第101話 天罡吸魔法 その1
さて――
あの時
カイルが妹レイラを騙すようにして、そのもとを去ったのは、カイル自らが徴兵官殺しという罪を一身に背負うためであった……
地面には、徴兵官と兵士二人の遺体が無惨に転がっている。血は土に染みこみ、周囲には鉄臭い匂いが漂っていた。
「……さて、どうしたもんか」
カイルは知っていた。いくら妹に剣の稽古をつけてきたと言えども、自分は剣の振り方さえまったく知らず、間もなくやって来るであろう追手を迎え撃つ力など、一切持ち合わせていないことを。
あと数刻――。この場にとどまっていれば、逃げた兵の仲間が戻ってくるはずだ。
しかし、カイルはの時を待っている。
自分がこの場に残り、彼らの前にしゃしゃり出て、堂々と罪を認める。剣も手に持って、可能な限り戦うそぶりも見せる。
そうすれば、徴兵官達を殺した罪をカイルが一身に背負う事が出来るのだ。
さっき逃げ出した男達も、「本当は自分たちが少女一人に怯えて逃げ帰った」などとは口が裂けても言えないはず、つまり妹に罪が及ぶことは無い――レイラさえ逃げ延びればいいのだ。
「いいか、レイラ。走れ。俺はここで時間を稼ぐ」
レイラは首を振った。「やだ」と、泣きそうな声で言った。小さな拳を握りしめて、まだ戦えるとでも言いたげだった。
カイルは笑って見せた。
「大丈夫だよ。お兄ちゃんがたかだか王国の憲兵なんかに負けると思うかい? 良いかい、全てにかたをつけたら俺もお前の後を追うから――レイラはオルマル村で待っていろ。」
そんなカイルにとっては精一杯の言葉も、兄を誰よりも信じているレイラにとっては頼もしい言葉だった。
カイルは背を向けた妹の背中をそっと押した。ためらうように一歩、二歩。やがてレイラが意を決した様に全力で山道を駆け登り始めると、あっという間にその姿は見えなくなった。
木々の影にひとり残ったカイルもまた、意を決したように大きな呼吸を一つ。
――さあ、準備はできた。
戻ってくる追手に、自分が「唯一の犯人」であると信じ込ませる。それが、今のカイルにできる唯一の戦いだった。
数刻はその場に立っていただろうか――。
陽はゆっくりと西に傾き、木々の間から射し込む光がほんのり赤みを帯びる。
時折、数名の旅人がカイルの脇を通り過ぎていったが、この場所は街道から少し脇へ逸れた森との境い目。地面に転がった三つの死体に気づく者はいなかった。
静けさの中、遠くから馬の蹄の音が響いてきた。最初は一頭かと思われたそれは、やがて幾つもの蹄音が重なり合い、数頭の馬が駆けてくることを告げる。
カイルの表情が途端にこわばる。
――ついに来たか。
三人もの首を刎ねた罪は重い。捕らえられれば極刑は免れないことくらい、カイルも分かっていた。
だが、「捕まる」こと自体には、それほど恐怖を感じていない。
問題は、見つかった瞬間に斬り捨てられること。そうなれば、何の弁明もできず、レイラに罪が及ぶ可能性だってある。
だからこそ、カイルは事前に準備しておいた。
倒れた徴兵官の死体の腹に、自分の剣を深く突き立て、その剣を血に染める。
これを見れば、誰であれ「こいつがやった」と信じるだろう。
剣の使い方など知らずとも、犯人として振る舞う覚悟はとうに決まっている。
しかし――
近づいてくる一団の姿を遠目に捉えたカイルは、思わず眉をひそめた。
先頭にいるのは、紫の艶やかな衣に身を包んだ一人の女。背筋を伸ばして馬にまたがり、風に長い黒髪をなびかせている。
その後ろには、白い長衣をまとい、頭に布を巻きつけた砂漠の民と思しき男たちの姿。独特な形をした剣を腰に履き、いかにも異邦人といった風貌だった。
王国の兵や憲兵とは明らかに異なるその姿に、カイルはひとまず安堵する。
「……旅商人か」
おそらく、関所を越えて王都を目指す商隊の一団だろう。
しかし、余計な関わりを持てば、話が妙な方向に転がりかねない。カイルは背中に隠していた剣をそっと引くと、血の付いた刃が見えぬよう体の後ろへと回し木々の陰へ身を潜めた。
気づかれずに通り過ぎてくれ――。
何事もなく蹄音が目の前を通り過ぎて行く。
が、その直後、音が止まった。
――馬が止まった?
カイルが顔を上げると、目の前をいったん通り過ぎたはずの馬たちが、ゆっくりと向きを変え、再びこちらへと戻ってくるのが見えた。
どういうことだ? なぜ――?
疑問が頭をよぎると同時に、カイルは背中に隠していた剣をそっと正面へ構える。そして木陰から身を隠しながら様子を窺った。
その瞬間――
先頭を行く紫衣の女の顔が、はっきりと見えた。
「……!」
――見覚えがある顔。カイルはこの女を知っていた。
そう、間違いない。彼女はテンジン。つい先日、砂漠の関所で出会った、盲人ギルドのギルドマスターである。
なぜ彼女が、こんなところに――? そんな疑問は直ぐに警戒へと変わる。
当然だった。
ついさっき、カイルから萬寿香を奪おうとした、あの《《鼻の効く男》》も――目が見えてはいなかった。そして、自ら盲人ギルドを自称していたのだ。