9-9『一頭の羊』
「角がないからおかしいんだって言うの。頭の上にあるものがぜんぶみたいに。私にはお父さんもお母さんもいない。でも、お兄ちゃんとお姉ちゃんがいるからいいのに、ちがうって言うの」
「ごめんね……貴方にそんなこと言わせたくなかったのに……」
「なに言われても平気だもん……」
「みんなが欲しがってるのは、頭の中にあることなの。私達には何も関係がないの。だからね、アルバが傷つかなくていいの……」
「お姉ちゃんだって。もうずっと眠ってないの、知ってるよ」
「そんなこと……」
ルカは上手く言い返せなかった。言い訳は、足元から這い上がってくる匂いにふっとかき消える。
ルカは、自分は不自然なくらい恵まれていると思っていた。命の危険はそこまでやってきているが、扉を半分開けて、顔だけを廊下に出しているノクスの背中は落ち着いており、胸の中のアルバもまた、ちょっとでも隙を見せれば、愛をあふれさせるのだから、ルカの両手にはもう収まらないほどだった。
二人がいるなら何処でだって生きていける。時間も、心も、全部渡しても足りないくらいだ。これまで行動で示すことで食事を得て、お金を得て、居場所を得てきた。今もまた行動をすべきだと、ルカの経験は告げている。
――城の外へ、王国軍の追ってこない、どこか遠くへ…
だけど、本能がそれを許さない。
次いでルカは、またノクスを見た。頼もしい弟は、ときおり頭を引っ込めて、避難する人たちの流れを陰から窺っていた。この個室は廊下の最奥にあり、患者の避難に奔走している治癒師も足が遠のき、存在は完全に無視されていた。
とにかく逃げる必要があるが、飛び出す機会は選ばなくてはならないのだ。火の手や王国軍だけでなく、魔族の目も避けなければ、捕まって何をされるかは想像できる。自分はいい、けれど二人は――
「お姉ちゃん」ルカの思考にアルバが口を挟んだ。けれどルカは、もう一度妹の体をつよく抱きしめた。
「……アルバ。この先どんなことがあっても、こうして抱き合うことの素晴らしさを思い出して。ノクスと私だけじゃない、貴方を愛してくれる人たちが、必ずそばにいるから」
自分以外の温かさを覚えていてほしかった。ときどき、ルカはわからなくなるのだ。こうして妹を抱いているとき、本当は抱いてもらっている気がしていた。
「お姉ちゃん、どうして泣いているの?」
アルバはルカの腕の中にいたから、顔を覗いたわけではなかった。だけど、耳の上にちょうど姉の口元があって、熱い吐息がかかった。それは涙を堪えるときのものだった。姉の腕から抜け出すと、アルバは驚いて目を見開いた。
「わ、わたし……」
言葉にしようとしたとき、ルカの中に抑えがたい気持ちがあふれ出そうになった。
ルカはじっと窓の方を見つめた。
片膝をついた姿勢からでは、窓のさらに下にある地上は見えない。けれど、ルカは、火災のざわめきをすり抜けて、熱い外気に混じってそこに立つ「あの人」の静寂を、求めていた。
壁際に身を隠して、将軍と魔王の言葉を聞いているあいだ、ルカは悪意の前にただ一人立つ魔王の元へ飛び出して、守りたい気持ちであふれていた。だが、そうする資格すらないことはわかっていた。
今ここで行かないでとアルバに懇願されたからでも、ノクスとアルバの存在が何より大事なものだとか、そういったことではない。魔王を矢面に立たせている原因が、人間である自分にあったからだ。勇者の称号を受け取り、ノクスとアルバの治療をしてもらう代わりに勇者の使命を受けた。将軍が裏切者となじるのも当然のことなのだ。
王国に行き渡る鉄の掟に、王命に背いたものは死すべきというものがある。その法に従い、ルカを罰する権利が将軍にはある。そして魔王にもまた、魔族の国を治めるものとして人間を遠ざける義務がある。
けれど、魔王は――あの人は、唇に指を立てるその動作ひとつで、ルカの持つ軽率さや後先考えない猛進を、抑えてくれた。
ルカにとって、魔王は援助と献身の象徴だった。
魔王などと称して不幸と殺戮の象徴として描いていたのは、人間のつくりだした虚像に過ぎないと知ったのはここに来てからだ。彼と出逢ってから、一度たりとも悪しき側面を見ることはなかった。他人は、それが良き面だけを見させていたに違いないとなじるかも知れない。けれど、ルカは心の底から否定できる。
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