一の大陸の上帝3
森へと入った一の上帝は、下半身の装備はそのまま虎と成って駆けたためか、走りにくさに辟易していた。すぐさま後を追ったというのに先行く虎の姿は見えず、呼びかけるように咆哮すれば、追い縋ってきた第二師団長に発見される。彼が余程の事がない限り手放さない剣まで置いて来たのを見、少しバツの悪く唸った。第二師団長は元傭兵。剣よりもその場のものを武器とし、敵を砕く拳や蹴りを主体とした体術の方が得意なのである。何の説明もする暇がなかったとはいえ、彼をそれだけ慌てさせたのは悪かった。
「ぐうぅ…」
先ほどの虎を追いたい気持ちが半分、師団長に説明したい気持ちが半分。上帝は、唸りながらその場をうろうろと落ち着きなく回った。それで何か考えたのか、師団長は軽く咎める顔を変え、ちらっと地面を見る。
「後ほど説明を頂きますぞ、上帝。………しかし、あの虎、随分と賢いようですな」
争いとなった場合を考えるのは彼の癖か、「剣を置いて来たのは、失策でした」と言う。何の事かわからずに軽く顎を上げた上帝に、師団長は左右を見ると草藪に歩み寄り、その芝の上に引っ掛かっていた葉付きの枯れ枝を引っ張ってくる。持ち手部分には噛み跡があり、上帝は目を丸くした。
「恐らく、足跡を消したのでしょう。先ほどまでは獣の足がありました。……臭いは追えますかな」
無我夢中でそんな事にも気が付かなかった上帝は、言われて風を嗅ぐよう鼻先を上げた。この場に森とは違う獣の香りがあるが、こちらが風上でわからない。風向きにも注意を向けた師団長も悟ったか、「ますます、賢い」と挑むように笑った。防衛以外で相手を害する事を咎めるように唸れば、「御身に何かあれば、如何します」とにやにやと試される。
上帝は彼の様子から、自身もその場にいなければと強く思った。ともすれば、護衛と称しながら勝手に捜索へと出歩きそうな師団長を顔を歪めて威嚇し、この風向きが悪いと、一の上帝の力の一つ、風の流れを変える。気が付いた師団長が視線だけこちらに向けたが、今居る場所とは別から獣の臭いがした。大きく迂回したのかと駆けようとすれば、師団長。
「ご覧ください。あの虎、この岩場で足元を拭っていますぞ」
上帝が振りかえると、感心したような師団長が腕組しつつ、近くの岩を眺めている。苔が削れ、土がついたそれによく気が付くものだと上帝こそ、彼を感心した。深く息を吸いつつ上帝を振り返った師団長は、やおら部下に対応するような鋭い視線を向けている。
「お笑いくださいますなよ。あの獣、まるで………」
―――――――――人の様だ。
師団長も流石に続けられなかった言葉を、吠え声で上帝は続けた。魔の法が使える第五師団長ならともかく、第二師団長には虎の言葉はわからない。けれど、困ったように言い止めた続きを上帝が言ったとわかったのか、途端に凛々しく戦人の顔をした。
「お供いたします、上帝」
ともかくこの場でわかる事はなく、野生の虎にしては異様な行動にある種の不気味さを感じた師団長は、判断を上帝へと委ねる。物珍しさからこの様な行動をする上帝ではない。何かしら理由や、尊き者にしかわからない感性もあるのだろうとの判断だ。『うむ』と頷くような仕草をし、上帝はその場を離れて奥へ進む。風を操り流れを変えたものの、大雑把な方角しかわからず苛立った。
四足の上帝と二本足の師団長は、狩人と猟犬のように先を進む。野生に近い上帝よりも、山狩りに慣れた師団長の方が何かしらに気づく事が多く、むしろ助けられているのが上帝の癪に障る。異形討伐にも従軍し、それほど世間知らずとは思っていなかったが、こうして経験の差を見せられるとどうにも胸が騒ぐものだ。
「集中なされませ。追うと決められたのは、上帝ですぞ」
気が散りやすい上帝を、そのたびに引き戻すのも師団長であり、益々身の置き所がない。と、風から辿った匂いの元らしき場所へと飛び出るように着地した上帝は、その場に残る黒い残滓に異形の存在を知った。途端、彼と背を向けるように鋭く周囲を把握する師団長だが、大地に残るのは残滓のみで、騎士や上帝とは違うものの、討伐後である事を示している。
「随分、荒い。……異形であっても、これでは同情も湧きますな」
そう、討伐後に乱れる魔の法を整えてこそ、異形の存在は消滅できる。大地に乾いた水のように残る黒い影、生きたまま殺されているそれに師団長も軽く眉を潜めた。魔は読めない彼だが、血や戦闘には敏感なのだ。上帝はそろりと、足元の黒い影に頭を垂れた。ふわりと風が集まってくる。乱れた魔は激しい怒りを示し、風はそれを宥め、黒い影は癒された分だけ大地へと消え、風に乗って流れていく。魔の乱れが正された。
「あの虎、でしょうか」
少し不安げに呟かれた言葉に、上帝は薄い目を上げた。そうであれば、と願ってきたのだ。異形を退けるのは単体の人や猛獣では不可能である。激しい怒りに少し心を痛めた上帝であったものの、師団長の言葉に上気した。ただ一人、各大陸に在る孤独な存在と同じものであったなら。代替わりの際に一度だけ会った先代の記憶など、幼かった彼にはない。それがどんなに寂しく孤独か、他の誰にもわからないだろう。
―――――――――自身と同じ存在に、逢える。
震える歓喜のまま、先ほどの虎へと呼びかける。どうか応えてくれ、我が同胞よ。会ってどうするなど、この際どうでもいい。まだ若い上帝である自身が代替わりするとしても、それはそれで良いのだ。何故か埋まらない心の隙間を満たしたい。先代は大変厳しい老人であったが、次代の自身と会った際、初めて涙を流したと聞く。代々の上帝は、満たすものを探しているのかもしれない。
―――――――――貴方に、お逢いしたい。
痺れるような興奮の中、呼びかける声に応えるものはなく、上帝は悔しげに噛み締めた。普段とは違う上帝に師団長も口を挟めない様子であったが、縄張りのように木に印をつけた範囲を見るにそれほど遠くもないだろうと考えて、上帝を慰める。
「お気を落とされますな。かの虎は、恐らく近…」
―――――がおぉんっ!!
師団長の言葉を切って、短く、だがはっきりと反響した咆哮に上帝は上空を仰いだ。虎とは別種の声と判断した師団長もまた、木陰へと反射的に身を隠して窺う。ふっと雲が日を遮るように、薄い影が上空を流れた。思わず絶句する上帝。はっと彼の存在を思い出して移動した師団長は、上帝のように固まりはしないかわりに、恐怖に息を飲んだ。その姿は、大昔の神話や童話で出てくる。巨大な被膜と、蜥蜴を模した巨体、頭部から突き出た角は象の牙を逆さにつけたよう。
「なんと……」
数多くの死線を潜り抜けたと自負していた師団長でさえ、予想だにしなかった存在にどう表現して良いかわからない。上帝は森を出るように飛ぶそれを見て、希望が砕かれる気がした。空飛ぶそれから異形の感覚はない。けれど、けれど、これは…。
「………………”異形”であろう」
期待した分だけ失望していると、上帝は思いたくなかった。ゆっくりと人へと姿を戻し、上半身は裸、下半身は伸びた下衣と、遭難者のなりの彼は、乱れた髪を乱暴に掻きあげて言う。伝説である竜の姿を見た師団長は、冷静を欠いた自身を自覚していたが、それでも上帝の言葉に軽い疑惑の視線を向けた。あれほど、虎を追う事に熱心だった上帝だ。森の上を行く竜が、先ほどの虎と同じ黄と黒の縞模様だったので、先ほどの虎が化身したと見て間違いはないだろうが、一番最初に駆けだした姿は、親を追う子にも見えたのだ。
「で、あれば、騎士団を編成する必要がありますな」
上帝の本心を図るためにも、声をかける師団長だが、上帝に変化はない。あんなモノと戦ったことなどない師団長だが、命じられればやる。もちろん、生きて戻れれば、と最初に身の内に隠された一文があったが、上帝は少しだけ、本心を隠す悪い大人の表情で笑った。
「心配するな。もう、風を送った」
上帝からの異形討伐では、第二師団、第五師団含め、他二師団が追従する。相手は、伝説の竜の姿を取る”異形”であるゆえ、どこまで対処できるやらと彼は計算を始めていた。少なくとも、二週間の間に師団は到着する。近隣の集落もアレを見れば、一番近い東部の街へと自主避難するだろうが、その間の作物の生産がどうなるか。こっそり物流を抑えておく必要があるなと、頭を悩ませる師団長であった。




