第2話 廊下の衝突とトゥンクの衝撃波
人体の構造上、日常的な歩行運動は極めて退屈な定常業務に属する。
骨格が体重を支え、関節が適切な角度で稼働し、下半身の筋肉群が交互に収縮と弛緩を繰り返す。脳からの指令パルスも「移動教室へ向け、通常速度で前進せよ」という、テンプレート通りの平穏なものだった。
少なくとも、あの運命の曲がり角に到達するまでは。
「こちら筋肉。第三関節および大腿四頭筋、順調に推進力を供給中。時速四・二キロメートルを維持。なお、移動教室の開始時刻まで残り三分であるため、軽微な出力向上を申請するであります」
「許可する」
中枢管理室の脳が、淡々とキーを叩くようなシグナルを返した。
「二階フロア、物理準備室前の廊下を通過中。次のT字路を右折すれば目的地だ。全器官、通常巡航を継続せよ」
「了解であります! 歩幅を五センチ拡大!」
筋肉が軍隊調に号令をかけ、足取りが軽快に加速する。
平和だった。胃の内部には先刻流し込まれた消化中のカフェオレが静かに揺れており、食道も退屈そうに欠伸を噛み殺していた。
まさにその時、最前線で外部状況をスキャンしていた眼球から、耳を劈くような絶叫が飛び込んできた。
「緊急警報! 正面二時の方向、死角より障害物が急速接近!」
「何だと!?」
脳の処理クロックが一気に跳ね上がる。
「距離、相対速度を割り出せ!」
「距離二メートル……一メートル! 曲がり角の向こうから突如出現! 質量およそ六十五キログラム、人型オブジェクト! 相対速度は時速約六キロ! 回避不能、衝突コースです!」
「総員、耐衝撃姿勢! 筋肉、直ちに逆噴射をかけろ!」
脳がけたたましい警報を鳴らしたが、すでに物理法則が官僚の判断速度を追い越していた。
「制動が間に合わんでありますううううっ!」
――ドッシャァァァン!!
鈍く重い衝撃波が、人体の外殻を容赦なく揺るがした。
「激突を確認!」
衝撃の直撃を受けた皮膚が、痛覚パルスを火花のように散らしながら叫ぶ。
「左肩部および胸部外殻に強い物理圧力を感知! 表層細胞に局所的な打撲ダメージ発生!」
「骨格・関節より被害報告!」
頑強なカルシウムの防壁を誇る骨格が、軋むような音を響かせながら報告を上げた。
「鎖骨および肋骨フレーム、衝撃を外周へ分散完了! クラックなし、骨折なし! 関節の脱臼も回避した! 我々の構造強度を舐めるなよ!」
「臀部、床面と二次衝突! 脂肪層がクッションとなり衝撃を吸収!」
「ふう……」
脳が安堵のため息に似た波形を漏らした。
「物理的損害は軽微だな。打撲傷に対しては、現場の毛細血管が速やかに内出血の拡大を防ぎたまえ。やれやれ、不注意な外部オブジェクトとの接触事故か。直ちに体勢を立て直し、移動教室へ――」
だが、脳の平穏な事態収拾プランは、次の瞬間に完全に叩き潰された。
眼球が、床に倒れ込んだ持ち主の視界を捉え、その焦点を正面へと合わせた瞬間である。
「……大丈夫? 怪我なかったかい?」
鼓膜が拾い上げたのは、鈴を転がすように耳心地の良い、柔らかな低音の音声データだった。
同時に、眼球の高性能レンズが、目前に差し伸べられた「手」と、その先にある「顔面」を高解像度で捉えた。
逆光の中に浮かび上がる端正な顔立ち、心配そうにこちらを覗き込む涼やかな瞳、微かに乱れた髪。
その距離、わずか三十センチ。
「視覚情報、中枢へ転送!」
眼球が息を呑むようなシグナルを送った。
「対象オブジェクトの照合を開始……照合……照合……該当データあり! 先日の『くしゃみ発作事案』において、鼻腔が感知した未知のフェロモン発生源! ならびに、持ち主が以前から遠巻きに視線を送っていた特定個体――登録コード『あの方』と完全一致!」
「なっ……!?」
脳のシナプスが激しく明滅した。
「『あの方』だと!?なぜこのような辺境の廊下で単独エンカウントするのだ!確率論的に異常値だ!」
その動揺が全身へ伝播するよりも早く、人体の最深部で“それ”は起きた。
循環器系の最高責任者たる心臓が、突如としてすべての弁をぎゅっと硬直させたのである。
ドクン――……。
すべての音が消えた。
全身の血管ネットワークから血流が途絶え、完全な静寂が体内を支配する。
「おい、心臓!?」
脳が血相を変えて呼びかけた。
「どうした、心臓! なぜ拍動を停止した! 心停止は規定違反だぞ!」
だが、心臓は脳の呼びかけなど耳に入っていない様子で、熱に浮かされたように呟いた。
「……あ……ああっ……」
「心臓!?」
「……見つめられた……。至近距離で……手が……差し伸べられて……」
「おい、正気に戻れ!」
心臓は、静かに、しかし宇宙が誕生するかのような途方もないエネルギーを込めて、全身へ向けて宣戦布告した。
「――トゥンク。」
ドッッッッッグォォォォォン!!!!!
全身の神経ラインを焼き尽くさんばかりの、超ド級の衝撃パルスが炸裂した。
それは自律神経系の制御プログラムを木っ端微塵に粉砕し、安全装置をすべて焼き切る、暴力的なまでの感情の爆発だった。
「ひゃああああああああっ!?」
胃がひっくり返るような悲鳴を上げた。
「な、何ですかこの衝撃波は!? 心臓が爆発しましたか!?」
「心拍数急上昇!」
計器類を監視していた脳が絶叫した。
「BPM八十から一気に百六十を突破! 百八十……二百!? バカな、回転数がレッドゾーンを振り切っている! おい心臓、減速しろ! ピストンが焼き付くぞ!」
「止められるかよおおおおおっ!」
心臓は真っ赤に発熱し、蒸気を吹き出しながら絶叫した。
「このトキメキを物理法則で抑え込めると思うな!回せ回せ回せぇぇぇっ!血液を全シリンダーへ送り込め!生きているって素晴らしいィィィッ!」
「狂ったか貴様!」
心臓の暴走により、全身のパイプラインを預かる血管たちが阿鼻叫喚の地獄へと叩き落とされた。
「内圧異常上昇! 本管破裂の危機!」
幹線血管が悲鳴を上げる。
「送り出される血液の量が多すぎます! どこへ逃がせばいいんですか!?」
「手足の末梢へ回せ!」と脳が叫ぶ。
「ダメです!」と筋肉が遮る。
「現在、全身の骨格筋は極度の緊張によりガチガチに硬直中! 毛細血管の受け入れスペースがありません!」
「ではどこへ血液が向かっている!?」
その問いに答えたのは、頭部の末端で作業にあたっていた現場部隊だった。
「こちら、顔面毛細血管統括部!」
パニックに陥った通信が飛び込んでくる。
「全身から逃げ場を失った高圧血液が、怒涛の勢いで顔面エリアへ逆流してきています!頬、鼻腔周辺、耳朶のゲートが水門決壊により全開放! 冷却限界を完全にオーバーしました!」
「皮膚、状況はどうなっている!?」
「どうなっているも何も!」
皮膚が怒り狂ったように怒号を返した。
「顔面が茹で上がったトマトのように真っ赤です!表面温度が急上昇して湯気が出そうですよ!至近距離でこんな顔を見られたら、持ち主の社会的尊厳が消滅します!今すぐ血流を止めなさい!」
「無理を言うな、心臓が物理レバーをへし折ってフルスロットルで固定しているんだ!」
その間にも、外部の『あの方』は優しく手を差し伸べたまま、不思議そうにこちらを見つめている。
「……顔、すごく赤いけど……熱でもあるの?立てる?」
鼓膜から届く甘やかな音声信号が、心臓の燃料タンクへさらに高純度ガソリンを注ぎ込む。
ドカドカドカドカッ!と、心臓のドラムロールはもはや乱打戦の様相を呈していた。
「まずい、このままでは完全に異常個体として認識される!」
脳が冷や汗を流しながら、必死の演算処理を開始した。
「全シナプスに緊急命令! 大人の落ち着いた対応をシミュレートせよ! 微笑みを浮かべつつ、『いえ、少し驚いただけです。ありがとうございます』と優雅に礼を言い、差し伸べられた手を取って立ち上がるのだ! これ以上の失態は許されない!」
「司令室、無茶言わないでください!」
音響出力担当の声帯が、引き攣った声で悲鳴を上げた。
「肺からの空気供給が過換気状態でメチャクチャです!横隔膜も心臓の振動でガタガタ震えていて、正常な周波数の発声なんて不可能です!」
「気合で音程を合わせろ!出力テキストを送信する! 言え、『大丈夫です』と!」
「じゅ、受信……出力ポート、開放……!」
そして、持ち主の口から放たれた音声は――。
「あ、あばばばばばっ、だいじょうびでふうううううっ!!」
裏返った怪鳥のような奇声が、静かな廊下に木霊した。
「……」
「……」
全身の臓器が、一瞬で凍りついた。
眼球が捉えた『あの方』の表情は、驚きと困惑でポカンと固まっている。
「……え?」
「……あ」
脳が、壊れた機械のように呟いた。
「……終わった」
次の瞬間、人体の生存本能が理性を完全に上書きした。
恥辱。パニック。逃避欲求。それらの感情パルスが最大出力で筋肉へ直結される。
「緊急脱出!」
筋肉が吼えた。
「持ち主の尊厳防衛プロトコル発動!両脚ユニット、最大トルクで床を蹴れええええっ!」
ズバァァァッ!
持ち主の身体は、差し伸べられた手を払いのけるような勢いで跳ね起きると、脱兎のごとく廊下を逆噴射疾走し始めた。
「ちょ、ちょっと待って!?」という『あの方』の制止の声を背中に浴びながら、時速二十キロを超える猛ダッシュで角を曲がり、女子トイレの個室へと滑り込んで鍵をガチャンと閉めた。
――ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ……。
狭い個室内で、持ち主は便座の蓋の上に崩れ落ち、膝を抱えて激しく息を乱していた。
(……死ぬ……! 死ぬ死ぬ死ぬ! 何今の!? なんで『あばばば』とか言っちゃったの私!? 絶対変な奴だと思われた! 消えたい、今すぐこの世から消滅したい……!)
持ち主の激烈な自己嫌悪と後悔の念が、黒い嵐となって神経ネットワークを吹き荒れる。
だが、その嵐の底から、ぽつりと小さな本音が浮上してきた。
(……でも……すっごく近くで目、合っちゃったな……。手……大きかったな……)
体内では、各器官が泥沼の戦後処理に追われていた。
肺はヒューヒューと過換気の後遺症に喘ぎ、顔面毛細血管は熱を持ったまま冷めやらず、声帯は過度の緊張で痙攣している。
そしてすべての元凶である心臓は、エンジンの燃焼室から黒煙をモクモクと上げながら、満足げにその場へへたり込んでいた。
「……ふう。いい仕事をしたぜ……」
「どこがいい仕事だ、この大馬鹿者が!」
脳が憤怒のスパークを散らしながら怒鳴りつけた。
「貴様の暴走のせいで、第一印象構築ミッションは完膚なきまでに大失敗だ! あの方の脳内メモリに、我々は『奇声を上げて逃走する不審者』としてインプットされたのだぞ!」
「だが脳よ、否定はさせんぞ」
心臓は煙を吐き出しながら、ニヤリと笑うようなパルスを返した。
「お前だって、あの瞬間の映像と音声、最上位の保護領域にガチガチに暗号化して保存しただろうが」
「う……」
脳は言葉に詰まった。
確かに、中枢メモリの最深部には、新規作成された『あの方(最重要・消去不可)』という名前のフォルダが、厳重なロックをかけられて鎮座していた。
静まり返った個室の中、持ち主は赤く火照った顔を両手で覆いながら、情けない声で小さく呟いた。
「……もうやだ。廊下で走ったから、心臓発作起きそうなくらいバクバクしてる……。運動不足かな……」
「……運動不足のせいにされたぞ」
心臓が呆れたようにぼやいた。
「これだけの命がけのパッションをぶち込んでおいて、結論が『運動不足』とはな」
「持ち主の自己認識能力は、相変わらず救いようのないレベルだな」
脳は深くため息をつき、保存されたばかりの『あの方』の笑顔データを、誰にも見つからないようそっとアーカイブの奥へ仕舞い込むのだった。
(了)




