天命はエレノアに生きろと伝えた
頬を打つ雫の感触に目を覚ました。
曇天の空は低く、体は冷え切っていた。
「ここ、は……」
霞んだ記憶を辿る。
学園の卒業パーティーに向かう馬車から飛び降りて、崖下に転落した。そこまでは覚えている。
「低木がクッションになったのね。生き延びたのは、天命というやつかしら」
ところどころ枝が掠めて切り傷が出来ている。太ももだけは、細い木の枝が貫通していた。
重たいドレスを引き裂いて紐を作り、傷口を縛る。
「よいしょっ、と」
木の枝を引き抜く。良かった、出血の量は大したことはない。どうやら大きな血管は避けたようだ。
立ち上がって、歩き出す。
街に戻るつもりはない。屋敷に連行されるだけだ。
「あら、あの木の実は……」
見覚えのあるものを見つけ、足を止めずにむしり取る。木苺だ。昔、これをおやつ代わりに食べていたっけ。たくさん取れたら、ジャムにして不味いパンにぬって……。
『木苺なんて嫌いよ。さっさと捨てて』
記憶にある母上は、そう言って木苺を使用人に捨てさせたっけ。じゃあ、誰がジャムを作ってくれたんだっけ。
「あたま、いたい」
頭痛に襲われながらも、木苺を口に放り込む。
季節外れに実った木苺は、信じられないほどに酸っぱい。
『いいかしら、ノア。季節外れの木苺はとっても酸っぱいから食べちゃダメよ。秋になるまで我慢!』
『母さん、我慢できなかったんだね……』
『ちょっとやだ、母さんの助言をそんなふうに解釈しないでちょうだい!』
なら、この記憶でけらけらと笑う「母」はいったい誰なのか。思い出そうとするほどに頭痛と記憶の靄が深くなる。
少し歩いたところで、洞窟を見つけた。
雨が上がるまで、体を乾かしながら休まなくては。
舞踏用のヒールが付いたシューズが擦れて、足の腱がジクジクと痛む。荒れた森で歩くには不向きだったようだ。水脹れが出来ていた。
「ここで、少し休まなくては……」
座り込んだ瞬間に、眠気に襲われる。
そのまま私は意識を手放した。
◇◆◇◆
「エレノアめ、遅刻か」
懐中時計をジャケットの胸ポケットにしまい、ルークはぼやいた。
既に学生の面々は腕を組んでホールに向かっている。待てど暮らせど婚約者の馬車は会場に着いた気配がない。
「……いや、遅刻なんてするだろうか、あいつが」
思い出す婚約者の顔は、無機質に貼り付けられたような微笑み。影で詰られようと、正面きって罵倒されようと相槌をうつばかりの不気味な音を出す人形のようだとルークは密かに感じていた。
まるで己の意思というものがないのだ。
思案に耽るルークを呼び戻したのは、とある馬車が駐車場に乗り込んできた騒ぎによるものだった。
婚約者の属する伯爵の家紋を掲げる馬車に気付き、嫌な予感を覚えたルークが足早に駆け寄る。
「これ、は……」
ルークはあまりの光景に言葉を失う。
御者席に座る男は胸を矢で貫かれていた。口から血を流し、虚空を見る瞳には光がない。既に事切れていた。
「エレノア!」
婚約者の姿を探し馬車の扉を開けるルーク。
もぬけの空となった座席の上には、かつて婚約者に贈ったボタンが落ちていた。
殺された御者、無人の馬車。流されるばかりのエレノアが、動きづらいドレスと靴で逃げ出すわけがない。その予兆すらなかった。
ならば、この状況が示すのは……。
「エレノアが攫われた! 騎士団に連絡を!」
使用人に向かってルークは叫ぶ。
その絶叫は、卒業パーティーの最中であったホールに届くには十分な音量だった。




