第1話 異常事案対策課
胃は、朝から落ち着かなかった。
特に何が、というわけでもない。強いて言えば、あの感覚だ。何かが来る前の、静かな前触れのような。胃はそれを言語化できないまま、ただじっと内壁を収縮させていた。今日の朝食はお粥だった。軽い。負担にならないはずの相手だった。
「バックしまーす。『お粥様』が戻られます」
そう宣言したものの、食道が渋い声で制止した。
「だから一方通行だって言ってるだろ。上からのお達しだ。軽い客は戻すな」
胃はしゅんとした。
「でも、なんか変なんだよ。『お粥様』がまだ消化されてないんだ」
「知らん。正規の出口があるだろうに」
食道は素っ気なかった。だが、そのとき、十二指腸が青ざめた声を漏らした。
「ウッ……プ」
食道が黙り込む。嫌な予感がした。
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人間の体内では、すべての臓器が人格を持ち、それぞれの持ち場で淡々と仕事をこなしている。給与は発生しない。有給もない。休日もない。持ち主が倒れれば全員道連れだ。それでも臓器たちは、今日も粛々と職務を遂行する。義務だから、ではなく、そうするほかに選択肢がないから。
臓器省には、日常的な業務を管轄する各部署のほかに、異常事案対策課という部門が存在する。設立の経緯は古く、詳細は省くが、要するに「通常の処理系では分類できない案件」を引き受けるための窓口だ。出動頻度は高くない。しかし、出動した日は、たいていろくなことにならない。
だが今日は、どこか様子がおかしかった。
まず、『目』方面から緊急連絡が入った。
「ちょっと!気軽に目ヤニのせないで!」
「涙腺くんが暴走してる。感染の疑いあり」
「あぱ、ぱぱ」
睫毛の悲鳴と眼球の冷静な報告、そして涙腺の意味不明な発言に、対策課はざわついた。もともと涙腺というのは、真面目なのか不真面目なのか判断の難しい部署だ。感情系の案件になると途端に制御が利かなくなる傾向があり、上層部でも長年の懸案事項になっていた。だが今日の様子は、それにしても少し質が違った。
さらに、『鼻』方面からも通報が届く。
「異物侵入! 花粉じゃない、もっと……生きてる感じの……」
「むずむずする……これは嫌な予感しかしない」
鼻腔の切羽詰まった報告に、副鼻腔が不吉な推測を重ねる。
胃は胃で、さっきからずっと落ち着かなかった。消化の手を止めて、ぼんやりと上方を見上げるような仕草をした。臓器に目はないが、そういう気分だった。
「なんか、全体的に変だよね……」
食道はため息をついた。
「今日は全員、調子が悪いらしい」
その声に、いつもの素っ気なさはなかった。
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そして事件は起きた。
突然、全身に電撃のような信号が走った。筋肉が叫ぶ。
「全ユニットに告ぐ!外部から『くしゃみ指令』発動!」
鼻腔が震えた。
「ちょ、待って!まだ異物の正体が――」
だがもう遅い。
肺が大きく息を吸い込み、横隔膜が跳ね上がる。体中の空気が一か所へ向かって収束していく。全身の臓器が一瞬、固唾をのんだ。
「発射準備……3、2、1……!」
――ズビャアアアアアッ!!
強烈なくしゃみが炸裂した。
「異物、排出成功……って、あれ?」
と鼻腔が首を傾げる。
「涙腺くん、正気に戻った?」
「『お粥様』、戻らなくて済んだ……よかった」
眼球が安堵の声を上げ、胃は心底ほっとしたように呟いた。
臓器たちは胸をなでおろした。嵐が過ぎたと、誰もがそう思った。
しばらく、静寂があった。各器官が損傷確認を終え、平常業務に戻ろうとしていた、ちょうどそのときだ。
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脳が、静かに口を開いた。
「……おかしいな。くしゃみの原因となる異物、外部カメラ『目』にも、内部センサー『鼻』にも記録がない」
臓器たちはざわついた。
「じゃあ、何に反応したんだ?」
「花粉でもウイルスでもないのに?」
「涙腺くんの暴走も、胃の不調も、全部つながってるのか?」
脳はしばらく沈黙した。データを処理する時間だ。こういうとき、脳は何も言わない。臓器たちは待つしかなかった。沈黙が長ければ長いほど、その答えが良いものではないことを、彼らは経験的に知っていた。心臓だけが、妙に騒がしかった。さっきから一度も、報告を上げていなかった。
やがて、脳は重々しく告げた。
「……どうやら"外"の人間が、この体の持ち主に近づいてくる何かに反応したらしい」
臓器たちは息をのんだ。
「何かって……何?」
「危険物?」
「未知の病原体?」
脳は答えた。
「――『気になる人』だ」
全臓器が凍りついた。
「そ、それって……」
胃が震える声を漏らす。
「……すまん。さっきから勝手にドキドキしてたのは私だ」
気まずそうに心臓が白状すると、涙腺も照れたように「ぱぱ……」と声を上げた。
「異物じゃなくて……フェロモン……?」
呆然と呟く鼻腔をよそに、脳は淡々と結論づけた。
「つまり今日の異常事案はすべて、恋の予兆だったということだ」
臓器たちは一斉にため息をついた。長い一日だった。そしてそれが、まだ始まりに過ぎないことを、脳だけはすでに知っていた。次の接触まで、おそらく数時間もない。対策課への出動要請は、今後も続くだろう。
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その瞬間、外から声が聞こえた。
「なんか今日、体調悪いな……風邪かも」
臓器たちは絶望した。
「……恋と風邪の区別がつかないとは、持ち主の感知レベルに問題があるな」
脳が、冷徹な声で吐き捨てる。
「努力が報われないタイプだな、これは」
心臓もやれやれと拍動を遅くした。
「……『お粥様』、戻しまーす」
「やめろ」
自暴自棄になった胃の宣言を、食道が即座に切り捨てた。
(了)




