12−2 地下
「何の部屋だろう」
心臓がどくどく鳴って、耳にまで聞こえてきそうだ。
緊張と恐怖が入り混じったような圧迫感を感じながら、足音をたてないようにゆっくり廊下を歩き出すと、一瞬、妙な匂いを感じた。
自然の匂いではないが、特徴のある匂いでもない。ただ、独特な香りで、嗅いだ覚えがあるような気がしたが、何の匂いかはわからなかった。
それに、別の音が聞こえる。
囁き声?
それに気付いた時、背筋に寒気が走った。
気のせいか? けれど人の声のような気がした。小さな声で、噂話でもしているような。
口を開いていたせいで、口の中がひどく乾いてきた。飲む唾もない。
学校の廊下のような、長い廊下。
ゆっくりと歩いて、あと少しで扉の前というところだった。
いきなり、身体中に衝撃を受けたのだ。
「きゃあっ!」
花奏は勢いよく後ろに倒れた。何に当たったのか。空気の層が当たったように、吹き飛ばされ、花奏は床に転がった。
「いったあ」
「大丈夫かい!?」
「ブラン先輩? あたた」
「グルナディーヌ嬢から、君が犯人を追っていったと聞いて」
「グルナちゃんから……」
「怪我を?」
「……いいえ。何も。ここ、三階?」
「三階だよ。大丈夫かい?」
周囲を見回して、花奏は唖然とした。
花奏が転がった場所は、巨大迷路のあった地下ではない。先ほど犯人を追ったときの、校舎の三階の廊下だ。
落ちたはずの床も元に戻っており、まるで夢を見ていたようだった。
「攻撃をされたのかい?」
「いえ、犯人、犯人は、捕まえられなかったです。顔も、制服も見れなくて」
「一階から追ったのだろう? とっくに逃げてしまったんだ。何もなくて良かった。グルナディーヌ嬢と偶然会って、急いで来たんだよ」
「グルナちゃんは?」
「グルナディーヌ嬢は、みんなと一緒だ。大丈夫だよ」
「それなら、良かったです」
ホッと安堵しつつ、けれど、頭の中は混乱の渦に巻き込まれていた。
夢だったのか? 転んで頭でも打ったとか?
だが、弓を引いて、矢を射て、蜘蛛をかすった。変な部屋に入り、妙な匂いも嗅いだ。
けれど、夢としか言えないように、床は元に戻っている。
「バグ……?」
今のも、すべてバグなのか?
「とにかく、行こう。あとは警備たちに任せるから」
ブランドロワは手を伸ばし、花奏を立ち上がらせる。その手は冷たかったが、その冷えた手が夢ではないと教えてくれるようだった。
ただのバグなのか? あんなことが起きるような世界なのか?
青藍の住んでいる神社で起きたりしたら、彼は一人で対処できるのだろうか。
彼ならば、たいしたことじゃないと言うだろうか。
今すぐ青藍のところへ行きたい。
報告したいのか、会いたいのか、よくわからない。けれど、会えばこの震えはおさまる気がした。
「何か、気になることでも?」
「いえ、犯人の姿、まったくわからなかったから」
「グルナディーヌ嬢を狙ったのならば、僕がらみかもしれない。さ、行こう。勇敢なことは素晴らしいと思うけれど、攻撃を受けたのだから、心配を掛けさせないでくれ。グルナディーヌ嬢も心配している」
「……はい」
一階に降りれば、グルナディーヌと猫を抱っこしたノワール、ヴェールが一緒にいた。
グルナディーヌが泣きそうな顔で近寄ってくる。
「あなた、いきなり犯人を追うなんて、何を考えていらっしゃるの! 何かあったら」
「グルナちゃんは平気?」
「わたくしは、大丈夫よ。あなたの方が」
花奏に怪我がないか、確認してくれる。
「血が出てるぞ」
ヴェールは腕が花奏の手をとった。手の平からうっすら血が滲んでいる。吹き飛ばされて手をついた時に、傷ついたようだ。
ヴェールは手をかざすと、軽くなでる。それだけで傷が消えた。
「え、え!? すごーい」
ヴェールは治療士の役目を目指していると言っていた。魔法で治療ができるのだ。治療ができるキャラがいるなら、モンスターとの戦いが起きるわけである。
まさか戦闘ゲームのように、モンスター退治に行けとか言われないよな? などと考えてしまう。あり得て怖い。
「ひどい怪我でなくて良かったですわ」
「心配かけてごめんね。ていうか、グルナちゃん、この剣どうしたの?」
グルナディーヌは、なぜか剣を持っていた。刀のような、細身の剣だ。
「すぐに取り寄せたのですわ。あなたに何かあったらと思って」
「かああっこいいいー。本当に剣好きなんだねえ」
「あなた、……はあ、わたくしが得意なものなど、剣しかありませんわ。結果は出ていませんけれども」
そうつぶやいてから、グルナディーヌはなぜか焦ったように口を閉じて、ブランドロワを横目で見やった。肩を落として、ごまかすように、「無事でよかったですわ」と口にする。
「グルナディーヌ嬢の剣の腕は素晴らしいんだよ。けれど、腕を見せるならば、またの機会かな」
「申し訳ありません」
「君の腕はよくわかっている。今日はもう大丈夫だという話だよ。さ、もう行こう」
ブランドロワは、グルナディーヌが剣を持つことを気にしているわけではなさそうだ。グルナディーヌはそれでも遠慮がちに笑って、瞼を下ろす。ブランドロワはむしろ、結果にこだわっているグルナディーヌを心配そうに見つめた。
ブランドロワと婚約するには、何でも結果を出さなければならないという、強迫観念に囚われているようだ。
理由があるのだろうけれど、ブランドロワも心配しているのだから、話してみればいいのに。
そうは思っても、簡単にはいかないか。
花奏だって、黙っていることはたくさんある。
「グルナちゃんが剣を振り回す姿、見てみたいから、今度見せてほしいな」
「まあ。……そうね。機会があれば」
「うん。楽しみにしてる」
「それより、スカートが汚れているわ。どこでこんなに汚されたの?」
グルナディーヌがハンカチでスカートの汚れをはたいてくれる。スカートには、土と、草を踏んだような黄緑色の汁がついていた。
「外で草むらにでも座ったわけ?」
ノワールがそれを見ながら眉をしかめた。三階のどこで、そんな汚れることになるのだと。
夢ではない。
やはり、バグだったのか。
では、あの部屋も、何かのバグで、巨大迷路に繋がったのだろう。そんなバグがたびたび起きたら、シャレでは済まない。もしあのまま閉じ込められたままであれば、どうするのか。
「聞いてんの? あんた、顔色すごい悪いよ」
「大丈夫。大丈夫だよ。はー。グルナちゃん、無事で良かった。なんか、今のでお腹すいちゃったあ」
「何だよ、それ」
「まったくあなたは、緊張感のない方ね。でも、ありがとう」
「えへへー」
そこは笑い飛ばして、あとはブランドロワに任せることになった。学園の警備については王族の仕事だからだそうだ。
彼らにバグについて話すことはできない。
話すことができるのは、彼しかいなかった。




