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WAY HOME ――行き場をなくした僕らの、小さな食卓――  作者: 和泉發仙


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まぁ座りな

第1話 まぁ座りな


オープニング


失敗は、いきなり落ちてくるものじゃない。

少しずつ、足元の板が薄くなっていく。


派遣のシフトが減る。

家賃の引き落とし日が近づく。

スマホ代の通知が赤くなる。

母親からの「元気?」に、返事ができなくなる。


岡野敦、三十八歳。


何者でもない。

何かになれなかった。

それでも、死ぬほど困っているわけではないと思っていた。


思っていたかった。


その夜、敦はスマホの画面を見つめていた。


《即日払い》

《未経験歓迎》

《簡単作業》

《当日三万円》


怪しい。


そんなことは分かっていた。


けれど、分かっていることと、選べることは違う。


「……一回だけや」


誰に言うでもなく、敦はそう呟いた。


雨が降っていた。

夜の街は、濡れたネオンでぼやけていた。


指定された場所は、駅から少し外れた雑居ビルの裏だった。


そこには、同じような顔をした男たちが数人いた。


若い男。

金髪の男。

作業着の男。

目を合わせない男。


敦も、その一人だった。


しばらくして、黒いジャンパーの男が現れた。


「スマホ出して」


「え?」


「作業中邪魔だから。預かるだけ」


その瞬間、敦の胃が縮んだ。


帰った方がいい。

今ならまだ帰れる。


そう思った。


けれど、誰も帰らなかった。


だから敦も帰れなかった。


名前も知らない男たちと一緒に、裏口から建物に入る。

中は湿ったコンクリートの匂いがした。


運ばされたのは、段ボールだった。

中身は分からない。

聞くなと言われた。


「落とすなよ」


「はい」


「開けんなよ」


「はい」


「遅ぇよ」


「すみません」


敦は謝ってばかりいた。


昔からそうだった。

怒られる前に謝る。

相手の機嫌を読む。

なるべく小さくなる。


そうしていれば、だいたいは通り過ぎた。


でも、その夜は通り過ぎなかった。


途中で、敦は見てしまった。


段ボールのひとつが少し開いていた。

中に、誰かの財布がいくつも入っていた。


血の気が引いた。


これは違う。


これは、ただの搬入じゃない。


敦は立ち止まった。


「おい、なに止まってんだよ」


黒ジャンパーの男が振り返る。


敦は口を開いたが、声が出なかった。


「トイレ……」


とっさに嘘をついた。


男は舌打ちした。


「早くしろよ」


敦は廊下を曲がった。


トイレなんてなかった。


非常階段が見えた。


次の瞬間、敦は走っていた。


階段を駆け下りる。

膝が笑う。

胸が苦しい。

足音が後ろから追ってくる。


「おい!」


「逃げたぞ!」


敦は外へ飛び出した。


雨が顔に当たった。


夜の街は、思っていたより明るかった。

けれど、その明るさは助けてくれなかった。


敦は走った。

息が切れた。

肺が焼けるようだった。


背中で怒鳴り声がした。


「待てコラ!」


足がもつれた。

滑った。

膝を打った。


立ち上がろうとした瞬間、腕を掴まれた。


「逃げんなよ」


敦は振り返った。


さっきの黒ジャンパーではなかった。

別の男だった。

若く、目つきが悪い。


もう一人が、路地の先で車の扉を開けていた。


黒いハイエース。


敦は全身が冷たくなった。


「乗れ」


「いや、あの、すみません、ほんまに、すみません」


「いいから乗れ」


「違うんです、僕、知らなくて」


「知らねぇで済むかよ」


腕をねじられた。


痛い。


声が出ない。


雨の音だけが大きかった。


敦は思った。


ああ、終わった。


こんな終わり方なんか。


三十八年生きて、最後がこれか。


求人サイトの《即日払い》を押しただけで。


情けなさと恐怖が、ごちゃまぜになった。


その時だった。


「おい」


低い声がした。


男たちの動きが止まった。


路地の入口に、ひとりの男が立っていた。


年は五十前後。

太い首。

濡れた作業着。

手にはコンビニ袋。


顔は怖かった。


助けに来た人間の顔ではなかった。


男はゆっくり歩いてきた。


「なにしてんだ、お前ら」


若い男が舌打ちした。


「関係ねぇだろ」


「関係あるかどうかは、こっちで決めんだよ」


空気が変わった。


敦にも分かった。

この人は、普通の人ではない。


作業着の男は、敦の腕を掴んでいた男をじっと見た。


「離せ」


「は?」


「離せっつってんだよ」


声は荒くなかった。


だから余計に怖かった。


若い男は一瞬だけ迷い、敦の腕を離した。


敦はその場に崩れそうになった。


作業着の男は、ハイエースの方を見た。


「最近よぉ、雑なの増えたな」


誰も何も言わなかった。


「こんなヒョロいの詰めたって、金になんねぇだろ」


若い男が小さく舌打ちした。


「行くぞ」


ハイエースの扉が閉まった。


車は雨の中へ消えていった。


敦はまだ動けなかった。


作業着の男がこちらを見た。


「お前」


「は、はい」


「バカか」


敦は何も言えなかった。


「今どき、あんな求人に引っかかる奴いんのかよ」


「……すみません」


「俺に謝ってどうすんだよ」


男はため息をついた。


それから、コンビニ袋を持ち替えた。


「名前」


「……岡野、敦です」


「歳」


「三十八です」


男は少しだけ眉を動かした。


「三十八でこれか」


胸に刺さった。


でも、言い返せなかった。


男はさらにため息をついた。


「腹減ってるか」


敦は答えられなかった。


空腹だった。

けれど、空腹だと言うことが、なぜか恥ずかしかった。


男は勝手に頷いた。


「来い」


「え?」


「死にそうな顔してんだよ。来い」


敦は迷った。


この人も十分怖い。


さっきの連中と何が違うのかも分からない。


けれど、置いていかれる方がもっと怖かった。


敦は、濡れた靴を引きずるようにして、男の後をついていった。


男の名前は、川本竜司と言った。


道中、川本はほとんど喋らなかった。


敦も喋れなかった。


雨の音。

遠くの電車の音。

濡れたアスファルトを車が走る音。


それだけが続いた。


しばらく歩くと、古い建物の前に着いた。


元は何かの事務所だったのだろう。

シャッターの横に、鉄の扉がある。


川本は鍵を開けた。


中に入ると、煙草と味噌汁のような匂いがした。


テレビの音が小さく流れていた。

古いソファ。

折りたたみ机。

カップ麺の空き容器。

電子レンジ。

段ボール。

誰かの上着。


生活と事務所と避難所が、ぐちゃぐちゃに混ざったような場所だった。


奥から声がした。


「おい、カー坊。なんだよそいつはよ!?」


低く、太い声。


敦は反射的に肩をすくめた。


奥にいた男は、川本より年上だった。


白髪まじりの短髪。

厳つい顔。

くたびれたジャージ。

片手に湯呑み。


その男が、前原正義だった。


川本は靴を脱ぎながら言った。


「ヨシさん。コイツ、飛ばされかけてましたよ」


前原の目が細くなった。


「飛ばされ……?」


川本は顎で敦を示した。


「裏バイトっすよ。ハイエースに詰められる寸前」


前原は一瞬、黙った。


そして、怒鳴った。


「馬鹿野郎!!」


敦の体が跳ねた。


「何してんだオメエ! 面倒な連中に首突っ込んで、生きて帰れると思ってんのかよ!」


「す、すみません……」


「謝んなってんだよ! 謝って済むなら、こんな顔してねぇだろ!」


前原は自分の顔を指差した。


敦は何も言えなかった。


怒られている。

でも、追い出されてはいない。


それが分かった。


前原は川本を見た。


「カー坊、タオル」


「はいよ」


川本が奥からタオルを投げた。


敦の胸に当たって落ちる。


「あ、すみません」


「だから謝んな」


川本が面倒くさそうに言った。


前原は湯呑みを置いた。


「座れ」


敦は戸惑った。


「え?」


「聞こえねぇのか。座れって言ってんだよ」


敦はおずおずとソファの端に座った。


濡れた服が気になった。


ソファを汚してしまうと思った。


けれど前原は、そんなことは気にしていないようだった。


「飯は?」


「……食べてないです」


「いつから」


「昼……くらいから」


「カー坊」


「分かってますよ」


川本が電子レンジの方へ行く。

冷蔵庫を開ける音。

ラップを剥がす音。

レンジのボタン音。


前原は敦の向かいに座った。


「岡野っつったか」


「はい」


「なんであんなとこ行った」


敦はタオルを握った。


言いたくなかった。


でも、前原の目から逃げられなかった。


「金が……なくて」


「働いてねぇのか」


「派遣です。でも、シフト減って」


「家賃か」


敦は頷いた。


前原は鼻で息を吐いた。


「よくある話だな」


よくある。


その言葉に、敦は少しだけ救われた。


特別に馬鹿なわけではない。

少なくとも、この人はそういう顔をしなかった。


川本が茶碗を持ってきた。


白飯。

味噌汁。

冷めた唐揚げを温めたもの。


「ほら」


「あ、ありがとうございます」


敦は箸を持った。


手が震えていた。


最初の一口を飲み込んだ瞬間、急に涙が出そうになった。


うまい、というより、熱かった。


胃に落ちる感じがした。


自分がまだ生きている感じがした。


前原は煙草に火をつけた。


「泣くなよ」


「泣いてません」


「泣きそうな顔してんだよ」


敦は黙って飯を食べた。


川本が壁にもたれた。


「ヨシさん、あの辺、最近また増えてますよ」


「知ってる」


「若いのだけじゃないっすね。こういうおっさんも引っかかる」


「おっさん言うなや……」


敦は思わず小さく言った。


川本がこちらを見た。


一瞬、空気が止まった。


敦はしまったと思った。


けれど川本は、ふっと笑った。


「言い返す元気あんじゃねぇか」


前原も口の端を少しだけ上げた。


「三十八なら、おっさんだろ」


「……はい」


「そこで認めんのかよ」


川本が呆れたように言った。


敦は久しぶりに、ほんの少しだけ笑った。


前原は煙を吐いた。


「いいか、岡野」


「はい」


「ああいう仕事はな、一回入ると抜けづれぇ」


敦は箸を止めた。


「金がねぇ奴は、すぐ戻る。怖かったくせに、また戻る。日払いだからな。履歴書いらねぇからな。誰も過去聞かねぇからな」


前原の声は、怒鳴り声ではなかった。


淡々としていた。


だから怖かった。


「普通の場所で弾かれた奴ほど、ああいう場所が楽に見えんだよ」


敦は何も言えなかった。


その通りだった。


派遣先では、いつも緊張していた。


返事。

挨拶。

空気。

手順。

スピード。

ミス。

休憩のタイミング。


全部が怖かった。


でも、あの裏バイトは怖いのに、どこか単純だった。


来い。

運べ。

黙れ。


それだけ。


その単純さに、ほんの少しだけ安心しかけた自分がいた。


前原は続けた。


「悪い場所だから落ちるんじゃねぇ。今の自分に合っちまうから落ちるんだよ」


敦は茶碗を見つめた。


白飯の湯気が薄く上がっている。


「……僕、やっぱり馬鹿ですね」


前原は即座に言った。


「馬鹿だよ」


敦は固まった。


川本が笑った。


「ヨシさん、そこ否定してやれよ」


前原は煙草を灰皿に押しつけた。


「馬鹿だけど、死ぬほどじゃねぇ」


敦は顔を上げた。


前原は湯呑みを持った。


「飯食って、寝て、明日考えろ」


「でも……」


「でもじゃねぇよ」


前原は少しだけ身を乗り出した。


「今のお前が考えたって、ろくなことになんねぇ。腹減って、濡れて、ビビって、金なくて、そんな頭で人生決めんな」


敦は言葉を失った。


前原は立ち上がった。


「カー坊、奥の布団空いてるか」


「空いてますよ。たぶん」


「たぶんってなんだよ」


「昨日、誰か寝てたんで」


「誰だよ」


「知らねぇ」


「知らねぇ奴泊めんな」


「ヨシさんもよくやってるでしょ」


前原は舌打ちした。


敦は、そのやり取りをぼんやり見ていた。


怖い人たちだ。


間違いない。


でも、さっきの連中とは違う。


何が違うのか、まだ分からない。


ただ、ここでは誰も敦の財布を奪わなかった。

スマホを取り上げなかった。

殴らなかった。

笑わなかった。


前原が戻ってきた。


「岡野」


「はい」


「今日は寝ろ」


「……いいんですか」


「いいも悪いも、そんな顔で帰らせたら夢見悪ぃだろ」


川本が缶コーヒーを開けた。


「ヨシさん、そういうとこありますよね」


「うるせぇよ」


敦は小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


前原は顔をしかめた。


「礼は明日でいい」


「はい」


「あと」


前原は鉄の扉を指差した。


「入るなら鍵閉めろ。出る時も閉めろ。そういうとこ雑な奴は、だいたいろくでもねぇことになる」


「……はい」


敦は妙に真面目に頷いた。


前原は少し笑った。


「まぁ座りな、って言ったけどよ」


敦を見る。


「座ったからには、飯ぐらい食ってけ」


その言葉が、敦の胸に残った。


座ったからには。


それは、働けでも、頑張れでも、反省しろでもなかった。


ただ、座れ。

飯を食え。

寝ろ。


たったそれだけ。


でも、その夜の敦には、それだけで十分だった。


奥の部屋には、薄い布団が敷かれていた。

窓の外で雨が降っている。


敦は横になった。


天井の染みを見つめる。


スマホは手元に戻っていた。

通知は何件か来ていた。


家賃。

派遣会社。

母親。


敦は画面を伏せた。


隣の部屋から、前原と川本の声が聞こえた。


「カー坊」


「はい」


「あいつ、しばらく来るかもな」


「来ますかね」


「来るよ」


「なんで分かるんすか」


「顔だよ」


少し沈黙。


前原の声が、低く続いた。


「行く場所ねぇ顔してた」


敦は目を閉じた。


行く場所がない。


その言葉は、痛かった。


でも不思議と、嫌ではなかった。


夜の街で、ハイエースに詰め込まれかけた。

情けなくて、惨めで、馬鹿みたいな夜だった。


けれどその終わりに、誰かが言った。


まぁ座りな。


その一言で、敦の人生が変わるなんて、まだ誰も知らなかった。


敦自身も、知らなかった。

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