異邦人3
集中する際、力まずに行うのは難しい。しかし、咥えた死にかけの男をうっかり噛み千切ってしまうのは、本末転倒である。幼い頃に見た夢と同じく、強く大地に引き寄せられる度、彼女は滑空するように力を抜いた。運良く、背の被膜に風が入り込めば体が浮く。噛み締められない口元からは涎が垂れ、死にかけの男には悪いと思いながらも何とも出来ず、街道を目指した。猿轡とは単に不快なものなのだなと変な事も考え、口からダラダラ流れるのを止める術はなく、下顎まで濡れ、最悪だった。
また、集中が途切れれば、大地の引力が強まるような気がする。どう足掻いても、体の高度が落ちる時は口元だけ気にしながら、間違っても噛まないよう、背中から樹木の先に落ちた。彼女の中で竜のイメージは巨大で重く、樹木を薙ぎ倒して大地に叩きつけられると思っていたが、樹木の頑丈さと繁殖密度に助けられたか、頂点側の若い枝だけ折れてクッションのようになる。多少、棘が刺さる感覚があるが、正直助かっていた。
「……ぅぐ…」
微かに、微かにだが、口元の男が呻く。うっかり噛んだかと飛行、いや、滑空中、彼女は何度も肝を冷やした。しかし確かめる事は出来ないものの、タイミングを見れば、どうやら跳躍、着地の際の振動で苦しんでいる様だ。こればかりはどうしようもない。
―――――――――早く、着いて。
竜の身と成った今、雄の虎を心配する必要はないだろう。問題があるとすれば、この浅い森では竜の身を隠せないという点だ。どの道、拠点を変えることになるのかと心中で苦笑する。よもや竜という存在はなく、目撃された瞬間、化け物として討伐されまいか、それは少し悩ましい。後ろを振り返らずとも、跳躍しては木を折り、上空から見れば綺麗な点が続いているだろう。虎で移動した数時間が、さらに大きな竜となれば、もう少し時間を節約できるのではと考えたが、口元に慎重になりすぎたせいか思ったように進まない。やっと街道の、石畳の色が見えた時、彼女は安堵のあまり両足から落ちた。
ドスッと、冗談のような音と振動に、一時バランスを崩した彼女は男を殺してしまったと思った。軽く顎が動いた感覚があったのである。けれど、奥側、歯の隙間に鋭く大きな魚の骨が入り込んだような、軽い痛みに似た違和感があり、混乱する。もしや男の折れた骨でも、と血の気が引いた彼女だが、舌の上には血の味がせず、切れ切れと男の声がし、安堵した。
「申し、訳…ござい、ませ、…ん。剣を、つっかえに……」
なるほど、この男、悪運が強く、妙な勘だけは鋭いようである。彼の機転にほっと息を吐こうとしたが、確か火を吐く気配の自身、彼女は息を吸った。男の体臭だろう、変な、腐ったような臭いがし、早く彼を解放したくなる。そういえば、彼の腕にはウジも湧いていた。今、口の中には彼と、その両方が在るのである。即座に吐きだしたい気持ちを抑えるのは難儀であったが、もう距離は見えていた。
気合いを入れるように唾液を嚥下すると、やはり腐臭がする。田舎育ちであるため、目の悪い祖母が洗いこぼした、小さな小さなアブラムシが浮いた味噌汁は気合いで飲めるようになったが、未だに5mmでも青虫やさなぎがあれば、綺麗に箸で避けて食べていた彼女である。大地についたはずの足が痺れるような、脱力するような嫌悪が支配するが、変な意地となって街道までを滑空した。足が石畳に着いた瞬間、半泣きの彼女は首を下ろし、咥えた男を嫌々ながら舌で前へ、石畳へ下ろす。
「があぁっ…!!」
中年男性が痰を吐きだすような、嫌悪交じりの声が漏れた。当然、今すぐ、水で口を漱ぎ、吐き出したい。奥歯の違和感は、舌で下ろす際に男が協力してくれ、無いも、長らく口を開けていた顎は疲れ、思ったように唾液も吐き出せない。
「があぁ、ぐっ…があぁぁっ…ぐぐぅ…」
何とか唾液を纏めてぺっぺっと吐く彼女に、石畳の上に転がった男は、途切れ途切れだが「申し、わけ…」と謝罪を繰り返した。謝罪なんぞ、本当にどうでも良いので、水が欲しいと切に思う彼女である。だが、今の竜の体にとって、例えウジであろうとアブラムシ程度。出身は南の、しかも海沿いの彼女だが、北の山辺では虫も食べると聞く。その二つを念仏のように心中で繰り返し、ようやっと彼女は諦めるような呻き声を上げて、がっくりと横倒しになった。
少し余裕が出来たか、視界に入った自身の肌の色に顔が歪む。虎から竜と成ったためか、細かな鱗が浮く肌は、体毛こそないものの、黄と黒の縞模様である。目立つ事この上なく、間抜けだ。密林に棲む蛙は奇抜な色と、強力な毒を持つというが、恐らく自身に毒はないだろう。うっかり息を吐きだすと、炎が出るぐらいである。なんぞぐったり、精神的な疲労が襲ってきた。やり遂げたと深く浅く安堵の吐息を吐けば、案の定、鼻先が熱くて適わない。虎の身も大変不便だと感じていたが、竜とはさらに面倒な体であると実感した。このまま横倒しになっていれば、通りかかった人間が化け物と言って殺してくれるかもしれない。石畳上であるせいか、じりじりと太陽の光が体を焼いてくる気分だ。
自己嫌悪と妙な葛藤に悩まされる彼女の横、下ろされた瀕死の男は、全身唾液まみれの悲惨な状態であったが、久方ぶりに仰ぎ見た空に目を閉じる。彼自身も、今生きているのが不思議な程、体力の限界を感じていた。”異形”と呼ばれる黒い不定形に襲われた際、魔の法も使えず、下級騎士である自身一人でそれを倒せるとは全く思っておらず、あの時、死を覚悟したのである。腕を取られて骨を折られた際、たまたま視線が向いていた草陰に虎の姿を見た時は、侮辱を行い、下級騎士である自身さえも救おうと、上帝が再度現れてくださったのだと思った。だから、微笑んだ。そうして、何があろうとも上帝の、彼の後を追おう、受け取って頂けなかった謝罪の代わりに、人生を捧げようと決心したのである。異形を仕留め、ふらりと去っていく上帝の姿に、彼が出来る適当な治療のまま追い懸けたのは我ながら下策であったが、逃せば次はないと思ったのだ。こういう時の勘は当たるので従ったが、お仕えするどころか、虎の姿から元へと戻られない上帝に、食事や解熱の配慮をさせてしまう始末である。流石に下の世話は根性と自身の矜持で済ませたが、上帝が仮住まいとしていた洞窟の異臭の大半は自身の不始末であろう。
荷物にしかならない彼を、不器用な虎の身でありながら介抱する姿に違和感を抱いたのは、熱にうなされた夜である。洞窟から何かを掘り出した上帝はそのまま外へ出、帰ってくるなり彼の顔に、ぐっしょりと水に濡れた大きな上着のような物を落とされたのだ。それが、微かに、だが、女物の香水のような、甘味を帯びた香りであったので、ぼんやりと故郷の母を思い出したのである。このまま死ぬかもしれぬと考えていた彼は、水に濡れた布を落とされ、上帝が慈悲で息の根を止めてくださるのかもしれぬと、故郷の父母に謝罪を呟いた。それは彼の見当違いであり、そろりと額側に布を寄せられ、さらに興味無さそうに背を向けられたにも関わらず、痛みに呻けば、尾で慰めに撫でられる。
一の大陸の上帝は、男性である。王子と共に乳母に育てられ、人並みの経験を得たとはいえ、母親や女を連想する看護をするものだろうか。以降、熱が一時下がる度に上帝の姿を観察して違和感は増え、そもそも、こんな辺境へ上帝が来る事態もおかしいと気が付いた。けれど、上帝の名を名乗り、虎となったこの方は何者であろうか。虎となれる上帝は、ただ一人、一の大陸の、である。二や三の大陸(彼は足を運んだこともないが)は、別の化身であるのは、わかりきっている。
黒い不定形であるとされる、”異形”であろうか。けれど、何度か討伐に参加した時に感じた恐怖や嫌悪と違い、あれだけの侮辱と暴力に一切の人を傷つけず、彼を”異形”から助け、今なお体調を窺う姿にその考えは即座に霧散した。時折姿が見えぬと洞窟の出入り口を眺めれば、月見をするように遠くを眺める虎の姿が大変寂しげに感じるのである。虎の姿を取る何者かは、彼が無理に追う間も、何度も諦めさせるような行動を取っていた。こうなる事を予想していただろう、呆れた溜め息のような動作も。まだ彼の体力があるうちに、大きく唸って威嚇し、追い返そうとした事さえある。姿はどうあれ、人の心を持っているのだと、虎は示していた。
上帝と違うと気が付いた際に、村へと帰れば良かったのだろうが、どうしても、それこそ死んでもこの虎の傍を離れたくないと彼は思った。奇妙な、他人が言えば、馬鹿な出会いかもしれぬ。だが、この人を虎とさせたのは、彼の暴力と短慮であった。上帝への畏怖や敬愛とは違う、他人を不幸に貶めた贖罪が、彼に虎の姿を追い駆けさせたと、今では思う。
夜に浮かぶ月を思わせるような、暗く、重く、静かな虎との生活を思い出し、現在、瞼の向こう側に温かな日を感じる今、いよいよ死が間近に迫ったとも彼に後悔はなかった。気懸かりがあるとすれば、虎と成った方が何かに突き動かされるよう、さらに巨大な異形と成られてしまわれた事だろうか。
何という生き物か、物知りな友人であれば答えられるだろうが、彼にはその姿の知識はない。背後からでもその変化に彼は恐怖したが、その方が取った行動は、これまた慈悲深きもので、彼を森から運ぼうと言うのである。神とは、この様な方であろうか。慎重に、それこそ体に枝が突き刺さるのも構わず、ただ男の身を案じて移動するのを、彼はそう思った。
だが、見も知らぬ人がこの方を見たら。共に過ごした彼でさえこの異形への変化には恐怖したのだから、まず間違いなくこの方を害するだろう。このまま死ぬには、何も返せないままでは、我が身が惜しい。虎との生活を思い出に逝くのも悪くないと思いながら、さらにそう思ってしまうとは、欲深い事だ。首だけ動かせば、疲れたというように横倒しになる、巨大な姿。虎の時と同じく黒と黄の縞模様であるためか、洞窟で共寝を思い出させる。昨夜もそうであったというのに、それは昔の事のようだと、彼は微かに微笑んだ。