てのひらにほしを(5)
夜半を過ぎて、宿の中はすっかり静寂に包まれていた。明日は午前中から公民館に移動して、会場の設営と最終リハーサルをおこなう必要がある。余裕の少ないスケジュールだ。みんな早めの就寝を心掛けていた。
一階の広間に、キョウスケは一人でやってきた。同室のシンもアユムも、もう眠っている。なんとなく目が冴えてしまったので、二人を起こさないように一服だけするつもりだった。
明日すぐ車に運び込めるように、荷物はしっかりとまとめてある。それを確認してから、キョウスケは灰皿を探してきょろきょろと辺りを見回した。テーブルの近く、お茶用のポットの脇にあったと思ったのだが。煙草を咥えた状態で広間をうろついていると。
「探し物はこれですか?」
お盆みたいにガラスの灰皿を掌の上に載せて。
コトハが、キョウスケのことをじっとりと睨め付けていた。
「放っておくと喫煙量が増えますね」
「今日は富岡もいるからな。仲間がいるとどうしても吸っちゃうんだよ」
コトハとキョウスケは、向かい合って広いテーブルの前に座った。真ん中に大きな灰皿を置く。キョウスケとヒロエは喫煙仲間だ。二人を放置しておくと、この灰皿に山盛りの吸い殻が誕生することになる。
「一本だけですよ。後はせめて、こっちで」
どん、とテーブルの上に一升瓶が置かれた。なるほど。眠れないのはキョウスケだけではなかったようだ。コップに半分ほど焼酎を注ぐと、コトハはキョウスケに向かって乾杯の仕草を取った。
「今日は、榊田君に沢山気を使わせてしまいました」
たゆたう煙の向こうで、コトハが溜め息を吐いた。コトハからこんな弱音がでてくること自体が、珍しい。いつもはもっと強気で、何を言われても噛み付き返してくるぐらいの気概がある。今のコトハは、ぐいっと頭を押さえて潰してしまえば、そのままぺちゃんこになって消えてなくなってしまいそうだった。覇気が全く感じられない。
らしくない。
「ダメですね。私の方が年上なんだから、ちゃんとリードしてあげないと」
「別に、宮屋敷が甘えたいのなら、それでも構わないんじゃないか? 何でも背負いすぎだろう」
「そうでしょうか」と、コトハは視線を宙に彷徨わせた。キョウスケが見た感じ、コトハが思うよりは、シンはずっとしっかりとしている。コトハのことを考えようとしている。理解し、歩み寄ろうとしている。『ひとおもい』の二つ名は伊達ではない。
だから。
ここでコトハを支えるのは、キョウスケの役割ではないのだ。
「天羽の居場所、本当に心当たりはないのか?」
キョウスケの質問を受けて、コトハの瞳はしっかりと固定された。そこには十分な力が込められている。魔法研究会部長、宮屋敷コトハの顔だった。
「ユイが何か知ってますよ。記憶の中に不自然に強く暗号化されている部分があるんで」
「・・・あっさりだな」
部員の心の中を監視するような真似は、コトハもあまりしたくはなかった。
しかし、ユイとセイが以前付き合っていたという事実は無視できなかったし。そもそもセイが、なぜあの稲荷神社で仕掛けてきたのかがコトハには判らなかった。
コトハとシンに用があるのなら、わざわざあんな神様のお膝元でまで騒ぎを起こす必要はない。あれはわざと派手にやらかしてみせた、演出なのだ。
シキを、宮屋敷家の力を凌駕する『銀の鍵』を、天羽セイが所持していると広く知らしめたかった。そして。
その姿を、橘ユイに見せたかった。
「ユイは何も言ってませんし、私も訊いてません。まあでも、あれはユイなりのサインだと思っています。天羽先輩に関しては、ユイに一任してほしいと」
セイと会ったことを、ユイはコトハに話すわけにはいかない。そういう約束でもしたのだろう。しかし、何かがあった、ということまでは隠すつもりはなかった。暗号化された記憶自体は、むしろわざとらしいほどにさらけだしていた。
その代わりに、記憶の中身の方には、公開されては困る情報が含まれているのか。だとすれば、導きだされる答えはだいぶ絞られてくる。
「大方『バルバロイ』辺りでしょう。魔法使いから逃れるのなら、そのくらいしかアテがない」
魔法使いとの接触を極端に嫌うバルバロイであれば、宮屋敷家の人間などには絶対にその情報を知られたくはないだろう。ユイの記憶を暗号化したのは、恐らくバルバロイの関係者だ。
「そう言えば、天羽はバルバロイの仲介人と繋がりがあったな」
バルバロイがどんなに孤立した場所であろうとも、魔法使いと全く交流がないわけではない。窓口となる仲介人を通して、バルバロイの里へと亡命を図る者は少なからずいた。魔法使いに付け狙われる者、こちらの世界の理に受け入れられない者。『異言語話者の里』は、そういった者たちの避難所だった。
フユという実験体なら、バルバロイの住民たちもすんなりと受け入れてくれると見込まれた。
「いいのか、それを俺に話しちまって?」
キョウスケは元々はコトハの父、宮屋敷リュウゴに師事していた魔法使いだ。今は魔法研究会の顧問であり、非公式ではあるがコトハのお目付け役、という立場でもある。歯に衣着せない表現をしてしまうのならば、キョウスケは所謂『宮屋敷家の手の者』だった。
「佐次本先生は、これをお父様に報告するのですか?」
悪戯っぽく、コトハの目が細められた。いつものコトハだ。イキイキとしている。悪巧みをしている時が一番楽しそうだとか。こんな性格なのだから、『魔女先輩』などと呼ばれることになるのだ。
「リュウゴさんには悪いけど、俺は天羽のことはそれなりに信頼しているからなぁ」
天羽セイは、少なくとも悪意のある魔法使いではない。
『銀の鍵』を私利私欲のために使って、世界をほしいままに改変していく――そんな邪悪な意志とは無縁な男だ。
「私もです。少なくとも、天羽先輩は私よりはずっとまともなハズだ」
あれだけのことをしでかしたのだ。『銀の鍵』を追う者がいれば、そいつらは必ずセイのところに寄ってくる。そこから今回の『銀の鍵』に関する、よからぬ企みを働いた者たちを炙りだして――
一網打尽にでもする腹積もりなのか。無謀なことこの上ない目論見だ。セイの目的がそこにあるのだとすれば、コトハは呆れて言葉もでてこなかった。
コトハの意外なコメントに、キョウスケは思わず、ほう、と嘆息を漏らした。
「なんだ、喧嘩を売られてもっと怒ってるのかと思ってた」
キョウスケのその一言を聞くと、コトハは腕組みして、むむっと眉根を寄せた。
「怒ってますよ。ウマに蹴られて死んじまえですよ」
怒っていないはずがない。コトハにはコトハなりの考えがあって、シンとの関係を育んでいた真っ最中だったのだ。
確かに、シンの可能性の一部を無視したことはコトハの手落ちだ。自分自身が幸せになりたいという想いから、導く先を意図的に操作してしまったことは否定できない。
しかし、だからといってあそこまでするのは、やりすぎだ。
まるでコトハがシンのことを手玉にとって、だまくらかして宮屋敷家が利用しているみたいな言い草だった。冗談ではない。シキに対してもひどい仕打ちをしてくれた。なるほど、先に手を出そうとしたのはシキだったのかもしれないが。それにしたって、産まれる前の子供をあんなに痛めつけるなんて。なんとも大人げない。しかもなんだあの捨て台詞。
『現理、お前の望む理想など――所詮はその程度だ』
色々と思い出し怒りがふつふつと込み上げてきて。
コトハはコップを掴んで残った焼酎を一息に飲み干すと、テーブルに激しく叩きつけた。
「私だって別に、好きで宮屋敷家に産まれたわけでも、『現理』の二つ名を手にしたわけでもないんですよ? それをまあ、『宮屋敷』『宮屋敷』ってネチネチと!」
うわぁ、とキョウスケは思わず上半身を引いた。どうやらコトハの中にある、何かのエンジンに火が点いてしまったようだ。コトハは今度はコップに焼酎を並々と注ぐと。
再び一気に呷った。「ぷはぁ」ダンッ。重い灰皿が、数センチも宙に浮く。コトハの目は、すっかり据わっていた。
「可能性? 努力? 大いに結構。いいじゃないですか、それでちゃんと魔法使いとしてやっていけてるんだから。そっちはそれでいいじゃないですか。そこで私がどんな魔法使いであろうが、天羽先輩にはこれっぽっちも関係ないでしょーが!」
コトハは、セイの在り方を否定したつもりはなかった。未来を自分の手だけで切り開いていく生き方、そういうものもあるだろう。セイがそうありたいと願うのならば、それを肯定するのはやぶさかではない。
しかし――
それならそれで、コトハの生き方にまで口出しをしてくる謂れはないのではないか。
「榊田君のこともそうですよ。確かに彼の二つ名は『ひとおもい』です。私の運命の人です。未来からやってきた娘が紹介してきた相手です。だけど、それを選び取るのは他でもない、『今』、『ここにいる』、『私』の意志なんです!」
シキが連れてきて。
アカシックレコードの上に、コトハと共に幸せに暮らす未来が見えた相手。
榊田シン。
その未来が眩しくて、どうしても欲しかったということは・・・コトハも自分で認めている。反省だってしている。
だが、コトハがシンを選んだのは、それが定められた道だからなのか。
従わなければならないと、二つ名に強制されたからなのだろうか。
そうではない。
コトハは、自らの意志でシンと歩く道を選んだのだ。
この人と幸せになりたいと願ったのだ。
自分を愛してくれる人、自分が愛する人だと、そう信じたのだ。
好きになった人を、自分なりに頑張って、引き留めておこうとしただけだ。
それをいちいち――
「あの男は、やれ二つ名がどうとか、魔法使いの血統のためだとか・・・」
宮屋敷。宮屋敷。
あの仏頂面に、その名前で呼ばれるだけでウンザリする。
「あー、もー!」
コトハはぐしゃぐしゃっと両手で髪の毛を掻き毟った。
「確かに私は宮屋敷家の女で、『現理』です。でも、どっちも好きでやっているわけじゃない!」
コトハはコトハだ。宮屋敷の家名と共に数多くのものを背負ってはいるが。
ここにいるのは、ただの一人の、『宮屋敷コトハ』という女性だ。
やりたくもない嫌なことだってあるし。
人を好きになることだってある。
「榊田君は確かに『ひとおもい』です。シキが連れてきた、私と未来のビジョンを共有する人です。そりゃもう、あれこれと条件は満たしていますよ!」
シンはがりがりの痩せ型で、年下で。
正直言って頼り甲斐はないし。
草すら食べていないような絶食系だし。
やる気があっても、色々と空回り気味なところはあるし。
もうちょっと自己主張はした方が良いんじゃないのか、と思うことすらある。
それでも――
「そういった一切合財を踏まえて! その上で!」
バンッ。
コトハは威勢よく、テーブルの表面を平手で打ちつけた。空っぽになったコップが倒れて、大きく弧を描いて転がった。
「私は榊田君のことを、私たち二人の将来を任せられる人として選んだんです!」
言いたいことを洗いざらいぶちまけて。
はぁはぁ、という荒い呼吸音が、広間の隅々にまで響いていた。身じろぎもできずにいるキョウスケの煙草から、ぽろり、と灰がこぼれ落ちた。かち、かちという時計の音が、民宿の玄関の辺りから微かに聞こえてきた。
どのくらいの間、そうしていただろうか。
「・・・榊田君、いるんだろう? 入っておいで」
ドスの利いた低い声で、コトハは視線を動かさないまま語りかけた。広間の入り口の辺りで、がたんと物音がして。
真っ青な顔をしたシンが、おずおずと中に入ってきた。
「ええっと、声が聞こえたので・・・」
キョウスケが部屋を出る時に、シンは実は起きていた。そのまま眠ってしまおうとしたのだが、どうにも落ち着かない。お茶でも飲んでみようかと広間の前まで降りてきたところで。
コトハの怒号が聞こえてきた、という次第だった。
「丁度良い。こっちにきなさい」
コトハはシンを半目になって睨みつけた。今までにシンが見たことのない酔い方だ。シンはキョウスケに顔を向けて助けを求めたが。キョウスケの表情は「無理」と物語っていた。
無言で手招きされて、シンはコトハの隣に座った。酒の臭いがする。一升瓶も置いてあるし、間違いなく飲んでいるのだろう。酌でもした方が良いのだろうか、とシンが考えあぐねていると。
コトハの髪が、ふわり、と揺れた。
ぐいっと身体が引っ張られて。
シンの方に、コトハが寄り掛かってくる。
コトハの手が、シンの腕に絡みついてくる。
ほんのりと熱を帯びた体温。
ふっくらと包み込むように柔らかい身体。
鼻孔をくすぐる、甘くて、良い香り。
腕全体に、弾力のあるボリューミーな膨らみを感じて。
それがぎゅうっと押し付けられて。
シンの肩に、コトハの小さな頭が、ちょこんと乗せられた。
「佐次本先生、改めてご紹介します」
明るいコトハの言葉が、シンのすぐ近くから聞こえた。
シンの腕を、強く抱き締めて。
ぴったりと全身をくっつけて。
コトハはシンに凭れて、何もかもを任せて、預けてきた。
「私が今、一番好きな人。榊田シン――私の恋人です」
娘が嫁にいくというのは、こういう気分なのかもしれない。
キョウスケはそんなことを思ったが、それはリュウゴに対してちょっと失礼かもしれなかった。本当の父親の方は、どんな気持ちでこの報告を聞くことになるのだろうか。次にその機会があったら、是非聞かせてもらいたかった。
とりあえず、この場では。
「そうか、良かったな、宮屋敷。おめでとう」
祝福の言葉を贈っておこう。
「はい」
そう応えるコトハの笑顔は、きらきらと光り輝いていた。
夏合宿二日目の朝は早かった。シキの由来によるスズメの大合唱に叩き起こされ、寝ぼけたままで朝御飯をかきこみ、車に残りの荷物を積んでいく。食べたばかりの朝食が全て逆流してきそうな、乱暴かつスピーディーな移動を経て。公民館に到着すると、そのまま舞台セットの設営とリハーサルが始まった。
低血圧だとか、寝不足だとか、二日酔いだとか。そんなことを言っている場合ではない。部員たちはみんな慌ただしく動き回って、余計なことを考える暇すらなかった。
午後になると、近隣の住民たちがわいわいと公民館に集まってきた。学校から帰ってきた子供だけではない。大人から、おじいちゃん、おばあちゃんまで。娯楽の少ない地域なのだろう。尖央大学魔法研究会のマジックショーを、みんな毎年楽しみにしているということだった。
魔女帽子をかぶったコトハが舞台に立つと、それだけで拍手喝采が起きた。シンは音響だの照明だのの舞台装置を一人で任されていた。リハーサル通りに、音楽プレイヤーの曲を順序良くリピート再生していく。
コトハの帽子から、村長のカツラのスペアが飛び出して。
会場は爆笑の渦に飲み込まれた。ショーは大成功だが、後で謝っておく必要はあるだろう。夢と希望に溢れたステージの上で、コトハはいつにも増して楽しそうだった。
人がいっぱいで入りきれそうになかったので、キョウスケは外にでていることにした。毎年大盛況で良いことだ。周りに誰もいないのを確認すると、キョウスケはポケットから煙草の箱を取りだした。このくらいのサボりは大目に見てもらいたい。
灰皿の設置された喫煙コーナーまでくると、キョウスケは煙草に火を点けて、ふう、と煙を吐いた。山の上ということもあって、九月の太陽はまだ強烈だ。真夏ほどではないにしろ、十分に日焼けしそうなくらいの暑さを感じる。
こんな中を、いくら白でもトレンチコートを着て歩くなど、狂気の沙汰としか思えなかった。
陽炎のように、ゆらゆらと。
白い人影が、キョウスケの方に近付いてきた。大体半年ぶりくらいか。変わるにはまだ、十分な時間を経ていない。むしろそのまんますぎて、興醒めだ。
「よう、天羽。久しぶりだな」
背の高い、白に包まれた男がキョウスケの前に立った。
「佐次本先生。一本いただけますか?」
そういえばセイも喫煙者だった。仲間がいると、どうしても喫煙量は減らせそうにない。
キョウスケはやれやれと頭を掻いた。




