給料日の帰り道
第105話 給料日の帰り道
午後五時四十七分。
「お疲れさまでした」
「お疲れー」
「須賀君、明日八時ね」
「はい」
倉庫の通用口を出ると、空はまだわずかに明るかった。
須賀は首を回した。
「……疲れた」
独り言が漏れる。
今日は朝から入荷が多かった。
荷物を降ろす。
伝票を見る。
棚へ運ぶ。
間違えれば戻す。
また運ぶ。
単純な仕事に見えて、意外と頭も使う。
前の職場とは違う。
ここでも嫌なことがないわけではない。
言い方のきつい人間もいる。
妙に細かい人もいる。
仕事が遅いと露骨に顔へ出す人間もいる。
でも。
少なくとも今のところ、
朝、職場へ向かうだけで吐きそうになることはなかった。
それだけで、
ずいぶん違った。
*
駅前のATMに寄った。
残高照会。
数字が表示される。
「……お」
給料が入っている。
須賀は少しだけ笑った。
大金ではない。
家賃。
携帯。
食費。
その他いろいろ。
引けば、残る金はそんなに多くない。
それでも。
自分が働いた分の金だった。
画面を見ながら、しばらく動かなかった。
後ろから人が来たことに気づき、慌ててATMを離れる。
「すいません」
誰にともなく頭を下げた。
*
スーパーに入った。
弁当。
総菜。
飲み物。
須賀はカゴを持って歩く。
今日は給料日だ。
少しくらい。
何か買ってもいい。
刺身の前で止まる。
「……高っ」
やめた。
肉を見る。
「……これも高いな」
やめる。
結局、いつもの値引きコーナーへ行く。
そこで。
ふと止まった。
食パン。
焼きそば。
卵。
ウインナー。
もやし。
須賀はカゴの中を見る。
「……」
少し考えた。
もう一つカゴを取った。
*
午後七時前。
日だまり。
「こんばんは」
「おう」
木戸がいた。
「敦さんは?」
「今日は来るってよ」
「前原さんは?」
「知らん」
「相変わらずですね」
「何がだ」
「誰が来るか誰も知らない」
「そういう場所だ」
須賀は笑った。
両手にスーパーの袋を持っている。
木戸が気づいた。
「何だ、それ」
「買ってきました」
「自分の?」
「こっちは」
右手。
「こっちは、ここに」
左手。
木戸が眉をひそめる。
「多くねえか?」
「今日、給料日なんで」
「だからって」
「いいじゃないですか」
須賀は袋を台所へ運んだ。
食パン。
卵。
ウインナー。
もやし。
焼きそば三袋。
木戸が後ろから見る。
「いくら使った」
「そんなに使ってないです」
「そういう問題じゃねえ」
「前原さんみたいなこと言いますね」
「一緒にすんな」
*
しばらくして敦が来た。
「こんばんはー」
「お疲れさまです」
「あ、須賀君」
敦は台所の食材を見る。
「これどうしたの?」
「須賀」
木戸が答えた。
「え、全部?」
「はい」
「なんで?」
「給料日だったんで」
敦の表情が少し変わった。
「須賀君」
「はい」
「無理してない?」
「してないですよ」
「ほんと?」
「ほんとです」
「生活費、大丈夫?」
「敦さん」
「はい」
「母親みたいになってますよ」
「えっ」
木戸が吹き出した。
「確かに」
「いや、心配しただけで」
「分かってます」
須賀は笑った。
「自分の分もちゃんとありますから」
「ならいいけど……」
敦はまだ少し心配そうだった。
*
その日の夕食は焼きそばになった。
「なんで俺が作ってんだよ」
前原が言った。
「陸斗に作らせます?」
敦が訊く。
「俺がやる」
即答だった。
「そんなに嫌だったんですか、あのチャーハン」
「あれは料理じゃねえ」
「聞こえてるから!」
奥から陸斗の声。
「聞かせてんだよ!」
須賀が笑った。
大和もいる。
蒼もいる。
例の少年もいる。
鉄平は今日は来ていない。
祐介の話も出なかった。
前原がフライパンを振る。
「敦、皿」
「はい」
「木戸、そっちどけ」
「俺なんもしてねえだろ」
「邪魔なんだよ」
「ひでえな」
「須賀、これ開けろ」
ソースを渡される。
「俺も?」
「買ってきたんだから働け」
「理不尽だなあ」
そう言いながら、
須賀は袋を開けた。
*
「いただきます」
みんなで食べ始める。
陸斗が一口。
「うま」
「当たり前だ」
前原が言う。
「俺のチャーハンより?」
「比べんな」
「そこまで?」
「二度と作んな」
「ひどくない?」
笑い声。
須賀も焼きそばを食べた。
普通の味だった。
特別うまいわけでもない。
高級な材料でもない。
スーパーで売っている三袋入りの焼きそば。
それでも。
なんだかうまかった。
*
食事のあと。
須賀は財布を開いた。
千円札を一枚出す。
テーブルに置いた。
それを前原が見つけた。
「何だこれ」
「食費」
「いらねえ」
「いや」
「持って帰れ」
「でも俺、最近結構食べてるし」
「須賀」
「はい」
「お前、今日いくら使った」
「え?」
「買い物」
「二千……ちょっと」
「じゃあ十分だ」
「でも」
「給料入ったからって気ぃ大きくすんな」
「そんなつもりじゃ」
「来月も給料日あるんだろ」
「まあ」
「じゃあ残しとけ」
前原は千円札を須賀へ押し返した。
「自分のために」
須賀は黙った。
「……はい」
財布へ戻した。
*
午後九時過ぎ。
須賀は日だまりを出た。
「じゃ、お疲れさまでした」
「おう」
「明日仕事?」
敦が訊く。
「八時からです」
「早く帰って寝なよ」
「やっぱ母親じゃないですか」
「違うって!」
須賀は笑って手を振った。
夜道を歩く。
駅へ向かう。
ポケットには、
さっき返された千円札。
須賀は歩きながら考えた。
以前なら。
給料が入った日は、
まず安心した。
今月もなんとかなる。
それだけだった。
今日は違った。
誰かと食べるものを買った。
それが少し嬉しかった。
でも。
全部を差し出す必要はない。
ここにいるために、
何かを払う必要もない。
来たいから来る。
食べる。
たまに何か持ってくる。
疲れていたら来ない。
それでいい。
「……明日はやめとくか」
須賀は呟いた。
仕事が終わったら、
真っすぐ帰ろう。
風呂に入って。
適当に飯を食って。
早く寝よう。
明後日は。
その時考えればいい。
*
翌日の夜。
日だまり。
「須賀さん今日来ないの?」
大和が訊いた。
「仕事じゃね?」
陸斗が答える。
「昨日、明日は来ないって言ってたよ」
敦が言った。
「へえ」
それで話は終わった。
誰も電話しない。
誰も心配しない。
誰も、
どうして来ないんだ、
とは言わない。
前原がテレビを見ながら言った。
「敦」
「はい」
「卵まだあったよな」
「須賀君が買ってきたのありますよ」
「じゃあ使うか」
「何作ります?」
「親子丼」
「おお」
「陸斗」
「はい?」
「お前は触んな」
「まだ言う!?」
また笑い声が上がった。
須賀はいない。
それでも、
昨日、須賀が買ってきた卵はそこにある。
来ない日があってもいい。
いない日があってもいい。
次に来たとき、
普通に、
「おう」
と言えるなら。
たぶん。
それが一番いい距離だった。




