ゆりかごのねがい(7)
その後一分も経たないで、講堂教室にコトハが飛び込んできた。異変を察知してすぐにきたということだが、頬によだれの痕がついている。起きてくれただけマシということか。
シンはちょいちょい、と自分の顔を指で示してコトハに伝えた。「んあっ!」焦って大きく拭うものだから、せっかくの気遣いも台無しだ。シンはやれやれと脱力した。
「マヤさん、ごめんなさいね。今はまだ、色々な人に知られてしまうわけにはいかないの」
ユイはマヤの横にしゃがむと、その肩に触れた。マヤはずっとうつむいて泣いている。信じていた母親に裏切られた。そういうことになるのだろうか。
「シワテテオは、私の気持ちに共感してくれたのだと思う。私には、守りたい人がいるの。その人はまだ、私が守ってあげないといけない。他の誰にも任せられない。私だけの、大切な人なの」
フユが『銀の鍵』ではなく、『フユ』でいられるように。ユイはできる限りのことをしてみるつもりだった。ユイだけでは不可能なことも、今後は沢山出てくるとは思う。でもそれは、その時になって改めて考えてみるべきことだ。
今はユイが、フユの手を取っている。掴んだ掌を安易に離してしまってはいけない。ユイはその覚悟を決めたのだ。
フユの命を背負う覚悟――シワテテオはそれを認めてくれた。ならば、信じたその道を進んでいくしかない。
「さてさて、ユイ。お取込み中に大変申し訳ないのだが、ちょっとこの、宮屋敷コトハの独り言を聞いてはくれないかな?」
おどけたような調子のコトハの言葉に、マヤもユイもぽかんと顔を持ち上げた。マヤの方は涙でぐしゃぐしゃだ。ユイがそれに気が付いて、急いでハンカチで整えた。
驚いて身体を強張らせたマヤに、ユイは優しく微笑みかけた。大丈夫。争う理由も、いがみ合う理由もない。ここにいるのは、同じ魔法研究会の仲間なのだ。
二人が落ち着くのを見届けると、コトハは講堂教室の真ん中に向かって歩き始めた。階段状になった通路を、ゆっくりと昇っていく。全員の視線を一身に集めながら、コトハは楽しそうに語りだした。
「我が宮屋敷家は有力な魔法使いの一族であると同時に、莫大な財産と権力を持つ、社会的地位の高い一族でもある」
コトハが今住んでいるのは、三十五階建ての高層マンションの最上階だ。しかもそのマンションのオーナー自体が、宮屋敷家となっている。シンが知っているのがそれというだけで、実際にはそんなものは氷山の一角でしかないらしい。セレブの世界というのは、シンの想像など遙かに及ばないものだった。
普段は学食でカツカレーなんか食べているのに、その実態は紛うことなきお嬢様、宮屋敷家のご令嬢なのだ。よくよく考えてみれば、そんな相手と結婚どころか、出産を前提にお付き合いをしているとか。常識的に考えて、シンはとんでもないことをしでかしているのかもしれなかった。
「ウチにはブリジットなんて人造人間までいてね。これが下手に人間そっくりなものだから、人間として生活できるようにと、あれこれと大変だったんだよ」
くるり、と片足を軸にして軽やかにターンすると。
コトハは、にやり、と口角を持ち上げてみせた。
「戸籍とか、保険証とかね」
核心を突かれて、ユイはどきりとした。
ブリジットの肉体は、見た目的には成人女性であっても、実際には生成されてまだ三年ちょっとだ。生まれも育ちも普通ではないブルジットには、当然のように身分を保証するものなど何もなかった。
たとえば、世間知らずの金髪碧眼のお姉さんが、お買い物だなんだとぶらぶらと街中を歩いていて。何かの拍子で、警察官に職務質問などをされてしまったような場合。パスポートだとか、そういった身分証明書の類が提示できなければ、相当にマズいことになるだろう。
イレギュラーな存在が、人間の社会の中に自然に溶け込んで生きるというのは、実は結構難しいことだ。生活している当事者にとっては、極々当たり前のことであったとしても。外部のモノからしてみれば、どうしようもなく誤魔化しようのない事柄というのはザラにあるのだ。
「人造人間だとそこまで問題はないけど、人間の子供は病気とかもするかもしれないねぇ。その場合、健康保険証があるとないとでは大きな違いがある。保険証なしでも診察は受けられるけど、不審には思われるだろうし、そこから通報されて犯罪が発覚するとか、良くある話らしいねぇ」
戸籍や保険証は、不正に入手する手段もあるにはあるだろう。しかし、こちらは発覚した場合には即座に通報の対象となる。どんなに周囲の目を騙し続けようとしても、嘘を重ねるのには限界があるのだ。そんなことをするくらいなら、何らかの手段によって『本物』を入手できてしまった方が、物事はスムースに進められる。
もっとも、それをおこなうには余程の財力なり地位なりが必要となるのだろうが。
宮屋敷家には、それが可能なのだ。
ユイは大きな溜め息を吐いた。このくらいのことは、コトハにはまるっとお見通しだったのだ。ユイが今、咽喉から手がでるくらい欲しいものを、これ見よがしにチラつかせてきている。
クウコも言っていた。少しずつ、信じていくしかない。コトハが味方になってくれるのなら、これ以上に心強いことはなかった。
「・・・わかりました、宮屋敷先輩」
観念するしかなかった。頼れるもの、使えるものは何でも利用しなければ――守るべきものは守り通せないのだ。
ユイの返事を聞いて、コトハは「うむ」と満足そうに首を縦に振った。それから、今度はマヤの方に目線を向けると、強い調子で語りかけた。
「マヤ、宮屋敷の本家として君に通告する」
マヤは、焦点の合わない眼でコトハの方を見つめていた。そこには、生気がほとんど残っていない。ここで起きている事態がどういうことなのか、まるで理解が追いついていない様子だった。
「我々は『銀の鍵』を見失った。これが魔法使いの手に落ちることは、今後あり得ない」
「そんな、だって・・・」
何か言おうとしたマヤを、コトハは手で制した。それから、ユイに目配せする。ユイは小さくうなずくと、立ち上がって教壇の方に歩を進めた。壇上で振り返ったその表情は。
一人前の、魔女だった。
「これより、尖央大学魔法研究会は『銀の鍵』に関するあらゆる情報を隠匿します。情報の拡散を抑止し、『銀の鍵』が魔法使いの手に渡るのを阻止することが目的です」
『銀の鍵』などいない。そこにはフユという、不幸な事故の被害に遭った人間の女の子がいるだけだ。
少なくとも、フユが自分の意志で判断し、人間の世界で生きられるようになるまでは。その存在は、なんとしても隠し通さなければならなかった。
「橘部長だって、魔法使いじゃないですか」
マヤの指摘は正しい。フユは今、ユイの手の届くところにいる。ユイによって管理されているといっても、過言ではないだろう。
「そうよ、だから――」
そんな矛盾は、言われるまでもないことだった。
「時がくれば、私自身もあの子の前から姿を消します。そうでなければ、あの子には真の平穏は訪れません」
フユは魔法使いではない。『銀の鍵』という危険な力を無理矢理持たされた――ただの人間の子供なのだ。
フユの幸福は、魔法使いたちの世界の中にはない。そこでは『銀の鍵』の力を恐れる者や、力を手に入れようと狙ってくる邪な者たちが後を絶たないだろう。
フユを同じ人間として、友達として見て。フユと並んで、手を繋いでくれる相手が必要だ。そんな世界に入ることができて、それで初めて。
フユは、人としての第一歩を踏み出すことができる。
「もし私が『銀の鍵』の力に魅入られてしまったのならば」
ユイはそこで言葉を区切ると、マヤの背後に立つ骸骨を見やった。シワテテオはユイを認めてくれた。その誓いを反故にするようなことは、断じてあってはならない。
「――その時は、シワテテオが私を罰するでしょう」
ユイの持つ愛情が偽物だというのなら、その罰は甘んじて受けるしかない。この身を捧げてでも救うと決めた。いつかは放して、自由を与えるものだと判ってはいても。
ユイは、フユの母となる覚悟を持ったのだ。
シワテテオと並んで、シキはシンの方を向いて首を傾けた。願いの結晶たちは、新しい母の誕生に何を想うのだろう。言葉を持たない彼女たちは、ただじっと現在を生きる者たちの姿を見守っていた。
「シワテテオというのはね、出産時に死亡した女性の魂のことだよ」
古代アステカにおいて、子を産むということは戦いと同じだった。出産の際に死亡した女性は、戦死者とみなされた。死体は勝利の象徴として扱われ、魂は荒ぶる存在として畏怖の対象とされていた。
「マヤの場合は特殊な事情によるものだけどね、死んだお母様の霊魂が、ずっと傍についているのだそうだ。おかしな真似をすると、榊田君もちょん切られちゃうぞ?」
コトハが下品な冗談を飛ばしてきた。そんなことは考えたこともなかったが、シワテテオに去勢されるとなると『ひとおもい』に、とはいかないだろう。実際にそういう目に遭った人間が、いたのかいなかったのか。想像しただけで色々と縮こまってくる思いだ。シンは質問する気にもなれなかった。
マヤは、元気にスクーターで帰っていった。宮屋敷家には通報しないと、そう約束してくれた。シワテテオが認めたのだ。それを疑う理由などないのだという。
「橘先輩は、すごいですね」
マヤの言葉に、シンも同意した。誰かのために、身を投げだす覚悟。シワテテオの前から一歩も退かなかったユイの姿は、シンの脳裏にくっきりと焼き付いていた。
母親というものは、そういうものなのだろうか。骸骨を見上げると、不思議とシンはもう恐怖を感じなかった。シキと同じ存在。そう考えれば、親近感すら湧いてきた。
「・・・これで良いんだよね、お母さん」
夜の闇の中に、マヤの呟きと共にテールランプが消えていく。シンはコトハと並んで、それを見送った。
ユイは自分の神様、トヨとも相談してみるということだった。
「やっぱり、私一人でできることなんて限られてますから」
何もかもを話すわけにはいかないが、少しずつ、可能なところから打ち明けていってくれることになった。この場にはいなかったヒロエとアユムにも、手を貸してくれるように頼んでみるつもりだった。二人とも、ユイの味方をしてくれることには間違いはない。快く請け負ってくれるだろう。
思い悩んで足を止めてしまうよりも、前に進んでいく道を選ぶ。ユイは立派な魔法研究会の部長だった。シンはコトハと共に、協力を惜しまないことを宣誓した。
「これで天羽先輩にも貸しができるな」
コトハが嬉しそうにしていた理由は、そこにもあったようだ。とても善の魔法使いとは思えない悪人面で、コトハは声高らかに嗤った。
「大っ嫌いな『宮屋敷』の手を借りるが良いさ。ふはははは!」
大人げないコトハの物言いに、ユイは複雑そうな苦笑いを浮かべた。シンは呆れかえって、何の言葉もでてこなかった。
もう遅い時間だというのに、ユイはその足で稲荷神社に向かうとのことだった。ユイの実家の方といえば、あの小旅行の行程だ。このフットワークの軽さも、見習うべきところだろう。
少なくとも、部室のソファで昼寝が当たり前の生活にだけは、なってしまってはいけないのではなかろうか。そんな魔法使いに、間接的にとはいえ借りを作ってしまった天羽セイに、シンはほんの少しだけ同情した。
そうやって、各自がそれぞれの方向に分かれていって。
今は、シンはコトハと二人で歩いていた。陽が落ちてしばらくした駅前の道は、まだどこかざわついているみたいだった。雨が止んで、空気が微かに湿っている。久しぶりに涼しい夜になりそうだった。
「急に押しかけて、大丈夫なんですか?」
「ブリジットにはメールしたよ。是非きてほしいとのことだ」
コトハの申し出で、シンは夕食を御馳走になることにしていた。ここ最近は、後期の授業が始まったり部活があったりで、コトハとはゆっくりとすごすことができていなかった。部室にいると、どうしてもいつもの調子で話してしまう。
たまには、恋人らしい二人でいるのも悪くはない。ブリジットなら、シンに請われるまでもなくコトハと二人きりにしてくれるだろう。放っておけば、ベッドメイキングまでしだしかねない。
「どうかしたかい、榊田君?」
シンは思わず、コトハに見惚れてしまっていた。夜の灯りの中で、コトハの姿は魔女そのものだった。改めて、シンはコトハのことを素敵な女性だと認識した。宮屋敷という家名なんて関係ない。シンが好きになったのは、コトハという一人の女性だった。
「いえ。二人でゆっくりできるのって、久しぶりだなって思って」
「・・・え?」
ぶぅーん。
二人の横を、自動車が一台掠めて通りすぎていった。コトハのマンションの入り口はすぐそこだ。今聞いた驚きの声と態度の意味は何なのか、シンは深く考えないようにした。
今日は、コトハと、楽しく夕食。良い雰囲気で、久しぶりに膝枕なんかしてもらって。むしろ今夜はこのまま・・・
しかし、現実は甘くはなかった。
「ざがぎだざばぁー!」
三十五階にある玄関のドアを開けた途端、シンは飛びだしてきたブリジットに抱き着かれた。突然のことなので、完全に油断していた。たたらを踏んでなんとか留まったが、すぐ目の前にコトハの仏頂面があった。
「ブリジット、ご主人様の前で随分な醜態だな。しかも私の榊田君に手を付けるとか、良い根性をしているじゃないか」
「ぞ、ぞんだごどいばでばじでぼー」
何を言っているのかさっぱり判らない。ブリジットに抱擁されるのは悪い気分ではないが、こうなってしまった原因の方もかなり気にはなる。一体どういうことなのかと、シンは玄関の中を覗き込んでみた。
「あ、お帰りなさいませ、コトハ様。それから榊田さんも」
マヤがぺこん、と頭を下げて。その隣で、骸骨がかくん、と下顎を落とした。
「急に編入が決まったので、引っ越しとか手はずが整わなかったんですよ」
本当なら、マヤは来年の四月に入学するスケジュールになっていた。それが突然九月に前倒しになったのだ。新しく住む住居の契約やら引っ越しの手配などは、簡単に済ませられるような話ではなかった。
「尖央大学に通うなら、宮屋敷家の管理している物件の中ではここが一番便利なんだ」
金銭的なものは、全て宮屋敷家の方で負担する。そういうことなら、確かにここは良い環境だろう。広いし、駅には近いし。少し歩けば活気のある商店街もある。正直シンにとっては羨ましいくらいに恵まれている。
「それに、コトハ様の護衛もしなければなりません」
そう言えば、そんな話もあったのだ。大学にいる間に限らず、四十六時中コトハの傍についている必要があるというのなら、住居を近くに構えるのは当然のことだ。むしろ、こうなることはもっと早くに気が付いておくべきだった。
「マヤは一人暮らしだというからね。だったら袖振り合うもなんとやらだ。最近はほぼ毎日、食事は一緒に済ませているのだよ」
三人が和やかに談笑している後ろで、ブリジットが変な体勢でお茶を淹れていた。シワテテオが怖いのだ。シワテテオの外見は、人ならざるモノに対する魔除けの力を持っているのだという。道理で以前も大騒ぎだったはずだ。人造人間であるブリジットに対しても、その効果は抜群だった。
何にせよ、これではロマンスはお預けだ。
「ふんぎゃあぁー!」
何かお手伝いを、と思ったマヤがキッチンに近付くと、骸骨がそれについてくる。驚いたブリジットがおたまを振り回し、それが長剣に変形する。毎晩これでは大変な騒ぎだろう。「困ったものだよ」コトハがくつくつと笑うのを、シンは温かい気持ちで見つめていた。
風が強い。夏に花火を見物した時と比べると、まるで嵐の中にいるようだ。夕食後にコトハに誘われて、シンは屋上庭園にでてきていた。
「期待させちゃってたみたいだし、少しぐらいはね」
そこまでしてもらうと、逆に気後れしてしまう。それに、階下にはブリジットの他にマヤもいるのだ。いくら公認の関係とはいえ、こんな状況で色々と手をだせるほどに無神経でもなかった。
ただ、コトハと並んで夜風に吹かれていると、それだけで気持ちが良かった。簡単なデートだと思えば、これはこれで十分に楽しかった。
「榊田君、差し出がましいことを言うようで恐縮なのだが」
コトハが、珍しく言い難そうにしながら口を開いた。手を後ろに組んで、下を向いて。一つ一つの言葉を噛み締めるみたいにして。コトハは、その話を切り出した。
「今すぐである必要はないんだ。どんなに時間がかかっても構わない。それでも、いつかは――」
シンの耳に、コトハの声が研ぎ澄まされたナイフのように突き立てられた。
「お母様のことを、許してあげて欲しい」
コトハが何を言っているのか、シンにはしばらく判らなかった。黙りこくった二人の間を、ひときわ勢いのある風が吹き抜けていく。立ち尽くしているシンの方をちらりと見て。
コトハは、絞りだすようにして言葉を繋いだ。
「榊田君のお母様のことは、以前に心象世界の中で見せてもらった。榊田君自身からも、断片的な話は聞かせてもらっている」
シンの両親は、シンが幼い頃に離婚した。
「事情は色々とあったのだとは思うよ。そのことについては、四の五のと言うつもりはないんだ」
シンは母と二人きりだった。幼いシンにとって、母だけが唯一の家族、拠り所だった。
「女手一つで生活を支えて、榊田君を育てるというのは並大抵のことじゃない」
シンが十歳の時、シンの母は再婚した。ある日を境に、見も知らない男性がシンの父親を名乗るようになった。
母を独り占めすることができなくなった。シンは母にとっての、唯一の家族ではなくなってしまった。
「榊田君、お母様だって人間なんだ。強いだけじゃない。弱いところもあるんだよ」
妹が産まれた。母と、新しい父の間にできた、新しい家族。そこは明るくて、楽しそうで。
すぐ近く、目の前にあるのに。それでいて手の届かない、シンがいてはいけない場所だった。
「お母様は、榊田君を孤立させるつもりはなかったんじゃないかな。むしろ榊田君が寂しくないように、家庭の暖かさを伝えたかったんだと思う」
シンは家を飛びだそうとした。
何もないシンは、異物である自分を傷付けるだけのその場所にはいたくなかった。
それに最期まで反対していたのは、母だった。母はシンがでていくのを、泣いてすがって止めた。
「榊田君、君は半分でも、空っぽでもないんだ」
住む場所を、学費を。どうしてもお金をださせてほしいと、母は言って聞かなかった。
金額なんて関係ない。繋がっていられるのなら、細い糸で良かった。そこに、縁があり続けるのなら。シンのための何かがあるのなら。
「お金でも何でもいい。それがどんな形であったとしても、お母様は榊田君との間に繋がりを持っていたかったんだよ」
嫌われている。憎まれている。そんなことは判っている。
醜くたっていい。
誰に何と言われようと、どう思われようと構わない。
――それでも。
たとえどんな姿に成り果てようとも、どんなことがあったのだとしても。
繋いだ手を、離さないと決めたのだから。
「榊田君の、母親でいさせてほしかったんだよ」
コトハの目から、涙が一つ流れた。
コトハには、母がいない。
大好きだった母親は、コトハが中学生の時に病気で他界した。
コトハは禁忌を犯してまで母の命を救おうとして、母自身にそれを咎められた。
今となっては、どんなに会いたいと願っていても。
どう足掻いたとしても、手に入らない。
そんなコトハにとって、シンを想う母の気持ちは。
眩しく感じられるほどに羨ましくて。
――そして、あまりにも痛々しかった。
「・・・その代わり、一つ約束してあげる」
コトハはシンの前に立つと、その胸元に頭を当ててきた。心臓の音が、コトハに聞こえてしまっている。苦しくて。悲しくて。締め付けられるような想いで、張り裂けてしまいそうな鼓動が。
「私は生涯で、一度しか結婚はしない。その人だけのものになる。その人のことを・・・一生愛し続けるよ」
シンの心の裡で、血塗れの骸骨が泣いている。
「いらない」といって切り捨てたのは、どちらだったのか。その刃が傷付けていたのは、自分だけだったのか。
省みることのない場所で、本当に悲しんでいるのは――誰なのか。
真っ暗な部屋の中。テーブルの上に残された、一通の暑中見舞い。コトハの身体を腕に抱いて。
シンは大学に入ってから初めて、母の声を聞いても良い――聞きたいと思った。
「Fragment.9 ゆりかごのねがい」は以上で終了となります。
ありがとうございました。




