、笑顔が浮かんだ。
一つの命が消えて。
新しく、一つの命が誕生した。
――おめでとう。
ようこそ、この世界へ。
私にとってただ一人の、誰よりも大切な、かけがえのない貴女。
私は生きることができなかったけど、その代わりに、貴女の命を守ることができた。
この手に、貴女を抱き締めることはできないけれど。
貴女に、優しい言葉をかけることはできないけれど。
――でも、大丈夫。
シンの眼前で、女性の髪が抜け落ちた。
皮膚が崩れ、ずるりと剥けて真っ赤な血で彩られた。
――私はずっと、貴女の傍にいる。
肉が落ち、内臓がこぼれ、血液が沸騰し。
骨だけを残して・・・何もかもが消えていく。
――たとえ、どのような姿に成り果てようとも。
そこに立っている骸骨の姿を、シンは良く知っていた。
常に彼女の傍らに立ち、彼女を守り、彼女を支えてきた力強い存在。
死母の魂。
――貴女を守り続ける。絶対に。
暗い眼窩の奥に、熱い炎が燈った。
時間にすれば、一秒にも満たない瞬間だった。
シンは、骸骨がユイに向かって進んでいくのを見送っていた。右手が虚しく空を切っている。あと少しで触れるほどの距離に近付いた時に、それが視えたのだ。
マヤの骸骨の内面――シワテテオ、その正体が。
「きなさい、シワテテオ!」
ユイの力強い声が、講堂教室の中に響き渡った。ユイは微塵も怯んでなどいなかった。仁王立ちして、骸骨と正面から向き合っている。その脇にはシキが並んで、迫りくる脅威に対して共に身をさらしていた。
「私の覚悟が偽りだというのなら、遠慮なくこの身体を切り刻みなさい!」
「おかあ、さん・・・」
『潮騒』のソファの上で、フユはそんな寝言を漏らした。
家族を知らないフユは、誰を想ってその言葉を口にしたのだろう。
「アモちゃんがお父さんだと、苦労しそうだよねぇ。今でも絶賛育児放棄中だし」
クウコが「イキキ」と意地悪く笑ってみせた。
「もう、何を言ってるんですか」
その場では、冗談めかして終わらせてしまったが。
ユイの中では、その言葉は大きな意味を持ち始めていた。
ユイは、フユのために何ができるだろう。
ユイは、フユのためにどこまでできるのだろう。
今はこれで良いかもしれない。『潮騒』に預かってもらって、時間があれば訪れて。触れて、言葉を交わして。陽が暮れれば、それで別れて、一日はおしまい。
でも、そんな関係で、そんな覚悟で。
ユイに、フユの一体何を変えられるというのだろうか。
『おせっかい』――こんなのは、興味本位で手をだして、飽きたら捨ててしまうような自己満足でしかない。フユは、犬や猫ではない。人間なのだ。
フユはこれから、この世界を生きていかなければならない。一人の人間として。心を持った存在として。
教えてあげなければならない。
愛されるということを。そこにいても良いということを。生きることが、苦しみだけではないということを。
マヤの骸骨が何者なのか、ユイにはすぐに判っていた。審神者として、今まで数えきれないほどのモノたちの姿を見てきたのだ。今は亡き、マヤの母親。その情念の強さに、ユイは圧倒された。
たとえどんな姿に成り果てようとも、どんなことがあったのだとしても。
守ってみせる――子を想う母の気持ちとは、こういうものなのだ。それだけの意志の強さが必要なのだ。マヤに付き従う血塗られた骸骨を目の当たりにして、ユイは自らも覚悟を決めた。
フユのために、ユイは自らの命をも賭ける。それが、『魔法使い』橘ユイの在り方だ。
どこの誰かも判らない、恐ろしい『銀の鍵』の力を持つ女の子。
それがどうしたというのか。何も知らないままの彼女を。
母親の温もりも。生きることの喜びも。他愛もないお菓子の甘さ一つも知らない彼女を。
ユイは、助けたい。
心ある人間として、育てたい。
こんな口ばかりが達者な、生意気な小娘の訴えであっても。
この気持ちが本物なら――
死母の魂には届くはず。
もしそれが適わないのだとすれば。
ユイの望みなどは、所詮は端から手に入れようもない、絵空事でしかあり得ないのだ。
目と鼻の先にまで近付いてきた骸骨に向かって、シキは掌を差し出した。その表情は穏やかなものだった。
最初に出会った時から、シキはマヤの骸骨を恐れてはいなかった。そんな必要はまるでなかった。
なぜならシワテテオはシキと同じ、『願いの結晶』なのだから。
未来から現在へ。過去から現在へ。
向きが違うだけで、シキもシワテテオも、誰かを守りたいという願いを受けてここにいる。大切な人がいる。その人が健やかで、明るい毎日が送れることを望んでいる。
それなら、簡単なことだ。
貴女の大切な人を、ここにいる人たちは傷付けない。
誰も、敵ではない。
一緒にいこう。
あの、光り輝く眩しい未来に。
そのために、シキはここにいる。ここにきた。
見せてあげる。光でできた未来。魔法使いたちが目指す、彼方の希望を――
「そんな」
マヤの全身から、がくりと力が抜け落ちた。放心して、ただその場で起きていることを眺めるばかりだった。恐らくは、初めてのことだったのだろう。
骸骨は、マヤの指示に従わなかった。
狂気の刃物でできた身体を持つ使い魔は、ユイの前にひざまずいていた。シキの手を取って、下を向いていた。そこからはもう、殺意も、敵意も感じられない。外から聞こえてくる、微かな雨だれの音だけが全てだった。
「どうして」
マヤは崩れるようにして座り込んだ。シンはマヤの方を向くと、その傍らに歩み寄った。ユイは何も言わない。背筋を伸ばして凛と立ち、正面を見つめている。
その姿は、力強くも偉大な魔法使い――尖央大学魔法研究会の部長にふさわしい風格だった。
「お母さん・・・」
マヤの眼から、涙がこぼれ落ちた。そしてそのまま、ぽたぽたと講堂教室の床を濡らしていく。
嗚咽を漏らす小さな背中を、雨上がりの夕日が朱色に染め上げた。きらきらときらめく赤銅色の髪は、母親のそれととてもよく似ていた。
これが、シワテテオが守り続けてきたマヤだ。とても美しい。シンはただありのままに、そう感じた。




