8-11『自愛』
ルカは戸の取っ手に手をかけ、ゆっくりと力を込めた。
普段であれば、部屋の奥に文官長が控えている。しかし今日はいつもの席ではなく、手前の席に着座していた。数百名の文官を束ねる彼女は、ルカが入室するといつも口端の皺を深くして、にやりと笑う。
「座んな」と適当な場所を顎で示し、種族や歳の違いなども余所に置いて、色々な話をする。治癒師の務めはきつくないか、周囲の目はどうか、フッセルルの気遣いが足りているか、そしてノクスとアルバの病のことも気遣ってくれた。最後にはあんな奴の養女になるなんて面倒なことはやめとくんだね、と、しきりに武官長への文句を連ねるのだ。そういう時間が、ここにはあった。
だが、今日の彼女の面持ちは固い。
入室したルカを一瞥しただけで、その視線は空へと流れた。頬骨に刻まれた縦の傷跡が、革の眼帯と相まって戦場のような威圧感を放っている。しかしそれ以上に、最奥に腰を下ろす男が放つ空気が、室内のすべてを支配していた。
片眼鏡を掛けた男——補佐官は、ルカが直立して言葉を待とうとも、視線を上げようとはしなかった。淀みなく記帳へ尖筆を走らせる彼を前に、あの文官長でさえ口を噤み、発言を待っている。
ルカに名を授けた武官長と、この眼帯の文官長は同格の役職にあると聞いていた。その一人がただの傍観者に甘んじている様子を見れば、奥に座る男が魔王の右腕であり、城内のあらゆる事象に眼を光らせる役目を担っているという話も頷ける。かつて文官長は、敬意と畏怖の混じった顔でそう語っていた。廊下の隅の塵から、地下牢で囁かれる密告に至るまで、彼の知らないことはこの城には何一つないと。
「私はこれまで多くの人間を見てきたが、ここまで己を押し通す者にまみえたことはない」
男は記帳を閉じると、机の端へと寄せた。尖筆がその横へ隙なく添えられる。帳面からはみ出した筆先は、親指で静かに押し戻された。そこで初めて、男はルカへと視線を向けた。
「お二人ともお時間を割いてくださりありがとうございます。ですが、今日の面談はいつもとは目的が異なるのでしょうか?」
「誰が発言を許した。お前はもう城に何日滞在している? 医官長や武官長から過分な慈しみを受けている身と聞くが、履き違えているのではないか?」
「地べたを這いずっていた日々に比べれば、この城での暮らしは身に余るほどに満ち足りています。フッセルル先生をはじめ、目を掛けて下さる方がいるおかげです」
「時計屋はまだ復調していない。彼は治療を始めてから、まだ一度も寝台をおりていない。いいか――治癒師は、かろうじて彼の臓器を繋ぎとめた。血を補い、皮膚を縫い合わせ……あの男は十日以上、嘔吐と熱でのたうち回った……その対価がなんだと思う。人間の子供だ。今この城に保管している」
「私の弟と妹は物ではありません」
「人間という強欲な種は、絶えず理不尽な火種を持ち込んでくる。ここには、人間に分け与える薬も、糧も、慈悲の欠片もありはしない。だというのに、人間の息遣いが聴こえる。何故だ?」
「生きるためです。補佐官」
「焔咳病は既に回復期に入っていると聞いている。視力は戻り始めているのだろう」
「癒え始めたばかりなのです。視界の濁りが晴れるまで、留まることを許してくれませんか」
「明日の天蓋は一点の曇りもなく晴れ渡る。家族を連れ、住み処を移すにはこれ以上ない好機と言えるだろう」
「……陽光の下で、光を失ったままのあの子たちに、死を待てとおっしゃるのですか」
「お前の存在がどれほどの害毒を振りまいているか、理解しているのか。城内で人間を見たという声は、今なお止むことがない。武官長がお前を養い子にすると公言した後でさえだ。診療所からも、連日、不満の叫びが届いている。お前は己を無害であると装うが、剣を手にし、人を殺める意志も持っている……これは婉曲表現か? どう思う」
「正しくはありません。誰かを殺める意思は持っていません」
「何の為に、ここへきた」
「魔王を討つ為です。ですがそうしなかったのは、己の過ちに気づいたからです」
「うんざりしているか?」
「いいえ」
「私はしている。時間はもっと価値のある事に使われるべきだ」
「貴方にはそうかも知れません」
「違う、お前は何も分かっていない。この地に城を築く前、我らの一族の集落はさらに北の地に在った。そこには、魔族だけでなく、人間の営みも寄り添うように存在していた。ある時、長雨が大地を海へ変えるほどの大洪水を起こした。魔族は山へと難を逃れたが、穴の中に隠れた人間たちは一族ことごとくが溺れた。彼らは穴の中で口に松明を咥えて、たえず息を吹きかけては身を暖めていた。我らの先祖である偉大な者は、その特性をもって洪水を鎮めると、暗闇に灯る火を目印に人間たちの元へ真っすぐに向かわれた。人間は深く感謝し、我らに火を分け与えた。そして我らは、洪水のあとに生まれた豊かな大地を人間に与え、自らは山の上に居を構えた。それが、この城の興りだ」
机が殴打される。弾みで、尖筆が床へと転がり落ちた。塔棲みの鳥たちが羽ばたき騒いだが、その羽音すら、今のルカには届かない。




